第二話
――君は、破滅の道の先に、幸せが待ってるとでも思ってるのか?
唯一、本当の“私”の身を案じてくれた友人は、呆れと怒りと同情を滲ませた顔をしてそう言っていた。歪んだ献身を、彼は、彼だけは引き留めようとしてくれたのだ。最後の最後まで。一歩距離はおきつつも、それでも必死に。
でも私は、その時の彼に何も言葉を返すことが出来なかった。幸せが待っているなど、そんなことは少しも思っていなかったから。だからこそ私は、それにしがみつき、幻を見ようとしていた。そうすることでしか、目を背けることが出来なかったのだ。ひたひたと背筋を這い上ってくる、冷たい現実から。狂うしかなかった。狂う以外に方法がなかった。もうこれ以上、大好きな初恋の人の壊れる姿を見ない為に。大切な両親の萎れた姿を見ない為に。狂わなければやっていけなかったのだ。
死んだはずの“姉”が戻って以降、アルベルトはもとの元気を取り戻し、仕事も慈善活動も積極的に取り組むようになった。きちんと食事を摂り、夜はしっかりと眠り、そうすることで顔色は随分と良くなり、また昔のやさしい笑顔を見れるようになって、どんなに安心したことだろう。彼が元気になればなるほど、昔の――本物のオリヴィアが生きていた頃の――彼に戻れば戻るほど、私は心から安堵し、そしてとても喜んだ。その為なら、自分の好みでないドレスや宝石を身につけることも、苦手である刺繍を特訓することも、まるで興味のない美術鑑賞をすることも、全く以て苦にならなかった。彼がそれで、“姉”が生きているのだと、幸福な偽りに浸ることが出来るのなら。どんな努力も、私は惜しまなかった。
友人はそれを、犠牲的だ、と言っていたけれど。でも私は、少しもそうは思わなかった。アルベルトのことを愛していたから。自分自身を殺すのは、だから寧ろ自然なことだった。考えるなんて、そもそもそんなことをしないくらいごく当たり前の、自然なこと。
「あの頃は、ある意味幸せだったのかもしれないわ」
そう独りごち、手の中の冷たい物体に視線を落とす。蒼白い月明かりに照らされ、淡い光を湛えながら、凍てついたように沈黙する銀色の刃。輪郭を縁取るその輝きは、どこか蠱惑的で、その妖しくも清らかな美しさについ見惚れてしまう。綺麗だ、と思った。とても綺麗で、そして、それはとても剣呑な魅力だ、とも。鈍い色をしているのに、突き抜けるほど澄んでいるように見えるのは、どうしてだろう。
アルベルトは、生前の姉へ対するのと同様に、たくさんの贈り物をしてくれた。王都で一番人気のある店で仕立ててもらった流行りのドレス、繊細な技術をもって造られたアクセサリー、毎日部屋を飾る色とりどりの花々、美味しいと話題のスイーツや果物。時にはピクニックへ出かけたり、郊外にある別荘へ連れていってくれたり。“姉”の笑顔を見る為なら、彼はお金も労力も、少しも惜しむことはなかった。もしかしたら、本物の“オリヴィア”が生きていた頃以上に。
だから私は、常に笑みを絶やさなかった。プレゼントを受け取る時も、ピクニックで湖を眺めている時も、なんでもない時にふとアルベルトが視線を向けてきた、その瞬間でさえ。姉と瓜二つの顔に、姉そのものの微笑みを、姉のするのと全く同じ仕草で。どんな時でも、彼の愛していた“オリヴィア”の笑みを、顔に貼り続けていた。
そうすることでアルベルトが喜んでくれるのなら。そうすることで両親が安心してくれるのなら。彼の贈ってくれるドレスやアクセサリーや花々が、自分の好みに合うものではなかったとしても。彼の連れていってくれる場所が、姉との思い出の詰まった場所ばかりだったとしても。それでも私は、笑い続けることが出来た。私自身としてではなく、もうこの世にはいないはずの“オリヴィア”として。
私はただ、大事な人たちを守りたかった。本当に、それだけだった。初恋の人であるアルベルトを。今まで育ててくれた両親を。愛されたかったわけではない。愛されないことなんて、そもそもの初めから知っていた。そんなことを望めば、どんなに辛く苦しい日々に身を落とすことになるか。友人から苦言を呈されなくたって、分かっていた。
それでも――。冷たい光を帯びる短剣の、黒くしっかりとした柄を握る手に力をこめながら、小さく苦笑をこぼす。愛されたかったわけではない。愛されることを望んだこともない。それでも、心は常に悲鳴をあげていた。辛くて辛くてたまらない、と。苦しくて苦しくてたまらない、と。尖った爪先を胸の壁に突き立てて、何度も何度も引っ掻いては、膿んだ傷口を更に抉り返す。
私の誤算は、正にそれだった。愛されないことを分かっていても、愛されることを望んでいなくても。それでも、心がぐちゃぐちゃになってしまうほどの苦痛が待ち受けていることに変わりはないのだ、と、私はそれに気付いていなかった。或いは、その不都合な現実から無意識に目を逸らしていた。アルベルトを想う気持ちをどうすることも出来なかった時点で、私が地獄に身を落とすことは決まっていたというのに。
恋心は、日々じわじわと、私の首を締め付けていった。真綿のようにやさしい、けれどもひどく冷たい手で。青紫色の痕がくっきりと残ってしまうくらい、きつく、力強く。これは、私の負った罪に対する罰なのだ、と思った。“リシェル”としての心も思考も、ついぞ殺せなかったことへの罰なのだ、と。
どんなに傍にいても。どんなに尽くしても。アルベルトの瞳にはいつも、オリヴィアの姿が映り込んでいた。瓜二つである私の顔を通して。彼はどんな時でも、“本物の妻”の姿を見ていた。手を繋いでいる時も。抱き締めている時も。キスをしている時だって、彼は私の唇を通して、最愛の人と口づけをしていたのだ。アルベルトの頭の中には、いつだってオリヴィアがいた。オリヴィアだけしかいなかった。彼女に双子の妹がいたことなど、もしかしたら忘れていたかもしれない。
それを、彼の眼差しから、彼のぬくもりから痛感すればするほど、私は言いようのないどろどろとした感情にとらわれ、息が出来なくなった。悲しかったのかもしれない。寂しかったのかもしれない。けれど、涙はひとつもこぼれなかった。それどころか、そういう時には決まって、乾いた笑みがくつくつとわいた。面白くも、愉しくもないというのに。自分でもどうしようも出来ないくらい、笑いは次から次へと込み上げてきた。“オリヴィア”としてではなく、“リシェル”として。
初めてそうなった時には既に、私はもう壊れてしまっていたのだろう。愛するアルベルトや、両親と同じ様に。身も心も思考も。しかし何より苦痛だったのは、完全に壊れきってしまえなかった、ということだった。正常な部分が少なからず残っているせいで、落差があまりにも激しすぎるのだ。完全に壊れてしまえていたら、どんなに良かっただろう。“死んだ人間が生き返った”などというあり得ないことを、すんなりと受け入れられるくらい。或いは、私は“オリヴィア”であり、“リシェル”などという人間はこの世に初めから存在しなかった、と思い込めるくらい。完全に狂えてしまっていたら、どんなに幸せだっただろう。
アルベルトへの想いをどこかで捨てられていたら。もう二度ともとに戻らないくらい粉々に砕いてしまえていたなら。私は友人の呆れに、怒りに、「そうね」と同意を返すことが出来ていたのだろうか。彼の差し出してくれた手を、握ることが出来ていたのだろうか。
そんな、今更どうにもならないことを頭の片隅で考えながら、両手に握り締めた短剣をゆっくりと持ち上げる。そうする手は細かく震えているというのに、でも、少しも恐ろしくはなかった。寧ろ清々しいまでの安心感と、そして、とろりと蕩けるような開放感が、身体中をやさしく包みこんでいる。
死のう、と思いついた時、それはとても素晴らしい考えだ、と思ったことを、今でも鮮明に憶えている。喜びが溢れたことも、今すぐそれをしたいと心が弾んだことも。
死んでも姉のもとへはいけないだろう。身代わりまでなくなって、両親はひどく落ち込むだろう。二度目の喪失によって、アルベルトは今以上に狂い病んでしまうかもしれない。でも、その時の私の頭には、それらは少しも浮かばなかった。不思議なほど、何もかも。愛しているはずのアルベルトのことすら、全く。それくらい、私にとって死は魅力的なものだったのだ。心をとらわれるくらい。生きることよりも死ぬことの方が、大きな幸福に思えた。
その、幸せ以外の何物でもない死が、今目の前に迫っている。鋭く尖った、蒼白い月明かりを浴びて妖しく光る切っ先とともに。これで喉を一突きすれば。そうすれば、全てが終わり、全てから開放される。“オリヴィア”としての人生からも、“リシェル”としての人生からも。そして、ひどく縺れてしまい、歪な形になってしまったたくさんの人々の人生や感情からも。
痛くて苦しいのは、きっとほんの少しの間だけだ。それはこれまで味わった数々の苦楚に比べれば、ずっとずっとやさしいものだろう。もしかしたら、痛いとも苦しいとも思わないかもしれない。
切っ先を、少しずつ、でも躊躇いなく近づける度、くすくすとした笑いがこぼれ落ちてゆく。もっと早くこうしていればよかった。でも、どこでそうすることが正しかったのかは、分からない。姉を亡くした時か、両親に頼まれた時か、それとも、アルベルトに初めて――“オリヴィア”として――抱き締められた時か。
でももうそんなことは、どうでもいい。おかしくもないのに笑みを深め、ぼやけた庭を見るともなく見つめる。こんな時に頭に浮かぶのは、愛しているはずのアルベルトでも、大切な両親の顔でもなく、何故か友人の、屈託のない笑顔だった。
最後の最後まで私の心身を案じてくれた彼は、今この瞬間、どこで何をしているのだろう。何をし、何を考え、何を想っているのだろう。私が死んだと知ったら、彼はきっと驚くに違いない。驚いて、そしてひどく後悔するだろう。彼はとても心優しい人だから。彼の忠告を受け入れなかった私が全て悪いのに。それでも彼は悔いて悔いて悔やみ続けてしまうかもしれない。
最期に――。つんとした冷たい感触が喉の皮膚に触れ、ゆっくりと目を瞑る。最期にもう一度だけ、彼に会いたかった。彼に会って、たくさんたくさん謝って、そして同じくらい、いやもっとそれ以上に、たくさんの感謝を伝えたかった。ごめんなさい。ありがとう。そんな言葉では、溢れ出る想いの全てを渡すことは出来ないけれど。それでも最期に彼に会って、そして――
「――どうして君は、いつも自分を傷つける方ばかり選んでしまうんだろうね」