第八話
「全て、彼女の為だったんだろう? ……魔法師になったのも、全て」
アルベルトの手が左耳からゆっくりと離れ、絨毯の上にそっと落ちる。血のように深い臙脂色の、毛足の短い絨毯の上に。その様はまるで、何かを手放した瞬間のように見えた。細く長い、強固に縛り付けていた、或いは頑なに握り締めていた何かから指先を放したように。ただの錯覚だろうけれど。
しかし、彼の琥珀色の瞳には、決然とした色が静かに滲んでいた。決然と、けれども沼のように深い諦念も混ざりあった、苦しげな色。
君には才能がある、と、そう言われることは、幼い時からよくあった。貧民街にいた頃も、老齢の院長に気まぐれに拾われて孤児院で過ごしていた頃も。君には魔法師になる才能がある、と。
しかし当時の俺は、そんな評価などどうでも良かったし、興味すら少しもなかった。魔法を扱える素質があったのは確かだし、誰に習わずとも比較的自由に使いこなせていた自覚もある。けれど、だからといって“魔法師になる”という気はさらさらなかった。そんなものになって何になるのだろう、と思っていたから。魔塔などとう、所謂“大きな組織”に自分のような人間が不向きであるのもよくよく分かっていたから、というのもある。
魔法なんて、“便利な道具”として自分の為に扱えればそれで十分だ、と思っていた。他の誰かの為に使うなんて、微塵も考えたこともなければ、寧ろ厄介なことだと感じていたものだ。――リシェルに出会い、彼女が一途に想いを寄せているのだという侯爵家の嫡男を目の当たりにするまでは。
「彼女を護るには、君はそうするしかなかった。……いや、“護る”というより――」
彼はこんなにも饒舌だっただろうか。頭の片隅でぼんやりとそう思いながら、まだ元気だった頃のオリヴィアと仲睦まじげに身を寄せ合うふたりを、瞼の裏に一瞬だけ過ぎらせる。
リシェルはいつも、そんなふたりをただ見ているだけだった。時には話しかけられ、傍にいることを求められても。それでも彼女は、身も心も蕩けるほどに愛し合うふたりから数歩ばかり距離をおき、そこに突っ立ってただ眺めているだけだった。彼女自身がふたりとの間にひいた溝は、恐らくはアルベルトやオリヴィアが思ってる以上に、とても深い。細いように見えて太く、近いように見えて遠く、浅いように見えて深い。そうすることが、ある意味リシェルにとっての“けじめ”だったのだろう。
そんな彼女を、ずっと傍で見てきたからこそ――。
「君は、彼女を奪い去りたかったんじゃないのかい? 伯爵家から、侯爵家から、オリヴィアから、そして――僕から」
その言葉が耳に届いた瞬間、喉の奥で何かがつかえたように呼吸が止まり、思わず息を呑んだ。心臓がひときわ強く打ち、視界の焦点がぐらりと揺らぐ。じわじわと見開かれる目の真ん中で、淡い金色の髪の毛がふわりと靡いたような気がして、わざつく胸を強く鷲掴まれた。切なさのような、懐かしさのような、恋しさのような。
「爵位のない孤児院出身の君が、伯爵家の令嬢を迎えるには、魔法師になる以外道がなかった。……魔塔の頂に立つ“大魔法師”は、公爵家に並ぶ地位と権威を持つ称号だからね」
何も言えずにいる俺を、アルベルトは純粋な眼差しで真っ直ぐに見据えたまま、ゆっくりと上半身を起こした。静かで、流れるようなその動きに合わせ、甘く優雅な薔薇の香りが鼻先を掠める。オリヴィアがこの世で最も愛していたという、八重咲きの白い薔薇の匂い。
「君には、確かに才能があった。しかも今や、王太子殿下のお気に入りでもある。……けれど、才能だけで“大魔法師”に上り詰められるほど、現実は甘くなかったはずだ」
魔塔には様々な魔術師がいる。老齢の熟練者もいれば、年若い勢いだけの奴もいるし、駆使する魔法の得手不得手も千差万別。故に、“才能がある”からといって、必ずしも階級を飛び越えていけるわけではないのだ。そもそも魔塔に所属するような魔術師には、“才能のある奴”しか殆どなることは出来ない。才能のあるなしという、そんな簡単な括りで分類するのなら、“才能のある奴”なんて魔塔には掃いて捨てるほどいるわけだ。つまり土俵はみな同じであり、才能のあるなしなんて、魔塔に入ってしまえば、お飾りにすらならないほど、全く以て関係がない。
大魔法師にまで上り詰めるには、だから並々ならぬ努力が不可欠だ。任務をこなしながら勉学に励み、新しい魔法を会得したり編み出したり、時には腹の探り合いをし、好き嫌いを問わず“必要か否か”で人脈を形成する――例えを挙げればきりがない。正直に言えば、何もかもが面倒だった。勉強も魔法陣の解読も、愛想笑いをしながらの人脈作りも、王太子殿下直々にこき使われることも。
けれど、それらに辟易としながらも前へ突き進めたのは、偏にリシェルの存在があったからだ。彼女への想いがなければ、魔塔も魔法師という立場も、何もかも疾うに投げ捨てていたことだろう。そもそも出世に興味なんて持ちはしなかっただろうし、魔法を極めようだなんて思いもしなかったはずだ。
どこの馬の骨とも分からない孤児院出身の俺が、伯爵家の娘であるリシェルの傍にいるには、彼女を護る為には、相応かそれ以上の地位が、どうしても必要だった。だから我武者羅になれた。リシェルの傍にいられるなら、彼女を護れるのなら。その為なら何だって出来る、と。どんな時でもそう思えた。愚直なまでに。
魔塔の頂に立ちさえすれば。伯爵家や侯爵家をも上回る、公爵家と並ぶ地位と権威を手に入れさえすれば――。それだけを目指し、今までずっと突き進んできた。どんなに苦しい時も、前へ前へと、真っ直ぐに。そうする以外に、俺には道がなかった。そもそもリシェルとは、あまりにも身分に違いがありすぎたから。
ただ彼女の傍にいたかった。傍にいて、彼女を護りたかった。いつでも笑顔でいられるように。ずっとずっと、どこまでも幸せでいられるように。
「彼女を幸せに出来るのは、僕じゃない。……君しかいないんだよ、ルシウス」
その声音には、後悔も、嫉妬も、未練さえもなかった。真摯で、きっぱりとしていて、心の奥にすうっと届いてくるように純粋で。しかしその中に、償いきれぬ罪を背負った者としての贖いのようなものが、微かに滲んでいるようにも感じられた。
ひとりの女を心の底から真剣に愛したことがあるからこそ。その人を傷つけたくない、護りたいと思ったことがあるからこそ。深く考え倦ねたその果てに漸く辿り着いた、答え。
「僕がこんなことを言うのはどうかと思うけれど……彼女まで失いたくはないんだ」
かつてなく近くにある琥珀色の瞳を見据えながら、随分と迷いのない目だ、と思った。まだオリヴィアが生きていた頃の彼を彷彿とさせる、美しい輝きに満ちた瞳。その麗しさを、まるでアンバーのようだとたとえたのは、リシェルだった。とろりと滑らかな甘い蜂蜜のような瞳だ、と。
――でも私、貴方のその青い瞳の方が、凄く素敵だと思うの。
内緒話でもするように耳元へ唇を寄せ、こそこそと――吐息がかかってこそばゆかったが――打ち明けるリシェルの、楽しげに弾んだ声。少し顔を離し、呆気にとられた俺のかんばせを見つめながら、くすくすとはにかんでいた彼女の、やわらかな表情。
どんなに遠い昔のことでも、リシェルのことであればすぐに思い出せてしまうのだから面白い。どんな小さなことでも。にっこりとした顔も、うきうきとした声も、花を抱き締める細い腕も、野を駆け回るすばしっこい白い足も、何もかも。
愛している。誰よりも。ずっと昔から。
そんな彼女を奪い去りたかった。彼女を苦しめる全てのものから。彼女を護りたかった。
愛しているから。心の底から。自分の命を賭してでも、この人だけは、と思える唯一の人――。
「だから、彼女を……助け出してあげてほしい。君の手で」
そう言いながら、アルベルトはやさしく微笑み、とん、と俺の胸元を拳で軽く小突いた。縋るようでも、押し付けるようでもなく。ただ静かに、深い願いを託すように。