第五話
その日を堺に、私たちは裏庭でないところへ出かけるようになった。雑木林の奥にある小さな泉や、広場で開かれているマーケットや、王都の真ん中を突っ切るようにして流れる川や。釣りの仕方や、石を投げてぶつける遊びを教えてくれたのは、ルシウスだった。スカートの裾をばさばさと靡かせて駆け回ったり、疲れた後は芝生の上にふたり並んで横になり、ゆったりと流れ行く雲や、澄んだ青空をぼんやりと眺めたり。
楽しかった。何をしても楽しかった。心の底から、本当に。新しい発見も、そうでないことも。たくさん走り回り、たくさんお喋りし、たくさん笑い合った、かけがえのない日々。あの頃の思い出が、今もなお一番輝いているように思う。水面に散らばる小さな光の粒みたいに、きらきらと。それくらい、ルシウスとふたりで過ごす時間は、とても楽しかった。生まれた時からずっと一緒だった姉よりも、その頃には既に異性としてはっきりと意識していたアルベルトよりも。私にとっての“親友”は、正にルシウスだった。
そんな彼が、姉とアルベルトと顔を合わせることになったのは、それから数ヶ月ほど経ってからのことだった。
突然、姉に言われたのだ。紹介してほしい、と。はじめ、何を言われたのか分からなかった。ルシウスのことは誰にも話していなかったから。両親にも、姉にも。しかも姉はその頃から病弱で、風邪を引いたり目眩で倒れたり、ともかくすぐに体調を崩す質だったので、外にはあまり出られなかったにもかかわらず。それなのに姉は、何故かルシウスのことを知っていた。名前や出自までは把握していなかったけれど。私に“仲の良い友人”がいる、と、姉はどこからかそれを聞いて知っていたのだ。
ルシウスは、もちろん嫌な顔をした。何で会わないといけないんだ、と言って。でも結局、彼はまた折れてくれた。姉を大事に想う、私の為に。
はじめは私とルシウス、そして姉の三人で軽いピクニックに出かける予定だったのだけれど、急遽そこにアルベルトが加わると知らされた時には驚いた。でも彼の場合、“私の友人”に興味があったのではなく、“病弱な姉を気遣ってついてきた”のが正しいのだと、今ならば分かる。その頃には既に、彼の想いは姉にあったのだ。彼の瞳は、姉の笑顔しか映していなかった。私と瓜二つのかんばせをした姉だけ。でもその時の私は、まだそのことに気が付いていなかった。
――へぇ。
盛りを迎えた藤の下で楽しそうに談笑をしている姉とアルベルトを遠目に眺めながら、ルシウスは独り言のように、ぽつりとそう呟いた。何を考えているのか分からない横顔で。呆れているようにも、からかっているようにも聞こえない声で。
私の初恋がアルベルトであることを、ルシウスは知っていた。白状するつもりなんて全くなかったのだけれど。でも、私がアルベルトの話をする時、決まって“乙女の顔”になるから分かりやすい、と彼は言った。だから白状されるまでもない、と。
――君って、ああいう男がいいんだな。
ルシウスが、魔法師を育てる学校に入学を決めたのは、それからひと月後のことだった。魔法師になんてなるつもりはない、と、常々言っていたにもかかわらず。頑なだった彼を、何が変えたのかは分からない。そのきっかけを、ルシウスは一度も語ってくれなかったから。あんなにも拒み続けていたのに、彼は本当に魔法師の学校へ入学してしまった。他の入学生とは違って、まともな試験勉強なんて出来なかったのに。それでも、その年トップの――それどころかここ数十年で最も高い――点数を叩き出して。
学校に入学してしまったら、もうこれまでみたいに会えないかもしれない。学校は同じ王都にあるのに。でも、“学校”や“入学”というものを堺に、彼がどこか遠いところへ行ってしまうような気がして、私はその祝福すべき出来事を、素直に受け入れることも、素直に祝ってあげることも、どうしても出来なかった。
けれどルシウスは、頻繁に会いに来てくれた。もちろん今までのようにはいかなかったけれど。それでも顔を見せてくれたし、長く会えない時には手紙をくれた。今と変わらず、他愛もない内容をささっと綴っただけの、シンプルな手紙を。時々四人で出かけることもあった。私とルシウスと、姉とアルベルトの四人で。
ずっとそんなふうだったから――。大理石の床の上で小さく弾ける雫を見るともなく見つめながら、私はゆるりと弱々しく微笑む。そんなふうだったから、私の傍にはいつも、ルシウスがいた。どんな時でも。姉がアルベルトからの告白を明かした時も、ふたりが婚約を交わした時も、華やかな結婚式を行った時も、幸福ばかりが溢れるふたりの結婚生活を眺めていた時も、そして、姉が死んだその時も。時に励まし、時に怒り、時にくしゃりと頭を撫で、また或いは、ただただ静かに寄り添って。その全てが、彼のやさしさだった。ルシウスなりの、やさしさ。そのやさしさに、私は何度救われたことだろう。
「……私は……」
ぎこちなく唇を開くと、ぽたぽたっと、大きな塊みたいな涙が勢いよくこぼれ落ちた。目元も頬も口元もびっしょり濡れてしまっているせいで、吹き抜けるやわらかな夜風がひんやりと感じられる。睫毛に張り付いた小さな雫が邪魔で、口の中もしょっぱくてたまらないのに、次から次へと溢れ出る涙を、私は拭うことすら出来ない。手も足も、すっかり力が抜けしまって、少しも動かないのだ。まるで精巧に造られた人形のそれのように。私のものではない、別の何かのそれみたいに。
それでも、私は必死に唇を動かす。ゆっくりでも。小刻みに震えていても。動かすことを、とめられなかった。
「貴方が……傍に、いてくれたから……ここまで生きてこれたのかも、しれないわ」
アルベルトを愛していた。とても。それはもう、彼の為なら何でも出来ると、無条件に思えてしまうくらい。私はアルベルトを、心の底から愛していた。――彼が姉を一途に想っていたのと同じように。
おかしなことかもしれないけれど、ルシウスへ対する感情は何かと問われると、私はほとほと困ってしまう。アルベルトほど明確でないのだ。愛でも恋でもなければ、かといって“友情”という言葉はあまりにも陳腐で薄っぺらすぎる。それくらい、私にとって彼は、誰とも比べることの出来ない、もっとずっと大きな何かなのだ。むき出しの心で、“私”という全てで、正直に、真っ直ぐにぶつかり合える、唯一無二の存在。
「私って本当に……貴方に助けられてばかりね」
鼻をすすり、くすりと小さく笑う。夜風にふわりと靡いた髪の毛が、涙でぐっしょりと濡れた頬にはりつき、くすぐったくて気持ちが悪い。ゆるゆると片腕を持ち上げようとして、けれどそうするより先に、ふいに視界へ滑り込んだ大きな手が、やさしく、まるで撫でるように髪を払い退けてくれる。色が白く、女性のように綺麗な、でも骨や筋のしっかりとした、男らしい手。
そのまま流れるような仕草で両頬を包まれ、そっと顔を持ち上げられる。白い指先から頬の皮膚を通してじんわりと伝わる、やわらかなぬくもり。懐かしい、と思った。懐かしくて、とても心の安らぐぬくもりだ、と。
その感覚にまどろむように閉じかけた目は、しかし、いつの間にか眼前に腰を屈めていたルシウスの瞳にとらえられ、視線が間近で絡み合う。その瞬間、辺りがふっと静まり返ったような気がした。彼の向ける眼差しが、あまりにも真っ直ぐで、あまりにもひたむきで。
言葉に出来ない何かが胸に触れた気がして、私は小さく息を呑んだ。じわじわと見開かせた目の端から、ほろりと、涙がこぼれ落ちる。それを、彼は苦笑を浮かべながら、親指の腹でそっと拭ってくれた。まるで繊細な硝子細工でも扱うかのように、やさしく、丁寧に。
「そんなに見ないで。今の私、凄く酷い顔をしてるから」
「ああ、本当にな。泣き腫らして、ぐちゃぐちゃで。すげぇ顔してる」
酷いことを言うくせに、その声はでも、どこまでもどこまでもあたたかくて。もう疾うに壊れてしまっているはずの涙腺が、またぼろぼろと崩れてしまいそうで、私は咄嗟に唇を噛み締めた。震えながら、弱々しい力で。どうにか堪らえようと、必死に。
けれど、そんな私のなけなしの努力を、ルシウスは簡単に壊してしまう。見つめられれば見つめられるほど、目元を拭われれば拭われるほど。彼は、私の強張った心をいとも容易くほどいて、真綿で包んでしまう。