第六話
目を逸らせなかった。どうしても。宝石のように美しい、アイスブルーの瞳から。
愛する男性の瞳は、最近ではもう、正面から見るだけでも随分と勇気が要るようになってしまったのに。何故だろう。ルシウスの瞳は、無遠慮なほど真っ直ぐに見つめることが出来る。そして、惜しみなくというふうに一心に注がれるあたたかな眼差しを、まっさらな素直さで受け止めることも。
「リシェル」
涙を堪らえようとして、でもうまくいかず、眉間に皺が寄ってしまう。その情けない顔を見て、ルシウスはくつくつと笑った。「ブサイク」と彼が可笑しそうに言うので、私は濡れた唇をつんと尖らせる。拗ねたように。しかしそれも結局は失敗してしまい、私はだらだらと涙をこぼし、時折しゃくりあげ、そして不甲斐なく鼻を啜るしかなかった。
「べつに俺は、自分のしたいようにしてるだけだ」
低く落ち着いた声が、しっとりと耳の奥に溶け込んでゆく。そこには、いつもの飄々とした調子も、軽口まじりの冗談っぽさもない。言葉に滲むぬくもりのせいだろうか。それとも、もっと別の何かのせいだろうか。本心からの言葉だと、すんなりと信じられるのだから、不思議なものだ。それだけのことで、どうしてこんなにもほっとしてしまうのだろう。
「今も昔も」
まるで何かを噛み締めるようにゆっくりとひとつ瞬き、ルシウスは私の右頬を、人差し指と親指で、ふにっと軽く摘んだ。いたずらっぽく、僅かに目を細めて。
「――大事な奴を守りたいと思うのは、当然のことだろ」
君があいつに対してそうだったように。
乾いた声でそう付け加え、どこか寂しげに微笑んだルシウスの右肩に、どこからともなく飛んできた蝶が、すうっととまった。アゲハ蝶くらいの大きさの、淡く透けた白色の羽をした、美しい蝶。月明かりを浴びて、薄青い輝きをきらきらと鏤めたその蝶は、大きな羽をゆったりと微かに動かしながら、静かに私を見つめていた。
どうやらそれは、ルシウスの飼っているペットか、或いは魔法で創り出したものらしい。彼はさして驚いたふうもなく蝶を横目で一瞥すると、私の右頬からそっと手を離した。彼の体温が皮膚に沁みつき、慣れてしまったせいか、急にぬくもりを失った肌が、やけにすうすうするように感じられる。夜風は、こんなにも冷たかっただろうか。春はもう終わりかけているというのに。
「泣かせるようなことを言わないで。これ以上泣いたら、干からびてしまうわ」
冗談ではなく、このままでは本当に、身体のそここから水分という水分がすっかりなくなって、からからに乾いてしまいそうだ、と思った。干からびて、まるで老人のように皺だらけになってしまうかもしれない、とも。こんなにもたくさん泣いたのは、いったいいつぶりだろう。姉が死んでしまった時か、それとも、告白を明かされた時だっただろうか。
私は至極真面目にそう言ったのに、ルシウスは思わずというふうに吹き出して、ははっと軽く笑った。まるで、「馬鹿だなあ」とでも言うように。けれどその声は、決して不快なものではなかった。
「干からびたくなければ、笑えばいいだろ」
そう言いながら、ルシウスは綺麗に整えられた人差し指の先に、白い蝶をそっと移す。絹のようにやわらかな羽がゆったりと動く度に、薄青い鱗粉のようなものが、仄かに輝きながら辺りを漂う。神秘的で儚げなその美しい蝶を、彼はどこか愛おしそうな眼差しで見つめ、そうして静かに手を動かした。庭の方へと、真っ直ぐに。空を流れるようななめらかさで。まるで道標を示すみたいに。
その先から、ふわりと蝶が飛び立った。月光を透かした白い薄膜を、悠然と羽ばたかせて。
蝶の後を追うように、私はゆっくりと振り返る。薄青い小さな光の粒を辿って。なんとなく、視線を誘われたような気がしたから。蝶は人差し指の上をふわふわと回っていた。私が振り向くのを待っていたみたいに。まるで意思があるようだ、と、そう思った瞬間、一陣の風がぶわりと顔に吹き付け、反射的に目を瞑る。ぎゅっ、と瞼を閉ざすと、目尻にたまっていた雫がぽろりとこぼれ、夜気に馴染んだ肌の上をすうっとつたい落ちてゆく。
最初に感じたのは、甘やかな香りだった。甘く優雅で、心にそっと沁み込んでくるような、素晴らしく気品のある香り。
それが、庭に植わるルピナスのものとは違うことに気付き、不思議に思いながら、私はおそるおそる瞼をもちあげる。ゆっくり、ゆっくりと。風はもうやんでいた。睫毛が微かに震え、その隙間から、澄んだ世界が少しずつ、静かにほどけてゆく。
見えたのは、大きな月だった。
無数の星々が鏤められた深い藍色の夜空と、果てなく続く地平線との境にぽっかりと浮かぶ、驚くほど大きくて、まんまるい形をした、蒼白い月。
冴え冴えとした月明かりに照らされた大地には、一面を埋め尽くすほどたくさんの白い花が咲いていた。遥か遠く、地の果てまで、びっしりと。やわらかな夜風がそっと吹き抜けるたび、花々は微かに光を返しながら揺れ、白銀の波がゆるやかに、さわさわと広がってゆく。その合間を、何匹もの白い蝶が、薄青い輝きをきらきらと漂わせながら、ゆったりと舞っていた。時折、夜気に溶け込むように姿を消しては、すぐにふわりと浮かび上がることを繰り返して。
色とりどりのルピナスはもちろん、小ぶりな噴水も、蔓薔薇の茂ったガゼボも、大理石のオブジェも、そこにはなかった。私は呆然とし、その夢か現か分からない幻想的な風景に見惚れる。辺りはひっそりと静まり返っていた。何の音もない。けれど、しんしんと降り積もるような、澄んだ静けさの“音”だけが、どこからともなく聞こえてくるような気がした。
殆ど無意識に、ふらりと足が動く。ぽっかりと浮かぶ大きな月に吸い寄せられるように。蒼白い光をほんのりと纏ったような瑞々しい芝生の上を、ゆらり、ゆらりと。涙はいつの間にかとまっていた。幻想的な美しさに圧倒されて。立ち込める甘やかな香りと、薄青い鱗粉。それらに紛れ、綿毛のようなやわらかな何かが、宙でふわふわと踊っている。蝶にも劣らぬ婉美さで。
数歩進んで足をとめ、辺り一面を覆い尽くす白い花畑を、その上を泳ぐように飛ぶ蝶をぼんやりと眺める。それから、ふと足元に視線を落とし、気持ちよさそうにそよぐ白い花の、その愛らしい姿に目をとめる。ぷっくりと肉厚的な緑色の葉、中央はすぼまり、外側へいくほど少しずつ先を反り返らせた白い花弁。まるで天使のようなその一重咲きの花は、どこからどう見ても、チューリップだった。純粋無垢そのもののようなその可憐な花をじっと見つめ、私は思わず息を呑む。夢幻のように佳麗だからでも、あどけなくて儚いからでもなく――それは、この世で私が最も深く愛してやまない花だったから。
「リシェル」
笑えば良い、と、彼は言ったけれど――。そっと指先をのばし、絹のようになめらかな白い花弁に軽く触れながら思う。なんて無茶なことを言うのだろう、と。そんなこと出来るはずがないと分かっているくせに、と。思えば思うほど、胸の奥底から途方もなく大きな感情が、どっと押し寄せてくる。堪らえようとして唇をきつく噛み締めるけれど、それはどうしてもうまくいかなかった。花弁に添えられた指先が、微かに震えている。視界が再び滲み始め、愛愛しい花の輪郭がぼんやりとしてゆく。私がこの世で最も深く愛する、天使のように清らかな花。
「――誕生日、おめでとう」
今日一日で、もう何度も何度も聞いたその言葉は、でも、全く違う響きとあたたかさで、鼓膜にじんわりと溶けて広がってゆく。なんて穏やかな声なんだろう。なんてやさしい言葉なんだろう。
折角とまっていた涙が堰を切ったように溢れ出し、私は嗚咽しながら、彼のくれた言葉を、頭の中でただただ繰り返す。誕生日、おめでとう。誕生日。おめでとう。――リシェル。
一年の中で最も特別な日だ、と、アルベルトは言っていた。君がこの世に生まれてきてくれた日だから、と。だからこの日は、一年の中で一番幸福な日にしたい、とも。
朝目が醒めてすぐ、両手ではとても抱えきれないほど大きな花束を贈られた。色とりどりの薔薇を、たっぷりと。昼には庭園のガゼボでお茶を飲み、お菓子を食べた。程よく焼色のついた、甘酸っぱくほろ苦いアップルパイ。それからアルベルトは、特別に仕立てたのだというドレスやジュエリーをプレゼントしてくれた。瞳の色に合わせた薄桃色のドレスと、大粒のパールを組み合わせて創られた、揃いのピアスとネックレス。私は侍女に手伝ってもらいながらそれらを身に着け、アルベルトと両親だけの小さな晩餐会に参加した。豪勢な料理と、一級品のワイン、新鮮で瑞々しい果物。母の勧めでワルツを一曲踊り、ヴァイオリンを奏で、昔話や思い出話に花を咲かせ、たくさん笑い合った。小さくも華やかな、人のぬくもりに溢れたパーティー。
――誕生日おめでとう、オリヴィア。
身支度を整えながら、朝食を摂りながら、廊下を歩きながら、お茶を飲みながら、はたまたプレゼントを抱き締めながら。何度その言葉を、この耳で、この心で受け止めたことだろう。侍女たちから、執事から、料理人や庭師から。もちろん、父や母や、そしてアルベルトからも。
花束を用意してくれたのも、アップルパイを作ってくれたのも、ドレスを仕立ててくれたのも、小さな晩餐会を開いてくれたのも。それらは全て、オリヴィアの誕生日を祝う為だった。だから、姉の愛した薔薇で花束を作り、姉の好物だったアップルパイを食べ、姉の瞳と同じ色のドレスを仕立て、姉の好んだワルツの曲を選び、姉の得意だったヴァイオリンを奏でた。最愛の妻の誕生日を、大切な娘の誕生日を祝福する為に。オリヴィアの生まれたこの日を、一年の中で一番幸福な日にする為に。
誰も彼もが、オリヴィアの生誕を祝い、そして喜んでいた。オリヴィアが生きていた頃と同じように。或いはもしかしたら、その頃以上にたくさんの愛を注いで。
そんなオリヴィアの為だけに創られた幸福な世界に、“リシェル”などという存在があるはずもない。使用人はともかく、アルベルトも、実の父や母でさえ、姉と同じ日にこの世に生まれ落ちた“娘”或いは”妹”がいることに、少しも触れようとはしなかった。憶えていないというより、まるで“リシェル”などという人間は、はじめからこの世に生まれてなどいなかったみたいに。存在そのものが丸ごと消されてしまったような扱われようだった。――いや、そもそも扱われてなんていないのだ。彼らの頭の中にはきっと、“リシェル”のことなんて微塵もなかっただろうから。“考えないようにする”こと自体、考えさえしなかったに違いない。




