第九話
***
ゆっくりと瞼を開けると、立てた右膝の上に蝶がとまっていた。淡く透けるような白色の羽をした、この世のものでありこの世のものではない、美しい蝶。そっと指先を寄せてやると、蝶は迷う素振りも見せずに、素直に爪の上に乗り移った。ほっそりとした、風が吹けばすぐにでも折れてしまいそうな足で。浮いているわけではないのに、つま先には軽さも重さも感じない。魔法で創り上げた幻なのだから、当然といえば当然なのだけれど。
指先を軽く動かしてやると、蝶は月明かりに照らされて透けた羽を羽ばたかせ、蒼白い月がぽっかり浮かぶ地平線めがけてゆったりと飛んでいった。あたたかな夜風にそよぐ白いチューリップたちの真上を、ふわふわと、まるで踊るように。薄青い鱗粉のようなものを、きらきらと鏤めながら。
――おや、チューリップを買いたいのかい?
飛んでいった蝶から目を逸らし、ゆるりと顔を動かして、隣に蹲る小さな塊に視線を落とす。透明な硝子の髪飾りを大切そうに抱き締め、軽く身体を丸めるようにして地面に横たわるリシェルは、とても穏やかな表情を浮かべて、ぐっすりと眠りについている。あれだけ泣いたら、さすがに疲れもするだろう。それだけでなく、彼女はここ最近禄に眠れていなかった、と、老齢の執事が嘆いていた。寝付きに良いというハーブなどを試しても心が安らぐことはなく、そのせいで目元にくまを作ってしまうことも屡々で、その度にアルベルトへ知られないよう化粧で誤魔化していた、とも。
無意識なのか、それともそうではないのか。ぴとりと俺に身体を寄せて眠る彼女の、安心しきった寝顔につい笑みをこぼしながら、白い頬にかかった髪の毛をそうっと払ってやる。こんなにも無防備に眠られると、男としては、頼られている嬉しさと同時に、余計なことまで考えてしまうから困ったものだ。男はみんな狼だ、と、いつかふたりで読んだ本にそう書いてあったはずなのだが、もしかしたら彼女はもう忘れてしまっているのかもしれない。
脱いだ上着を彼女の華奢な身体にかけてやり、かさかさと、まるで波のように広がる葉音へと目を向ける。地平線の彼方まで、一面をびっしりと埋め尽くす、白いチューリップ。魔法で創ったそれから匂いがするはずはないのに、甘やかな香りがするのはどうしてだろう。甘く優雅で、心にそっと沁み込んでくるような、素晴らしく気品のある香り。
――もしかして、好きな子にでもプレゼントする気なのかね。
もう顔も名前も憶えていないというのに、不思議なもので、声だけが鮮明に脳裏へ蘇ってくる。確か中年は超えていただろう花屋の女店主の、快活で爽やかな声。見窄らしい格好をした、明らかに“金を十分に持っていない”と分かる子どもにも、彼女はとても朗らかに、やさしく接してくれた。少しばかりお節介焼きでもあったけれど。
――チューリップはね、実は色によって花言葉が違うんだよ。
芝生の上にごろりと上体を倒し、無数の星々が煌々ときらめく夜空を仰ぎ見る。まだ幼かった頃、リシェルとよくそうしたように。あの時はただの原っぱで、見上げたのは夜空ではなく、白い雲の漂う青い空だったけれど。大地と、或いは空と一体になるような感覚を、自然に溶け込む気持ちよさを、ふたりで心底楽しんだものだ。
いったいいつぶりだろう。こうしてふたり並んで、地面の上に横になるのは。
――まず、赤いチューリップ。これの花言葉は、“愛の告白”だ。
ゆっくりと身体を横に向け、眠っているリシェルを起こさぬよう細心の注意を払いながら、彼女の小さな体を上着ごと片腕で抱き締める。上着のせいで幾分厚みはあるが、しかし腕の中の彼女は、思っていた以上にか細く、脆く、繊細だった。少しでも力を入れたら、粉々に砕け散ってしまうのではないかと思うほど。
何故もっと早く助け出さなかったのだろう。護りたいと、あれほど思っていながら。どうして見守ることに徹してしまったのだろう。今更遅いと分かっていても、後悔ばかりが荒波のように押し寄せ、その罪悪感と切なさに、胸が締め付けられる。アルベルトに背を押されなければ、もしかしたらずっと何も変わらなかったかもしれない。
だからこそ、これからは――。抱き締める腕にほんの僅かだけ力をこめながら、触れ合った部分から伝わってくる彼女のやわらかなぬくもりを噛み締める。だからこそこれからは、彼女を世界で一番の幸せ者にしてやりたいと思う。誰がなんと言おうと。誰に呆れられようと。そんなものは関係ない。彼女がいつも笑顔でいられるなら。彼女がいつも幸せでいられるなら。その為なら、何だってしてやれる。
ある意味アルベルトも連れ去りの共犯である以上、侯爵家は口出しをしてこないだろう。問題は、彼女に“オリヴィア”として生きることを課したモランディーヌ家だが、そこは殿下がどうにかしてくれると、しっかり約束を取り付けてある。無論ただというわけではなく、相応の――もしかしたら相応以上の――対価、つまりは仕事を請け負うことになってしまいはしたけれど。しかし、それで“王族”という絶対権力を味方につけられるのなら安いものだ。殿下の専属になる、という契約書を、笑顔という無言の圧力で書かされたのには、幾分不満は残っているけれど。