第七話
私が打ち拉がれたのは、でもそんなことではなかった。アルベルトからの贈り物も、力いっぱいの抱擁も、両親からの祝福も。それらはきっかけであれど、原因ではない。
偽りの幸福を演じれば演じるほど。笑顔を浮かべれば浮かべるほど。身体の底の方から、徐々に罅が広がってゆくのに気付いた時、私は全ての終わりを悟らざるを得なかった。もう限界なのね、と。身も心も。何もかも全てが終わりを望んでいるのね、と。
この世に生まれ落ちた時、私たちは確かにふたりだったはずなのに。数十分の差こそあれど。それでも私たちは双子の姉妹として、ともに産まれてきたはずなのに。同じ両親のもとに。母曰く、ふたりともそっくりな産声をあげて。
それなのに――。ほんの僅かでもそう思ってしまった瞬間に、足元から闇が広がってゆくのを感じた。轟々と音を立ててあらゆるものが崩れ落ち、そして、ぽっかりと口を開けた暗闇に引きずり込まれてゆくのを。
奈落へ落ちながら、私は力なくもがいた。辛かったから。胸を引き裂かれたみたいに、或いは、溺れているみたいに。苦しくて、痛くて、たまらなかった。“オリヴィア”だけが祝福され、“オリヴィア”だけが愛されていることそのものよりも、それに心がもう堪えられなくなってしまっている、と気付いてしまったことに、私はひどく絶望したのだ。今日で終わりにしよう、と、そう踏み切るくらい。“リシェル”としての自分を、最後の最後まで捨てられなかった自分自身に、私は何より失望し、悲観し、そして憤慨した。どうして私はこんなにも駄目な人間なのだろう、と。大切な人を守りたかったはずなのに。愛する人が幸せならそれで良いと思っていたはずなのに。
これはやっぱり罰だったのだ。みんなは疾うに“ない”ものにしてしまっていたのに。私自身がいつまでもいつまでも“リシェル”にしがみついてしまっていたから。だからこれは、“リシェル”をついぞ殺せなかったことへの、罰。
短剣を手にとった時、私が考えていたのはそんなことだった。絶望と諦念と、そして妙にすっきりとした開放感と、軽やかな安堵の間で。
けれども私は今、こうして生きている。神秘的で、息を呑むほどに麗しい世界の中に佇んで。たくさんの蝶と、たくさんの白いチューリップと、そして大きくて丸い月に見守られながら。
もしかしたら、貴方は憶えていないかもしれないけれど――。静かに瞬き、ゆっくりと振り返りながら、懐かしい記憶を脳裏に思い浮かべる。見つめたアイスブルーの瞳は、相も変わらず美しい。歳を重ねるに連れ、その瞳は大人びた雰囲気を纏うようになったけれど。でも、その奥に湛えられた輝きは、あの時と全く変わっていない。やさしくて、あたたかくて。今も、まるであの時のままだ。誕生日プレゼントとして、初めて贈り物をしてくれたあの時と、少しも変わらない。
もしかしたら、貴方は憶えていないかもしれないけれど。あの時、まだ十歳になりたてだった貴方がくれたのは、マーケットの露店で買ったのだという、一輪の赤いチューリップだった。
「ありがとう」
純然たる喜びをそのままに紡いだ声は、しかし涙でぐっしょりと濡れ、嬉しがっているふうにはちっとも聞こえない。けれど、それでもルシウスにはちゃんと通じたようで、彼はそっと口元を綻ばせてゆっくりとひとつ瞬いた。
アルベルトも、両親も、そして私自身ですら祝うことはなかったというのに。悠然とした足取りで歩み寄ってくるルシウスの、微かに揺れる紫色のピアスを見つめながら、私は静かに微笑む。ちゃんと笑えている自信はなかったけれど。でも、彼にならしっかりと伝わってくれるような気がして。
「……貴方だけよ。“リシェル”の誕生日を祝ってくれたのは」
自嘲を含ませながらぽつりと呟き、すぐ傍で足をとめたルシウスの双眸を見上げる。私を見ていながら、その実、“私”を見ていない瞳。それにばかり慣れてしまったせいか、彼のアイスブルーに“リシェル”としての私がそのまま映り込んでいるのを見ると、どうしてもむず痒い気持ちになってしまう。
“リシェル”を今もなおこの世に繋ぎ止めていてくれるのは、アルベルトでも両親でも姉でも、そして私自身でもなく、いつだってルシウスだ。名前を呼び、記念日を祝い、“リシェル”そのものを見つめてくれる。純粋なほど、真っ直ぐに。
もしルシウスに出会っていなかったら。あの日、何気なく教会の裏手に回って、彼と出くわしていなかったら――。今の私は、いったいどうなっていたことだろう。
「ねえ、ルシウス」
穏やかな夜風が私たちの間をゆるやかなに吹き抜け、白いチューリップがさわさわとした小さな音を奏でながら気持ちよさそうにそよぐ。小さく揺れる白銀の髪の毛、月明かりを浴びてきらりと輝く細長いピアス。綿毛のような、或いは小さな光の粒のような何かが、風の通り道に小川を作りながら揺蕩っている。まるで天国へ続く道のように。儚くも、煌々と麗しく。
「どうして貴方は、私を“リシェル”でいさせようとするの?」
驚いたように、ルシウスの柳眉がひょいとあがる。それから彼は、ふいに足元のチューリップへ視線を落とし、言葉を探すように僅かな沈黙を置いた。伏せられた白い目元に、長く濃い睫毛の影が淡く滲んでいる。
「俺は」
ゆっくりと開かれた瞼の奥から、宝石のような瞳が姿を現す。その瞳をじっと見つめていると、吸い込まれてしまいそうだ、と思った。奥深いところまで。すうっと溶けて、全てを抱き締められるように、丸ごと呑み込まれてしまいそうだ、と。でも、それを怖いとは、少しも思わなかった。寧ろ心地よいと感じられることに、私は胸の内でひっそりと笑う。とても強い光を宿した瞳だ。どこまでも真っ直ぐで、清朗としていて。迷いというものを知らないような、力強い瞳。
「――“リシェル”のことを、諦める気なんてないから」
一陣の風がぶわりと吹き抜け、綿毛のような花びらのような白いものが一斉に吹き上がる。その間を、きゃっきゃと楽しそうな声をあげながら駆け抜ける小さな子どもの影が視界の端を通り抜けていったような気がした。もちろん声は聞こえないし、ここには私とルシウスしかいないのだから、子どもなんているはずがないのだけれど。でも不思議とその小さな影は、嘗て草原を思う様走り回っていた頃の私たちであるような気がした。たくさん遊んで、たくさんおしゃべりをして、たくさん転んで、それでもお腹を抱えて、時には息を切らしながらたくさん笑い合っていたあの頃の私たち。
もちろんそれは幻覚だ。或いはルシウスの見せてくれた魔法。けれどどちらにしろ、それは現実のものではない。形のない、疾うに過ぎ去ってしまった記憶の一片。それでも胸の中は、懐かしさでいっぱいだった。やさしく胸を締め付ける、とてもあたたかなノスタルジー。
「ルシウスって、本当に変わり者なのね」
瓜二つの顔をしていたけれど、姉の方がもっと清楚で美しかったと、私は思っている。薄いブロンドの長い髪の毛も、薄桃色の瞳も、陶器のように滑らかな白い肌も。何より姉は、とてもやさしい人だった。純粋無垢をそのまま具現化したような、常に明るく、前向きで、慈愛に充ち満ちた人。淑女としての嗜みも完璧で、所作のひとつひとつさえ、何もかもが整って麗しかった。
もしかしたらルシウスも、いずれ姉のことを愛すようになるかもしれない、と思ったことはもちろんある。一度や二度だけでなく、何度も何度も。私には、姉に優れるところなんて、何ひとつとしてなかったから。
それなのに――。風に靡いて乱れた横髪をそっと耳にかけながら、私は静かに目を伏せる。それなのにルシウスは、今も昔も変わらず、ずっと私の傍にいてくれている。姉が病に臥せった時、アルベルトは常に彼女の傍につきっきりだったけれど。でも、ルシウスはそうではなかった。彼は姉のもとへは滅多に顔を出さず、不治の病で落ち込む私のもとへ足繁く通い、そして気が落ち着くまでずっと傍にいてくれたのだ。アルベルトは常に姉を優先していたけれど、一方で、ルシウスは常に私を優先してくれた。試験を控えた大事な時期でさえ。「試験はいつでも受けられるけど、君はこの世にたった一人しかいないから」と言って。
「私なんかよりも、姉の方が魅力的だったはずなのに」
ゆっくりと瞼をあげ、ぎこちなく自嘲をこぼしながら、ルシウスの双眸を見上げる。彼は一瞬驚いたように、ほんの僅か目を瞠らせたけれど、しかしすぐに、ははっと笑って風で乱れた前髪を掻き上げた。
「誰を魅力的に思うかは、人それぞれだろ。アルベルトはオリヴィアだったかもしれないが、俺は――」