〈2〉 風すら届かなかったが、この想いは届く
換気扇がごうんごうんと動き、低い音が部屋中に響く。
自分の身長よりも少し高いところにある四角い窓から橙色の光が入り、年季の入ったタイルを正四角形に照らす。一緒に空中でゆらゆらと舞う小さな埃も照らしている。
薄暗くてじめじめしていて、辺りには鼻をつんざく不快な匂いが漂っている。
ここは特別棟3階の奥にあるトイレで、ここは普段生徒があまり来ない。故に知る人ぞ知るトイレとして知られている。
そんなところに僕はお尻を付けて座っていた。
そして、今目の前には二人の同級生がニヤニヤしながら立っている。
そんな二人を見上げている僕。
心臓がキュッと痛むのを感じるけど、今は見なかったふりをする。
だって僕は強くならなくちゃだから、強くなって早くあの人に認めてもらうって、そう決めたから……。
「おいお前、ちゃんと確認したんだろうな?」
「あぁ、ちゃんと見た。というかこの時間、ここ人来ねえからさ」
そう言うと、そいつは僕の顔を見た。
その目はまるで、今から獲物食べる獣のような愉悦で溢れていた。今日は汗がにじむほど暑かったはずなのに、鳥肌が立って手が震え始める。
昔から変わらずに背が低いのと、それに加えて中性的な顔立ちなことも相まって、時折いじめに似たものを受けることもあった。
先生に助けを求めたこともあったが、その時は教壇の前で〝この子はいじめられているので、フォローしてください〟みたいなことを言うだけ言って、後はほとんど不干渉。
当然、その分だけ注目を浴びたので話しかけてくれる人もいたが、それは自分が〝可哀想な人〟だからであって「僕に話しかけてくれている」という感覚は全くなかった。
おかげで偽善者と傍観者は増えた、では救世主は?
……でも、親に言うのは嫌だった。親に迷惑はかけたくない。
これはただのわがままなのかもしれない。
でもこれは自分が悪い子だから。
だから、その尻拭いは自分でつけるのがけじめだろうって、そう思って前を向こうとするけど、結局何もできなくなってしまう。
「……なあ、おい、聞いてんのか?」
我慢すれば誰にも迷惑がかからない、ということを知っているから。
話しかけてきた男が、僕の髪の毛を掴んでくる。
「女みたいに伸ばして気持ちわりぃ」
我慢すればいいんだ。
「おい、下ばっか見てないでこっち見ろよ」
顎をガッっと掴まれて顔をあげさせられる。
「……つまんな、もっといい反応しろよ」
早く終わってくれ。
心を空っぽにして早く時間が過ぎるのを待っていると、制服の右ポケットから着信音が鳴る。
「ん、なんだ?」
あれ、朝ちゃんとマナモードにしたはずだけど……。
男は僕の制服のポケットに手を突っ込んでスマホを取り出した。
「どれどれ、誰からかなー?」
僕に連絡をしてくる人なんて母以外にほぼいない。多分、母だろう。そう思っていた。
「……生徒会長? お前、生徒会なんて入ってたんだな」
全く予想していなかった名前が男の口から出てきて、僕の頭は真っ白になった。
「……へぇー、なに? お前、その顔もしかして」
そいつは、口角を吊り上げて卑しい笑みを浮かべた。
「こいつのこと好きだろ」
僕が今どんな顔をしているかが、自分で分からない。
でも、生徒会長が好きかと言われたら……それは違った。だから、僕は驚いたんだ。電話してきた理由が判らないから。
「ふっ、その顔を見るに図星か。」
男にとって、僕がどんな顔をしたとしてもそう受け取っただろう。都合がいい見方しかしない。
男は僕のスマホをマナモードにすると、その手をパッと離して地面に落とした。
スマホはバキバキと音を立てながら、跳ねて転がり僕の近くに裏返って止まった。表を見ずとも分かる。多分、画面は割れている。
男はそれに飽き足らず、顎に手を当てて僕の全身をまじまじ見始めた。
そして、顔を急に近づけてきたかと思ったら、耳元でこう囁いた。
「お前、よく見たらかわいい顔してんじゃん」
その言葉の意味を理解するのに時間はいらなかった。
その男が制服のボタンに指を引っ掛けて外そうとしてきたので、思わず身をよじって離れた。
「安心しろよ、ちゃんと動画撮って、その〝生徒会長〟とやらに送ってやるからよ」
裏返しで落ちている僕のスマホ画面が点き、タイルの隙間から光が漏れて見える。
殴る、蹴るなら我慢すればいい、ただ体が痛いだけだから。
でも、さすがに〝そういうこと〟をするのは無理だ、精神的にキツイ。
しかも、それ以上に全くもって無関係の生徒会長を巻き込むことが、なによりもっと嫌だった。彼の正義感が強いという意味でも、羞恥という意味でも。
咄嗟に「逃げないと」と思って駆けだすが、出口を塞いでいるもう一人の男に捕まってしまう。
「なに逃げてんだよ!」
「ぁ……やめっ、んっ……ふー」
腹部に強い衝撃を感じて思わずうずくまった。
その間に制服を脱がされ、シャツとズボンを脱がされそして、パンツだけの姿になった。
「男だと思ってたけど、お前、女みたいに肌綺麗だな。毛も全然生えてないし肌が白い、腕も細い。いけるわ」
全身が震えて、男が何を言っているのかもよく聞こえない。
頭が、心が、恐怖に染まっていく。
そんな中でも、視界の端で絶えず光を漏らしているスマホが見える。
もう、こうなったら誰でもいい! 誰か僕を助けてくれ! そう思って、あらん限りの声を張り上げた。
「誰かぁ……た、助けてくださぃ……!」
その声は自分が思っているよりも遥かに小さかった。普段、思いっ切り大きな声を出すことにをしていないため、馴れていないこの喉は、全く使い物にならなかった。
「そうそう、それだよ! その声が聴きたかったんだ!」
その男は恍惚の顔を浮かべると、僕が身に着けているあと一枚の布に手を伸ばす。
視界が涙でぼやけていく。
あぁ、僕の人生はここで終わるんだ……。
そう思ったのと同時に、視界の端から光が消えた。これで完全に希望が失われた。
そう思った時、入り口付近から聞き馴染みのある声が聞こえてくる。
「一年! そんな声出せたんだなー。見直したわ」
僕は知っている。その声は完全に先輩の声だった。
「はあ? お前誰だよ」
「誰とは心外だな……生徒の代表なのに忘れちゃったの? ……あぁ! 今はマスクしてるから分からないか」
「お前……もしかして、生徒会長か?」
「うーん、それはまぁご想像にお任せするわ」
心臓の音がうるさくて周りの音が聞きづらい。
だけど不思議と先輩の声だけはスッと耳に入ってきて、僕の心を落ち着かせる。
「あーそうだ、一年?」
涙でよく前が見えないけど、何でもいいから声がする方を向いた。
「目、閉じててくれない?」
その言葉の意味が分からなかったけど、とにかくその指示に従って必死に目をつむる。
「よーし、おーけー? 行くよ」
―――………
その間、何があったのか分からなかった。
ただ、耳に残ったのは一つの怒号と一つの怯えた声、何かが弾けて壁にぶつかって、そして、走り去っていく二つの足音だけだった。
「一年、もう目開けていいぞ」
目を開けると、先輩が自身の手の甲をもう一方の手でスリスリと撫でている姿だった。
その姿を見て僕は思わず抱き着いてしまった。
「先輩! うぅう……あああぁぁあ」
そして、先輩の胸の中で思いっ切り泣きじゃくってしまった。
「勝手に名前借りた〝生徒会長〟には申し訳ないな」
この事件があった後、スマホの通話履歴には端から端まで着信通知で埋まっていた。
それを見た僕は、再び涙が出そうになったが、今度はちゃんとこらえることができたのだった。
2021/02/22に初投稿。本文は当時の文章から加筆・修正を加えての投稿になります。