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亡き姉を演じ初恋の人の妻となった私は、その日、“私”を捨てた  作者: 榛乃
Main story ¦ リシェル

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第四話

 ルシウスと出会った時のことは、今でもはっきりと憶えている。輝かしく、鮮やかに。“リシェル”としての私の人生を大きく変えた出来事のひとつとして。

 私たちが街の外れで偶然出くわした時、彼も私も、まだ十にも満たない小さな子どもだった。だからルシウスとの関係は、友人であり、幼馴染であるとも言えるだろう。アルベルトと同じくらい長い年月を共にしてきた、大事な大事な幼馴染。


 彼は礼拝者の少ない教会の、更にひと気の殆ど無い建物の裏側で、乱雑に置かれた丸太にひとり座っていた。まるで身を潜めてでもいるみたいに、じっと。

 目があった瞬間私は息を呑み、そして不思議なことに、彼もまた息を呑んだことが何となく分かった。多分、第六感的な何かで。

 私は思わず間の抜けたような声を漏らしてしまったけれど、ルシウスは驚きつつも、声をこぼすことも、目を見開くこともしなかった。ただただ無表情に私の双眸を凝視するだけ。半ば睨め付けるような視線で。しかしそれにすぐ飽きると、彼は小さな舌打ちとともに早々と顔を背けてしまった。

 当時から既に、子どもとは思えないほど整っていた、色の白い小さなかんばせ。凹凸のくっきりとしたその顔に、所々傷や処置の痕があるのに気付いて、私はなんとも言えない気持ちになった。見てはいけないものを見てしまった気まずさのような、或いは、ぎゅっと胸を締め付ける切なさのような。


 言葉はなくとも、明らかに拒絶の空気を漂わせている彼に、でも私は臆することなく近付いた。眉を顰めるルシウスのことなどまるで気にせず、彼の隣に――拳三つ分くらいの距離をあけて――腰を降ろし、抱えていた紙袋の中からオレンジをひとつ取り出して、ずいっと無言で差し出した私は、さながら“奇妙で図々しい子ども”だったことだろう。でも、私はそれで構わなかった。出会ったばかりの男の子に嫌われたところで、何だというのだろう。


 差し出したオレンジと私の顔を交互に見ながら、ルシウスは眉根をますます寄せ、怪訝な顔をしていた。「馬鹿にするな」とでも、もしかしたら言いたかったのかもしれない。貴族の娘だと一目で分かるような格好をした私は、あの時の彼には、多分敵だったのだろうから。


 ルシウスの身につけていた服は、明らかに質素過ぎる粗悪なものだった。袖口の糸がほつれたシャツ、破れ目を繕ったらしい跡のあるズボン。慈善活動に熱心だった母の言葉を借りるなら、彼は正に“恵まれない子ども”の側だった。実際ルシウスは貧民街の出身で、両親の顔を知らないまま育ち、近くの孤児院で生活をしていた。もちろん私がそれを知ったのは、もう少し関係が深まった後でのことだったけれど。


 私は宙ぶらりんみたいになったオレンジを引っ込め、脇目も振らずにそれを剥いた。掌も指も爪の間もべとべとにしながら。母や姉がそれを見たら、きっと呆れ返ったことだろう。貴族の娘らしくしなさい、と、母は叱ったに違いない。

 けれどそこには母も姉もおらず、黙々とオレンジを剥く私と、雑木林を睨むように眺める少年しかいないのだから、何も問題はない、と思った。司祭も礼拝者も、小鳥も犬も猫もいない、たったふたりだけの静かな場所。その異様な空気を、でも私は嫌だとは思わなかった。寧ろ、何故かとても落ち着く、と思ったものだ。


 不器用に剥いたオレンジの半分を差し出すと、ルシウスはまた眉間に深い皺を寄せ、今度は私と目を合わそうともしなかった。まるでここに私など存在していないかのように。意識の外側に、全て追い遣って。

 それでも手を引っ込めようとしない私に、彼はやがて深々と溜息を吐き出して、やれやれと言いたげに肩を竦めた。明らかに戯けと分かる調子で。しかしそれは、呆れでも諦めでもなかった。冷たい怒りの滲んだ、侮蔑。彼はそれを、少しも隠そうとはしなかった。


 ――施しをしてやる優越感は、そんなに気持ちいいのか?


 随分と斜に構えた子だ、と思った。思いながら私は顔を横に振り、「そんなんじゃないわ」と言った。きっぱりと。そんなつもりはまるでなかったから。


 ――ひとりより、ふたりで食べた方が美味しいでしょう?


 そう思ったのは確かだ。けれど、それが全てというわけではなかった。

 ひとりよりふたりの方が美味しいだろうという気持ちと、折角のひとりの時間を邪魔してしまったという申し訳無さ。そのふたつは、きれいに半分ずつ分けられた天秤のように、同じ重さで、同じ温度で存在し、私の身体を強く突き動かしていた。全く混じり気のない、ただただ純粋な衝動として。


 ――だからこれは、あなたの為というより、私の為に食べて。


 そう言いながら見つめた彼の、青とも水色ともつかない丸い瞳。燦々と降り注ぐ陽光に照らされ、小さな光の粒を湛えているみたいなそれは、まるで宝石のように美しかった。なんて綺麗な瞳をした子なんだろう、と、つい魅入ってしまうほど。

 私たちはそのまま暫くの間無言で見つめ合い、どちらも一歩も引かなかった。視線を逸らした方が負けだ、と、私もルシウスも思っていたから。べつに示し合わせたわけでもないのに。この頃から私たちには、不思議とそういうところがあった。言葉はなくても、考えや思っていることが自然と一緒になってしまうところが。


 結局勝負に負けたのは、ルシウスの方だった。折れてくれた、と言った方が正しいのかもしれないけれど。彼の折れ方は、実に淡々としていた。笑うでも怒るでも、はたまた呆れるでもなく。けれどそれは、決して冷たいものではなかった。

 彼は渋々オレンジを受け取り、矯めつ眇めつして危険がないのを確かめた後、薄く形の良い、少しだけかさついた唇でそれに齧りついた。私も間をおかずしてすぐにかぶりつき、新鮮でやわらかな果肉に歯を立てる。口いっぱいに広がる甘酸っぱく瑞々しい果汁と、心がすうっと軽くなるような清く爽やかな匂い。


 私たちはどちらも何も言わず、黙々とオレンジを食べ続けた。手も唇もべたべたにしながら。マーケットの露店に山積みにされていた、ありふれたオレンジを。でもあの時に食べたオレンジを、私は今まで食べたどのオレンジよりも一番美味しかったと思っている。十年に満たない人生の中でも、そして、今に至る人生の中でも。


 後年その話をすると、ルシウスは決まって「たまたま当たりを引いただけだろ」と言うのだけれど。でも私は、そうでないと思っている。あれは“たまたま引いた当たり”ではなく、“ごく普通のオレンジ”だった。きっとひとりで食べていたなら、ただの甘酸っぱい、どこにでもあるオレンジだと思っただろう。そんな“ありふれたもの”でしかなかったオレンジを格別の味にしてくれたのは、他でもないルシウスその人だった。彼とふたりで食べたから、あのオレンジはあんなにも美味しかったのだ。


 それから私たちは、頻繁に会うようになった。無論、約束をしていたわけではないし、会いたいという想いがあったわけでもない。屋敷をひとりで抜け出して、気の向くまま街を歩き回っているうちに、自然と足が向いたのだ。拝礼者の少ない教会の、更にひと気も動物の気配もまるでない裏庭へ。マーケットで買った果物や串焼き、或いは読みかけの本や道端で摘んだ草花を手に。晴れの日も、曇の日も、今にも雨が降り出してしまいそうな日も。ごく自然に。それが当たり前であるみたいに。


 いつ行ってもそこには、必ずルシウスがいた。丸太に腰掛けて、雑木林や空を、見るともなく眺めながら。だから私たちは、どうしても顔を合わせることになった。

 とはいえ、何か特別なことをふたりでしていたわけではない。食べ物がある時はふたりで食べ――もちろん、私の為に――、そうでない時は、本を読んだりぼうっとしたり、それぞれがしたいことをやって気ままに過ごす。ふたりでいながら、まるでひとりでいるみたいに。ただそれだけ。


 少しずつ会話をするようになったのは、どれくらい経ってからのことだっただろう。最初にぽつぽつと話し始めたのは、私の方だった。両親のこと、双子の姉のこと、飼っている犬のことだけでなく、たとえば、裏庭へ来る途中に見つけた店のことや、広場の噴水に浮かぶ花びらのことや、偶然見かけた老夫婦の遣り取りといった、面白みに欠ける何でもないことまで。

 思いつくままに紡がれるそれらを、ルシウスはまるで聴いていないような顔をしながら、でもちゃんと聴いてくれていた。どんなにつまらない話でも。相槌なんてものはなかったし、目も合わせてはくれなかったけれど。それでも、今でも時々思い出しては話題にするくらい、ひとつひとつしっかりと聴いてくれていた。


 暫くは私が一方的に話しかけるばかりだったのだけれど、やがてルシウスは、少しずつ言葉を返してくれるようになった。それだけでなく、遂には自身の出自を話してくれるようにも。

 初めて返事をしてくれた時は、あまりに驚きすぎて、思わず耳を疑ったほどだ。見開かせた目で、彼の顔をまじまじと見つめながら。幻聴だろうか、なんて思いもした。それくらい信じられなかった。

 けれどそれは、幻聴などではなかった。彼は唖然としている私を一瞥し、もう一度同じ言葉を繰り返してくれたのだ。聞き間違いでも幻でもない現実のことだと、しっかり認識させるように。


 あの無口なルシウスが――。そう思った瞬間、胸の中がぱあっと明るくなったのを、今でもよく憶えている。嬉しくて嬉しくて、たまらなかった。何故そんなにも嬉しかったのかは分からないけれど。ともかく、気を緩めれば飛び跳ねてしまいそうなほど、その時の私は嬉しく、そして幸せだった。陽光にあたためられた春風に包まれているような、やさしい幸福感。

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