最終話
「間違えたっていい。過去には戻れなくても、やり直しは何度でもきくからな。新しく道を選んで、また一から始めていけば良い」
「……でも、それだと貴方が疲弊してしまうでしょう。私なんかの為に、貴方がついてくる必要なんてないわ」
「べつに、苦とは思わないさ。君に振り回されるなら、寧ろ嬉しいくらいだ」
ははっ、と彼は軽やかに笑って、白く大きな掌で私の頭をくしゃりと撫でた。どこか照れ隠しのような、不器用な優しさが滲むその仕草に、胸の奥がつんと痛む。いつもいつも彼はそうだ。私が落ち込む度、ルシウスは決まって、必ず頭を撫でてくれる。昔からずっと。元気づける為に。少しでも笑顔になれるように。初めて撫でられたのがいつだったかなんて、今ではもうすっかり忘れてしまったけれど。それでも、昔から変わらない手つきだ、というのだけは分かる。ちょっと雑だけれど、とてもあたたかい掌。
「だから――」
髪の毛を撫でるように滑り落ちてきた掌が、右頬をやさしく包み込む。親指の腹でそっと目元を拭われながら、私は言葉の続きを静かに待つ。強い意思のこもった、明るく華やかで、美しく、そしてとても情け深い青い瞳を見つめて。
「生きろ、リシェル。間違いも、他の奴らのことも、気にせずに。ただ自分の為だけに生きろ」
それは、静かでありながらも凛と芯の通った声だった。迷いも躊躇いも一切なく、ただ真っ直ぐに“生きる”ことを肯定する、ぬくもりと力強さを併せ持った声。それは、真っ暗な闇の中に差す、一筋の光のようだ、と思った。その光を辿ってゆけば、きっと出口に辿り着ける、と、疑う余地すら与えずに、真にそう信じさせてくれる、確かなもの。
「でも……」
姉が病に罹ってからは、ただひたすらに看病に尽くし、彼女が逝った後は、アルベルトのために“オリヴィア”として生きてきた。そんな日々を重ねるうちに、遠い過去にすっかり置き去りにしてしまった「自分自身の為に生きる」という感覚が、今はもう、どうにも掴めない。それが何だったのか。それがどういうものだったのか。
口を噤んだまま考え倦ね、あれこれと言葉を探してみるけれど、途切れた声の続きをどうしても紡ぐことができない。そのもどかしさと申し訳なさに顔を歪めて唇を噛み締めると、ルシウスはやれやれと肩を竦めて、小さく苦笑をこぼした。呆れているというより、「仕方ないなあ」と言うみたいに。どこか楽しげに、そして、まるで妹を愛でる兄のように。
「“自分の為に生きる”のが分からないなら、他の奴の為でいい。……ただ、それは両親の為でもアルベルトの為でもなく――」
言葉を区切り、ルシウスは穏やかに微笑みながら、濡れそぼった唇を、指先でそっと撫ぜた。涙を拭うというより、それはまるで、キスの代わりのような、やさしい愛撫。
「――俺の為に生きてくれ」
ふと、瑞々しい柑橘の香りが鼻先を掠めたような気がした。そして、真っ直ぐに見つめるアイスブルーの瞳の奥に、オレンジ色の丸い何かがふわりと浮かび上がったような気も。
――だからこれは、あなたの為というより、私の為に食べて。
遥か遠いあの日の、懐かしい一言を思い出して、私は感慨に耽りながらゆっくりと瞬く。まさかあんな台詞をなぞってくれるだなんて、意外だった。だってあれはあまりにも一方的な、当時のルシウス曰く「身勝手で押し付けがましい」台詞だったから。
でも、だからこそなのかもしれない、と、右頬を包む彼の手の上にそっと掌を重ねながら思う。あの時の言葉が、私たちの始まりのだったのなら。彼が紡いだ言葉は、私たちの新しい始まりを告げるものなのだろうから。
「なあ、リシェル」
ことん、と、前髪の付け根辺りに彼の額が軽くぶつかって、人肌の穏やかなぬくもりが、じんわりと肌に広がってゆく。その心地よさに心が堪えきれず、重ねていただけの彼の手を、ぎゅっと握り締めた。指の一本一本を絡め、縋り付くように。
「他の誰でもなく、俺の傍で、俺の為に生きてほしいんだ」
過去へは戻れない、と、ルシウスは言うけれど――。そっと目を伏せ、睫毛に張り付いた雫がぽろぽろとこぼれるのを感じながら、懐かしい記憶に思いを寄せる。過去へは戻れない、と言うけれど。もし何かの奇跡が起きて、たった一度でも過去へ戻れるとしたら。私は間違いなく、彼と出会ったあの日へ戻りたいと願うだろう。拝礼者の少ない教会の、更にひと気も動物の気配もまるでない裏庭。そこに置かれた丸太に座る無愛想な少年と出会った、あの大切なかけがえのない日に。
そしてあの日に戻って、全てをやり直したいと思う。それは決して、初恋が実らなかったからだとか、アルベルトに愛されなかったからだとか、そんなことでは決してない。ずっと傍にいて、ずっと支えてくれて、ずっと見守ってくれていて。色んなことをして遊んで、時にな馬鹿なことをして笑い転げ、たくさんたくさんお喋りをして。きっとアルベルトや、実の姉以上に心を通わせていた大事な人と、もっとちゃんと向き合う為に。私がこの目で見ていなかったものを、今度はちゃんとしっかり自分自身の目で見て。彼の与えてくれていた優しさを知って。私が本当に大事にしなければならなかったのは誰だったのかを、ちゃんと受け止める為に。
でも――。ゆっくりと瞼を持ち上げ、今出来る限りの精一杯の笑みを浮かべながら、握り締めたルシウスの掌に、そっと頬を擦り寄せる。過去へは戻れない。でも、これから新しい道を選んで、一から始めてゆくことは、出来る。前を向いて。いつも傍にいて、いつも私を支えてくれていた、たったひとりの人とともに。
「だから今度は――俺を、選んでほしい」
リシェル視点のお話は終わりとなります。
次回よりルシウス視点のサイドストーリーを掲載予定です。