第三話
声がした。ふわりと鼓膜に触れた、やさしいやさしい、でも、胸を締め付けるほど切なくも聞こえる、低く落ち着いた声。
きっと幻聴だろう、と思った。最期に会いたいと、会って色んなことを伝えたいと、そう願ったから。もしかしたら神様から与えられた最後の慈悲なのかもしれない、と考えながら唇を綻ばせ、最期に彼の声を聞けて良かった、と感慨に耽る。もうこれで十分だった。幻でも聞き間違いでも、それでも彼の声を聞けたのだから、それをしっかりと心に刻みつけておけば良い。
「だから止めたのにな」
吹き抜ける夜風にのって耳に流れ込んできた声は、驚くほどすぐそこにあった。耳のすぐ傍に。そうと分かるくらいぬくもりがあり、そうと分かると、そこに漂う気配が途端に濃密になった。そのあまりの鮮明さに、心臓がどくりと跳ね上がる。勢いをつけて最後の一押しをしようとした切っ先は、いつの間にかぴたりととまっていた。まるで空に縫い止められてしまったみたいに、びくともしない。それは自分の意志ではなかった。明らかに、何かに絡め取られている。
魔法だ、と気付いた瞬間、柄を握り締めていた手に何かが触れた。冷え切った皮膚に、じんわりと沁み込むやさしいぬくもり。そのあたたかさに、何故だか無性に泣きたくなった。声をあげて、子どものように泣きじゃくってしまいたい、と。
昔、同じような衝動に駆られたことがある。あれは確か、私も姉もまだ十六歳だった頃で、場所はいつもピクニックで行く森の中だった。アルベルトに告白されたのだ、と、あの時私は、姉の口から聞かされたのだ。あの慎ましやかで愛らしい色をした、やわらかな唇で。湖の畔で友人と談笑しているアルベルトを眺めながら、とても幸福そうに微笑んで。
その後のことを、私はなにひとつ憶えていない。気付いた時には森の中のどこかにいて、太く立派な幹をした欅の根本に蹲っていた。自分自身を抱き締める様に組んだ腕の中に、深く顔を埋めて。
そんな私を見つけてくれたのは、姉でもアルベルトでもなく、友人だった。友人の、ルシウス・ヴァレンティ。彼は私の傍に膝をつくと、深く溜息を吐き出しながら、多分やれやれと肩を竦めたのだと思う。馬鹿だな、と言うみたいに。実際、そんなことを言われたような気もする。はっきりとは憶えていないけれど。あの時の私は、頑なだった。頑なに、外の世界の全てを拒もうとしていた。分厚い殻に閉じ籠もって。ルシウスさえも遠ざけようと。
けれど彼は、その殻をこじ開けた。頭にぽんと手をのせて。いつの間にか私のそれより、ひと回りもふた回りも大きくなった掌で、くしゃりと髪の毛を撫ぜながら。そうして彼は、言ったのだ。
「――リシェル」
ゆっくりと、震える瞼をもちあげる。視界は隅々までぼやけ、滲んでいた。鋭く尖った刃も、黒くしっかりとした柄も、それを握る手も、渾然一体となるほど。瞬くと、しかし視界は一瞬にして透明感と鮮明さを増し、柄を握る手を覆うようにして被さる、大きな大きな、男らしく骨ばった手が目に映る。随分と立派な手だ、と思った。色が白く、長くすっとした指をしているのに、それでも男のそれだと分かる、とても綺麗な手。
「リシェル」
あの時、私は――。乾いた唇をゆっくりと噛み締め、色白の大きな手を見つめながら、そっと微笑む。あの時私は、頭を撫でる大きな掌の感触に、そのぬくもりに堪えを失って、泣いたのだ。声をあげて、まるで子どものように。きりもなく泣きじゃくった。ルシウスただひとりに見守られながら。
あの時のことを思い出す度、「ブサイクな泣き顔だった」と、彼はよく言っていた。とても見るに堪えないものだった、と。あんな顔を我慢強く見ていられるのは俺くらいなものだ、とも。
「……私、あの時と同じ顔をしているのかしら」
漸く自分が泣いていることに気付き、弱々しい笑みをこぼしながら振り返る。そんな私の視線を、ルシウスは困った時によくする眉を下げた笑顔で受け止め、そうしてゆっくりと瞬いた。月明かりに照らされて淡く輝く白銀の髪の毛、くっきりとした二重と、長く濃い睫毛に縁取られた切れ長の目。彼の澄んだアイスブルーの瞳を初めて見た時、私はそれを、まるでブルーダイヤのようだ、と思った。最も美しい輝きを引き出す為に、計算し尽くされた角度でカットされたそれのようだ、と。
「そうだな。とても見れたもんじゃない顔をしてる」
嗤うでもなく、嘲るでもなく。どこまでもやさしい声音でそう紡ぐ彼の左耳で、紫色の細長いピアスが微かに揺れる。きらきらとした小さな輝きを放ちながら。それは私が、“リシェル”として彼に贈った、最後のプレゼントだった。
魔塔に所属する魔法師である彼が、数多いる同僚や先輩を一気に追い抜いて、歴代最高評価を叩き出して“大魔法師”の冠を戴いた時に贈ったもので、彼はその時からずっと、それを耳につけてくれている。左耳だけなのは、もう一方のピアスを私が持っているからだ。これは君が持っていてくれ、と、そう言われて。その片割れは今も、机の引き出しの中に、大事に大事にしまっている。それは、“リシェル”としての私がこの屋敷で持つ、唯一のもの。
ゆるゆると力の抜けた両手から、ルシウスが短剣をそっと奪い取る。ついさっきまで、私の命を終わらせようとしていたそれを。まるで、危険でも何でもないもののように。私は彼のその行動を、肌から伝わる感覚だけで知る。ルシウスの瞳から、目を逸らすことが出来なくて。やさしい眼差しをただただ受け止め、そして、縋り付くように彼を見つめる。妖しく光っていた短剣も、あんなにも魅力的だった死すらも、すっかり忘れてしまったみたいに。
「……どうして、ここにいるの」
王国にたった三人しかいない“大魔法師”の、その数少ないひとりであるルシウスが、多忙な日々を送っていることは知っている。彼にしか扱えない魔法や、彼にしか解けない魔法陣や呪文もあるからだ。難しい任務や、王家などからの依頼には、大魔法師の誰かが必ず就くことになっていて、そういうのは往々にして、私たちには想像も出来ないほど大変なものであるらしいので、ひと月どころか数ヶ月戻ってこないということも珍しくない。
つい数週間前も、彼は隣国の小さな村から、手紙を送ってくれていた。たった数行の、短い手紙ではあったけれど。それでも彼は定期的に、手紙を送ってくれるのだ。王国にいようが、どこか遠い国にいようが、その時々の忙しさなどまるで関係なく。内容はいつもシンプルで、他愛のないものしか綴られていない。天気のことだとか、食事のことだとか、その時いる国の文化だとか。
そして、細く流れるような筆跡でそれらをしたためられた文章の最初は、決まって“親愛なるリシェル”で始まる。今も昔も。私が“リシェル”を捨て、“オリヴィア”として生き始めてもからも、ずっと。彼は未だに私のことを、昔と変わらずに「リシェル」と呼んでくれる。アルベルトも両親も、もう長いこと口にしていないその名前を。ルシウスだけが、ずっと、ずっと。まるでそれが大切な言葉ででもあるみたいに。声にも筆跡にも、穏やかな熱を滲ませて。
「なんとなく」
言葉を探すように一拍の間をおき、ルシウスは小さく笑う。私の双眸を、真っ直ぐに見つめて。奪い取った短剣を片手に握り締めたまま。
「なんとなく、君を抱き締めたくなったから」
全く以て予想外の台詞に、私は呆然とし、そして思わず吹き出した。そのまま
くすくすと笑い、笑いながらどんどんと涙が込み上げてきて、唇も声もぐっしょりと濡れる。遂にはしゃくりあげてしまい、私は子どものように情けなく声を漏らして泣きじゃくりながら、その場に力なく崩折れた。
思えば、こんなふうにして泣く時、傍には決まってルシウスがいた。或いはもしかしたら、彼が傍にいてくれるから、私はこんなふうにして泣けるのかもしれない。伯爵家の娘という身分も、しっかりと叩き込まれたはずの“淑女”の所作も、何もかもを忘れて。“リシェル”という名前を持つ、ただひとりの生身の人間として。全てを曝け出した、まっさらな姿で。
そう出来るのが、大切な姉でも大好きなアルベルトでもなく、ルシウスの傍だけなのは、どうしてだろう。彼の傍でだけ、ありのままでいられるのは。




