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第五話

 亡き妻の身代わりとしてアルベルトのもとに嫁いだ彼女は、そう時間を要することもなく、食事の仕方や、お茶の飲み方や、微笑み方、首の傾げ方といった細かな仕草のひとつひとつに至るまで、完璧に“オリヴィア”を演じきるようになった。同化していた、とも言うのかもしれない。「オリヴィア」と呼ばれることに慣れてしまったせいか、「リシェル」と呼んでも気付かない時さえあるほど。身につけているもの――嘗てオリヴィアが着ていたドレス――のせいで、俺ですら思わずぞくりとしてしまうほど、彼女は完璧なまでに“オリヴィア”そのものとなっていた。瞳の色と泣きぼくろの違いをそのままにしていなければ、俺の目からも“リシェル”はいなくなっていたかもしれない。


 それでも、そんな彼女であろうとも、俺は絶対に護り抜こうと思っていた――はず、だった。どんな手を使ってでも。周りにどう思われようとも。

 けれど俺は結局、彼女を救うことが出来なかった。護ることは出来なかった。“オリヴィア”として生活してゆく中で、彼女は日に日に生気を失ってゆくばかりで、心はすっかり傷だらけになってしまっていたのだから。取り返しのつかないところまで。壊れていった、と言った方が正しいのかもしれない。狂うというよりも、壊れた。正常な精神も、やさしく純粋だった心も、何もかもが粉々に。


 ひどくやつれ、痛ましいほど壊れてしまった彼女を前に、俺は自分の過ちを認めざるを得なかった。リシェルが大事なら。彼女を護りたいのなら。たとえ友情に罅が入ろうとも、“オリヴィア”になることをやめさせるべきだったのだ。絶対にそうさせてはいけなかったのだ。そして――あの時に、俺は無理矢理にでも彼女を攫うべきだった。侯爵家から、伯爵家から、アルベルトから、そしてオリヴィアの亡霊から。たとえリシェルが嫌がろうと、泣き叫ぼうと、関係なく。そんなものはまるで無視して。あの時強引に、俺は彼女を攫うべきだったのだ。


 そう、だから――


「……彼女を、連れ出してくれないか」


 アルベルトの発した言葉を呑み込むより先に、俺は激しい衝動に突き動かされるまま、彼の胸倉を掴んで床に押し倒していた。久しぶりに訪れた彼の執務室の、臙脂の絨毯の敷き詰められた床に。理解と感情は後から追いついてきたものの、そうなればそうなるほど、身体中が沸騰しているみたいに熱くなり、胸倉をきつく握り締める手が震えた。歯を立てた唇の合間から、荒々しい吐息がこぼれる。馬乗りになった俺の下で、アルベルトは怯えるでも怒るでもなく、ただ悲しそうに微笑んでいた。


「お前、全部分かってっ……!」


 このままこいつを殴れれば、どんなにいいだろう。殴りたくてたまらなかった。哀れに歪んだ顔を、殴って、殴って――。

 こいつは全部知っていたのだ。恐らくは初めから。戻ってきたオリヴィアが“オリヴィア”ではないことを。その人物が彼女の双子の妹であるリシェルであることを。この男は知っていたのだ。知っていて、それを受け入れていた。“狂った夫”を演じながら。

 そんな男を殴らずにいられるわけがない。殴らずにどうしろというのだろう。けれど、身の内を暴れ回る憤怒を、俺は舌打ちを吐き捨てるだけに留めて、必死に抑え込んだ。拳を振り下ろしたところでどうにもならないと、頭の片隅の、微かに残った冷静な部分では、そう分かっていたから。


 訊きたいことはたくさんあった。山のように。けれど、口を開けば、それらとはまるで関係のない暴言ばかりが勢いよく飛び出してきそうで、噛み締めた唇をなかなか開けない。こんなにも感情が爆発するのはいったいいつぶりだろう、と思った。他人事のように、ぼんやりと。魔術師、特に魔塔の頂に立つような位の奴らには、自制心の強さが求められるというのに。こんなんでは魔法師失格だ、と、微かに潤んだ琥珀色の瞳を睨み付けたまま、胸の内で自嘲をこぼす。


 アルベルトは無抵抗だ。たとえ殴られようが、罵られようが、彼はきっとその全てを静かに受け入れるのだろう。見下ろす瞳には、そうと察せられるような暗い翳りが、深く滲んでいた。赦されようとしているわけでも、救われようとしているわけでもない。色んな感情が擦り切れた後の残穢のような諦念――それが今の彼に、もっともふさわしい表現であるような気がした。


 気づけば、ひどく長い沈黙が落ちていた。実際には数秒、或いはせいぜい数分ほどだったのかもしれない。けれどその静けさは、まるで数時間にも及ぶかのように、途方もなく重く、長く感じられた。


「……何故拒まなかった」


 それを破る為に漸く絞り出した声は、喉の奥で所々引っかかったせいでひどく掠れ、自分でも驚くほど弱々しかった。アルベルトの諦念が移ったのか、それとも、涙を堪えるような寂しげな微笑みを見つめ続けているせいか。身体を突き破らんばかりの激情は次第に萎んでゆき、代わりに、ひんやりと乾いた何かが背筋を這い上ってくる。開け放たれた窓から流れ込む真昼の風が頬を撫で、アルベルトの乱れた前髪を微かに揺らす。


「拒めなかったんだ」


 ひっそりと呟かれたそれは、まるで独り言のようだった。或いは、ここにはいない誰かに向けて囁いてでもいるみたいな。


「頭では違うと分かっていたさ。……けれど、あれほどまでに……オリヴィアそのままの姿を見せられて……拒めるわけないだろう?」


 そう言って力なく自嘲するアルベルトに、俺は言葉を失くし、苦々しく眉根を寄せる。言いようのない感情が、胸の内で燻っている。暗くどろりとした、決して快いものではない感情が。


 いくら瓜二つの姿形をした双子とはいえ、俺たちにとって、ふたりの見分けなど容易いことだ。瞳の色や、左目下の泣きぼくろを確かめなくとも、雰囲気やちょっとした仕草の違いで、簡単に判別が出来る。それだけ長い時間を共に過ごしてきたのだ。幼いころから、ずっと。

 そしてその歳月の中で、俺もアルベルトも、それぞれの大切な存在を、ひたむきに見つめ続けてきた。真っ直ぐに。一途に。そっくりでありそっくりではない、ただひとりの愛する女を。


 もう長くそんなふうだったのだ。どれほど巧妙に偽ろうと、どれほど完璧に演じようと、アルベルトが本当に正気を失ってでもいない限り、“オリヴィア”がオリヴィアでないことに気づけぬはずがない。

 何より、彼女はもうこの世にはいないのだ。天に還った者が生き返るなど、そんな奇跡は、決して起こりはしない。ふたりを見分けるなどという、そういう問題ではないのだ。

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