表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/19

最終話

 ――次は白いチューリップだけど、これがまあなかなか難しい花言葉でね。


 どこからともなく、ふわふわと飛んできた白い蝶が、リシェルの頭の上に静かにとまる。それは薄っすらと透けた大きな羽を数度動かし、薄青いきらめきを散らして、音もなくすうっと消えていった。まるで夜気の中へ溶けるように。


 ――実はこの色にはね、“失恋”という悪い花言葉があるんだよ。だからあまり好まれなくてね。こんなにも清廉で美しいのに。


 リシェルが、自身の創り出した“オリヴィア”と完全に決別するには、まだ少し時間がかかるだろう。心の奥に深く根付いた、アルベルトへの恋心を潔く手放すことも。もしかしたらそれには、もっともっと時間が要るかもしれない。途方もない長い時間が。

 けれど、彼女が“リシェル”として生きたいと思うなら。“リシェル”として自分だけの人生を歩んでいきたいと思うのなら。俺はどれだけ時間がかかろうと、彼女を支えていくつもりだ。誰よりも一番近くで。たとえ彼女が、俺のことを愛してくれなくても。


 ――だがねえ、白いチューリップには、ちゃあんと良い花言葉もあるんだよ。


 いや、それは違うな。くつりと喉奥で笑いながら、艷やかな淡い金色の髪の毛に、するりと指を通す。俺のことを愛してくれなくてもいい、なんて、それはただの欺瞞だ。本当は彼女に愛されたいと思っている。アルベルト以上に。そう思うのは、でも当たり前のことだろう。リシェルが一途にアルベルトを想い続けていたように、俺もまた彼女を一途に想い続けているのだから。昔も、今も。それこそ、俺の人生の全てを差し出せるくらいに。


 ――それはね、“新しい愛”だ。とても素敵だと思わないかい? この純粋無垢な色にぴったりの花言葉だと、私は思うんだよ。


 愛の重い男だな、と、あの我儘王太子なら絶対に言うだろう。舞踏会で、どんな令嬢に声をかけられても頑なに断り続けていたお前がねえ、とも。呆れつつも、どこか愉しげに笑いながら。その顔がありありと想像出来て、俺は静かに笑みを湛えながら、ゆっくりと瞼をとざす。腕の中にあるやわらかさとぬくもりと、鼻を掠める甘やかな香り。それらを、皮膚のひとつひとつで、神経のひとつひとつでしっかりと感じ取り、そうすればそうするほど、胸の底から愛しさがどんどんと溢れ出てくる。


 このまま、この創りものの世界の中にいたい、と思う。ふたりだけで。蒼白い月と、淡い蝶たちと、それからたくさんの白いチューリップにだけ見守れたこの世界に、彼女とふたりだけで。いつまでも、ここで安らかに過ごしていたい、と。

 もちろんそんなことは無理だと、頭では分かっているけれど。何せ魔塔に戻れば、すぐにどこぞの殿下の仕事を片っ端からこなさなければならないのだから。

 でも、それでも、今だけは――。


「……リシェル」


 もしあの時、教会の裏庭で彼女と出会わなければ。不器用に剥かれたオレンジを差し出されなければ。俺たちは今頃、どんなふうに過ごしていたのだろう。今までに何度も考えてみたことはあるけれど、その度にどうしても違和感を覚えて、どんな答えもしっくりこなかった。彼女と出会わなかったら、という、そもそもその仮定自体が、どこか引っかかってしまうのだ。


 ――貴方達って、正に“魂の伴侶(ソウルメイト)”よね。


 いつだったか、オリヴィアにそう言われたことがあるのを思い出しながら、金色のやわらかな髪の毛を指先に絡め取る。彼女が、“ソウルメイト”などという、スピリチュアルな言葉を使うタイプには思えなかったけれど。しかし、自信たっぷりな彼女の声には、それ以外ありえないわ、というような確信が滲んでいた。当時はその確信が、どこからくるのか分からなかったものだ。


 ――リシェルとルシウスは、きっと魂で繋がっているんだわ。


 もしそれが、本当だったとしたら――。弄んでいた髪をそっと指先からほどき、小さなつむじの見える頭を見下ろす。ゆるやかな呼吸に胸が上下する度、あたたかな命の音が、腕の中でやさしく脈打っている。その心地の良い鼓動に、俺はふっと目元を綻ばす。どうしようもなく愛しくて。


 もしそれが本当なら。

 今度こそ彼女を、護り抜こう。

 二度と、傷つけさせはしない。

 二度と、辛い思いをさせはしない。

 二度と、哀しみに暮れさせはしない。

 二度と、涙の夜をひとりで過ごさせたりはしない。


 今にも身体から溢れ出してしまいそうな、蕩けるほどのたくさんの愛を注いで。誰よりも深く、誰よりも誠実に。彼女を抱き締め、そうして、この命が尽きる最後の最期まで、彼女を護り抜こう。ずっと、ずっと。


 ぐっすりと眠るリシェルの、あまりに安心しきった寝顔に思わず微笑みを深め、抱き締める腕にそっと力をこめながら、小さな頭の頂にやさしく口づけを落とす。


 ――最愛のリシェルへ、永遠に続く誓いをこめて。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ