第六話
「オリヴィアが戻ってきた……そう思ったら、もう抗うことなんて出来なかった」
静かに、ぽつりぽつりと紡がれるアルベルトの言葉を耳にしながら、半ば睨め付けるようにして刺繍針と向き合うリシェルの――“オリヴィア”を演じるリシェルの――横顔を思い出す。彼女は姉と違い、刺繍も裁縫もてんで駄目だった。苦手を通り越して、もはや天才的なまでに下手だった。ある意味で一種の才能だろう、とからかったことを憶えている。彼女はオリヴィアではなくリシェルとして唇を尖らせ、膨れっ面をしたけれど。それでも彼女は、刺繍も裁縫も得意だった“オリヴィア”になりきる為に、懸命に練習を重ねていた。アルベルトの目の届かぬところで。白くほっそりとした指に、幾つもの小さな傷を作りながらも。
もしかしたら彼女は憶えていないだろうけれど――。胸倉を掴む手に力をこめながら、まだ明るいばかりだった過去の日々の眩さに、僅かばかり目を細める。
裁縫や刺繍は、貴族の娘に必須とされる嗜みのひとつだ。いくら苦手といえど、伯爵家の令嬢であるリシェルもまた例外ではない。家庭教師に教わっている、と嘗て彼女は言っていた。その頃、つまりはまだ十かそこらの齢の頃から既に、彼女は裁縫の類がまるで駄目だった。何度練習してもうまくいかず、それでも教会の裏庭で黙々と――というより、嫌々と――丸い枠に張られた布に針を突き刺していた彼女の、拗ねたように口をへの字に曲げた顔。
どうせアルベルトにでも遣るハンカチなのだろう、と思って、敢えて気にしないようにしていたのだが――。けれどもおかしなことに、苦戦しながらも初めて仕上げたそのハンカチを渡してきたのは、アルベルトでもオリヴィアでもなく、まさかの俺だった。彼女らしい純粋さのあらわれた清潔な白いハンカチと、その隅に不器用に縫い付けられた、赤と緑の花のような何か。
――なんだ、これ。
――どう見てもチューリップでしょう?
言われてみれば、確かにチューリップに見えなくもなかった。赤い花弁と、緑色の茎と葉。「下手くそだなあ」とからかったのを、今でもはっきりと憶えている。彼女が機嫌を損ねて「じゃあ、捨てればいいじゃない」と言ったことも。そんな遣り取りを遠い昔にしたことを、きっと彼女はもう憶えてはいないだろう。
そしてそのハンカチを、俺が今でも大事にしていることを、リシェルは当然知らないはずだ。言ったこともなければ、彼女の前で取り出したこともないのだから。
「だからずっと、狂った演技をしてたってわけか」
「狂わないとやっていけなかったんだよ。狂わなければ……彼女をオリヴィアだと思い込み続けることが難しかった。……ルシウス、君になら分かるだろう? どうしたって僕たちは、彼女たちを“本能的に”見分けてしまうんだ」
否が応でも分かってしまう。彼女はオリヴィアではない、と。だから執拗以上に、アルベルトは“オリヴィア”をオリヴィアたらしめるもので埋め尽くそうとしたのだろう。ドレスもアクセサリーも、好みの花も食べ物も、何もかも。そうすることで誤魔化したかったに違いない。見て見ぬふりをしたかったに違いない。眼の前にいる“オリヴィア”がオリヴィアではない、というその現実を、がむしゃらに打ち消したかったのだろう。その現実こそが間違いなのだ、と、そう必死に思い込むことで。
全て分かった上で、こいつはそれをしていたのだ。狂いたくて狂おうとした男の末路は――結局、何の意味もなさず、ただ自分自身を、そしてリシェルを苦しめるだけにしかならなかった。
「……このままでは、彼女は本当に、戻れないところまで壊れてしまう」
そうさせたのはお前たちだろう、と、勢いよく飛び出しそうになった怒声を、既の所で呑み込む。彼女の両親が提案さえしなければ、アルベルトが拒絶さえしていれば、リシェルは深く傷つくことも、ひどく追い詰められることもなかったのだ。そうだというのに、何故今更そんなことをほざくのだろう。そんな奴の気が知れない、と思った。知りたくもない、とも。“分かっていながらやっていた”アルベルトがそれを言うというのが、何よりも腹立たしかった。彼女を壊したのは、お前たちだろう。
けれど――。胸倉を掴む手の力をゆっくりと緩めながら、俺は唇に忌々しく奥歯を突き立てた。彼女を壊したのは、両親であり、アルベルトであり、そして他ならぬ俺自身だ。何だかんだと結果的には折れ、彼女の頼みを聞いて、瞳の色や泣きぼくろを変えたのは俺なのだから。あそこで無理矢理引き留めていれば。強引に連れ去ってでもいれば。彼女はこんなにも傷つかずに済んだのだ。リシェルを護りたいと思っていながら。彼女だけは何が何でも護り抜こうと誓っていながら――。
俺もまた、同じ罪を背負っている。両親と、アルベルトと同じものを。彼らと俺は、何も変わらない。誰よりも大切にしたかったはずのリシェルを、俺は自らの手で壊してしまったのだから。アルベルトをこれ以上責めることなど、出来るはずがない。
「だから、彼女をここから連れ出して……幸せにしてあげてほしい」
そう言いながら浮かべられた笑みは、穏やかで、優しさに満ちたものだった。リシェルの幸せを本心で願っていると、そうひと目見て分かる笑顔。
そんな表情が出来るのなら、どうして今まで彼女に対しそんな顔をしてやらなかったのだろう。一度でもいいからそれを、“オリヴィア”を演じるリシェルに対して向けてやれば。ちゃんとリシェル自身を見て言っているのだと気付かせてやれば。もしかしたら彼女は、どこかで諦めをつけたかもしれない。
けれど結局それもまた、自分の罪から目を逸らす為のものでしかない、と。胸の内で自嘲を漏らしながら、俺はゆっくりと瞬く。俺たちは全員馬鹿なんだ。馬鹿で愚かで。だから揃いも揃って、不幸になる道ばかり選んできてしまった。脆く歪な関係に繋がれたまま。それから逃れる術からも顔を背けて。
「……お前がリシェルを、幸せにしてやればいいだろ」
身体を一周回った末に、ひりつく唇の隙間からこぼれ出た声は、微かに震えていた。“オリヴィア”がリシェルだと分かっているのなら、そのまま彼女を愛し、大切にしてやればいいだろう――。そう思っているのは、しかし本心なのかそうでないのか、判然としなかった。無論、リシェルを誰にも渡したくない、と思っている。彼女の一番傍にいたい、とも。けれど、アルベルトを未だ一途に想い続けるリシェルの気持ちを尊重するのなら、長年恋し続けてきたアルベルトに大切にされるのが、彼女にとっては何よりの幸せだろう。
けれどアルベルトは、まるで全てを見透かしているかのように、静かに目を細めた。脆く痛々しい、見ているだけで胸を締め付けられる、翳りを含んだ笑み。
「それは、出来ない」
きっぱりとた口調でそう言い放ったアルベルトの目の端から、大粒の涙が一筋こぼれ落ちる。白い頬に残る濡れた跡を見つめ、俺は、ああ――と今更ながらに悟ってしまった。結局は彼も“犠牲者”のひとりなのだ、と。