第八話
そこで言葉を区切り、ルシウスは足元に咲く白い花をひとつだけやさしく手折る。大きな掌の上にのせられたそれは、瞬く間に薄青い光に包まれ、その中で、少しずつゆっくりと形を変えてゆく。こういう姿を目の当たりにすると、彼はやっぱり魔法師なのだと改めて思い知る。私にとってルシウスは、大魔法師となった今でも、それに関係なく大事な人であることに変わりはなかったから。
花を包んでいた淡い光がすうっと消えると、そこに姿を現したのは、手折られた白いチューリップではなく、その形を模した硝子の髪飾りだった。青や黄や赤や白や、ともかく色んな色を反射させ、或いは滲ませた、繊細な透明の髪飾り。その花弁はまるで、シャボン玉の薄い膜のようだった。
「見ず知らずのガキに食べ物を押しつけてきたり、伯爵家の令嬢らしからぬ奔放さで野原を駆け回ったり」
やさしい熱のこもった、でも少し笑みも含ませた声で言葉を紡ぎながら、ルシウスはその髪飾りを、私の左耳の上にすっと差し込んだ。みんなは疾うに忘れてしまっているだろうけれど。私には左目の下に、泣きぼくろがひとつだけあった。それは、顔の造りから髪の色、体型まで何もかも瓜二つだった私と姉の、数少ない“違い”。瞳の色と、そして私だけにある泣きぼくろ。
それをなくし、瞳の色を魔法で変えてくれたのは、他ならぬルシウスだった。何度も何度も、「考え直せ」と言った後に。それでも彼は、苦々しく顔を歪ませながらも、私の頼みを渋々聞き入れてくれた。“姉に変えてほしい”という、私の頼みを。
――俺は絶対に、“リシェル”を忘れたりしない。
髪飾りを左側につけてくれたことに、特別な意味はないのかもしれないけれど。繊細な花弁にそっと指先を触れさせながら、私はゆっくりと瞬く。目の端かぽろぽろとこぼれ落ちた涙が、噛み締めた唇にじんわりと溶けて消えてゆく。
「串焼きの魚を美味そうに食ったり、安いチューリップ一本で嬉しそうに笑ったり」
ひとつひとつの思い出を頭に思い浮かべ、それを丁寧にひとつひとつ懐かしみながらというふうに、ルシウスは言葉を続ける。そんな彼の声を鼓膜で受け止めながら、貴方は何でも憶えているのね、と、胸の内で静かに微笑む。アルベルトも姉も両親も知らない、私たちだけのたくさんの時間と、たくさんの思い出と、たくさんの宝物たち。それを、きっと私たちは互いに、ひとつ残らず憶えているのだろう。
「俺はそういう君を魅力的だと思ったし――だから君に惹かれた」
なんて真摯な言葉だろう、と思った。あたたかくて、真っ直ぐで。たっぷりの真綿で身体をすっぽりと覆い、やさしく抱き締めてくれるような、安心感。それはまるで、欠けた隙間をぴったりと埋めてくれるような、そんな感覚だった。空いていた場所に、ようやく何かが静かに収まったような。
不思議なものだ。愛していたアルベルトの言葉は、あんなにも虚を吹き抜けてばかりだったというのに。ルシウスの言葉は、どうしてこんなにも、心の隙間にやわらかく沁み込んでくるのだろう。誰にも触れられたことのない、最も奥深いところにまで、すうっと。
「……私って、いつもいつも間違えてばかりね」
ぐっしょりと濡れそぼった声でくすくすと自嘲をこぼし、堪えきれなくなって、情けなくしゃくりあげる。
「もし過去に戻れるのなら……いったいどこからやり直せば良いのかしら」
アルベルトのことを、愛していた。六歳の頃から、ずっと。私にとってとても大切な、かけがえのない初恋だった。だから、壊れてしまった彼を助けたいと思ったし、その為なら何だって出来ると思った。愛されなくても良い。私自身を見てくれなくても良い。それは紛れもなく本心だった。嘘でも偽りでもない。全て本当のことだった。何もかも。本当に全てが。
だからこそ、姉になる道を選んだことを、“間違い”だとは思いたくなかった。それを認めてしまったら、受け入れてしまったら、“オリヴィア”として歩んできたこれまでの日々が、意味を失ってしまうから。
でも――。次から次へと頬を伝う涙をそのままに、くしゃりと不器用な笑みを浮かべながら、ルシウスの瞳を真っ直ぐに見つめる。滲む視界の中、それでもくっきりと冴えて見える、アイルスブーの瞳。
「こんな馬鹿な私に惹かれるのは、貴方くらいなものよ」
「俺だけで十分だろ」
戯けたように肩を竦め、彼はくつりと笑う。冗談っぽい口調で言いながら、けれども決して嘘は言わないその率直さを、ルシウスらしい、と思った。そして、彼の紡いだ言葉が“嘘ではない”と分かり、信じられるという特別感が、なんだかやっぱりこそばゆい。
こんなにも心を重ね、深く信じ合える相手と、どうして私は今まできちんと向き合おうとしなかったのだろう。もっと大切に出来たはずなのに。もっと、もっと、心から愛おしむことが出来たはずなのに。
「――リシェル」
蕩けてしまいそうなほどやさしい声で名前を呼ばれ、胸の奥がきゅっと締め付けられる。悲しいからでも、苦しいからでも、辛いからでも、ない。それは、アルベルトに名前を呼ばれた時に感じる高鳴りと、よく似ていた。嬉しさと、愛しさと。
けれど、彼の時以上に、ルシウスに名前を呼ばれると、心の中があたたかな光で満たされるような気がする。ただ嬉しいだけでも、ただ愛しいだけでもない。じんと熱くて、胸が軋むほど激しくて。
もう一度、名前を呼んでほしい――。思わず口にしかけた言葉を慌てて呑み込み、右手をきつく握り締めて、縋り付きたくなる欲求を無理矢理抑え込む。そんな私の心情など、彼は分かるはずもないのに。ルシウスは、全てを見透かしているみたいに微笑んで、形の良い唇をゆっくりと開いた。
「どんなに望んでも、過去へは戻れない。変えることも出来ない。俺たち魔法師でさえ、それは叶えられないんだ」
どれほど偉大な魔法師であっても、出来ることと出来ないこと、そして“してはならないこと”があるのは、知っている。魔法師になってまだ間もない頃にも、大魔法師に任ぜられた時にも、そして、オリヴィアの病を治してほしいとアルベルトが必死に懇願していた時にも、ルシウスは一貫してそう口にしていたから。魔法はあくまで魔法であって、神の御業ではないのだ。それが現実であり、その現実を一番歯噛みしているのは、きっとルシウスだったのだろうと思う。縋り付くアルベルトを見下ろす彼のかんばせは、何かを強く堪えるように、苦々しく歪んでいたから。特異な才能を持つが故に、もしかしたら彼は私たち以上に深く胸を抉られていたのかもしれない。現実の前では無力であり、抗うことなど出来ないと、誰より一番分かっていたから。
「だから、前を向くしかない。前を向いて、未来へただ歩いていくしかないんだ。どんなことがあろうとも」
そんな彼の、厳しくも誠実な、真心そのもののような言葉だからこそ、飾らず差し出されたそれに、心の奥がふるりと揺れた。見つめ合った瞳は、本当に、どこまでもどこまでもやさしくて、まるで抱き締められているような、そんな安らぎが全身を包み込む。
アルベルトと、私と、両親と、ルシウスと。私たちの歪な関係の中で、最も“今”を生きているのは、きっとルシウスだけだ。そんな彼の告げる“現実”は冷たくもあるけれど、でもそれは、冷酷であると同時に、最上級のやさしさでもある気がした。
「未来へ歩いていく中で、君はまた間違った道を選ぶかもしれない。もちろん俺は止めるさ。そんなのは止めておけ、って。……でも、もしそれでも君が間違った道へゆくと言うのなら、俺はそんな君に、どこまでもついていくつもりだ。誰よりも一番近いところで、君を見守り続ける」
もうそれ以上は言わないで、と、言いかけた唇の隙間から、濡れた吐息だけがこぼれ落ちる。もう何も言わないで。それ以上やさしくしないで。そうされてしまったら、彼に縋り付いて、甘えたくなってしまうから。ひとりで立っていられなくなってしまうから。そう伝えたいのに。そう伝えて、耳を塞ぎ、彼の言葉を拒んでしまいたいのに――。言葉も声も、喉の奥で張りついたまま動かず、代わりに漏れたのは、頬を滑り落ちる大粒の涙だった。