第二話
「実は私ね」
所々薄く曇った窓ガラス越しに外を眺め遣り、オリヴィアはそっと、僅かに目を細める。雪で白く色付いた庭園を見下ろしながら、しかしその視線の先にあるのは、ここではないどこか遠くであるような気がした。儚く、物憂いげな横顔。長い睫毛の先が、ほんの少し震えたように見えたのは、気の所為だろうか。
「貴方のことが、ずっと羨ましかったの。嫉妬してた、とも言うかしら」
意外な打ち明けに、思わず面食らって目を瞬かす。その反応を、微かに落ちた間から敏感に感じ取ったのか、オリヴィアはゆったりと表情を綻ばせ、窓枠の端に括り付けられたダマスク織のカーテンの、薄いライラック色の布地に寄り掛かった。細すぎる肩から滑り落ちた髪の毛が胸元で揺れ、淡い金色の毛先が仄かに輝く。
「ルシウスと一緒にいる時のあの子って、本当に楽しそうなの。よく喋って、よく笑って」
そこで漸く俺は気付く。彼女が眺めているのが色彩のない庭ではなく、遠い昔から連綿と紡がれる、双子の妹との懐かしい日々の記憶だということに。
「誰かに気を遣ったり、無理をしたりしている笑顔じゃないの。だからね、本当に心の底から楽しんでるって、私には分かるのよ」
静かに振り返り、オリヴィアはどこか悲しげに微笑んだ。
「あの子に、あんな幸せそうな表情をさせられるのは、ルシウスただひとりよ。私でもアルベルトでもない。貴方だけなの」
リシェルとよく似た声で語られる言葉に、自覚はまるでなかった。あるはずもない。何故なら彼女はずっと、あの男を――アルベルトだけを見ていたのだから。俺たちが出会った時には、もう既に。彼だけを一途に想い、彼だけを一途に見つめ、それは失恋を受け入れた後でさえ、少しも揺らぐことはなかった。
そんなリシェルの、ひたむきな姿を、何年も傍で見続けてきたのだ。時に励まし、時に慰めもしながら。報われぬと知りながらも、健気に想い続ける彼女を。
リシェルを笑顔にさせていたのは、彼女を――友情としてではあっても――幸せにさせていたのは、アルベルトだ。それを、知っている。嫌と言うほど思い知っている。だからこそ、オリヴィアの告白を、すんなりと信じることなど出来るはずがなかった。
「私とあの子はね、母のお腹の中にいる時から、ずっと一緒だったの。産まれてからも、どんな時だってあの子のすぐ傍にいたわ。双子として、姉妹として。当たり前のように寄り添って生きてきたのに――」
唐突に言葉を途切らせ、胸元を右手できつく握り締めながら、オリヴィアが苦しげに顔を歪める。病に冒された心臓が、また痛み出したのだろう。無理は禁物だ、と、主治医にもアルベルトにも口酸っぱく言いつけられているだろうに。それでもなお言葉を紡ごうとする彼女の肩に手を添え、ひどく痩せ細った身体を、ゆっくりとベッドへ横たえてやる。
「それなのに……どうしてかしら」
羽毛の詰まった寝具の上からショールを被せる俺の目を真っ直ぐに見つめ、オリヴィアは寂しげに、自嘲めいた笑みを薄っすらと浮かべた。
「あの子にあんな顔をさせられるのは、私ではなかったわ」
もし本当に、彼女がそれを理由に嫉妬心を抱いていたのなら。なんて残酷なことを言うのだろう、と思った。リシェルが最も欲していたものを、彼女はこれまで何度も、それこそ身から溢れるほどに与えられてきたはずなのに。アルベルトの視線を。アルベルトの愛情を。アルベルトのやさしさを。どれほど願っても、どんなに望んでも、それらが自分に向けられることは決してないと分かっていながら、それでもリシェルが、心の奥底では密かに焦がれていたものを、オリヴィアは当然のように手にしていたというのに。何年も、何年も、ずっと。
「双子の私には出来なくて、貴方だけが出来たの。自然に。それが……それが、本当に羨ましくて、寂しくて……嫉妬してしまったわ」
それなのに、どの口が“嫉妬”だの何だのとほざくのだろう。
彼女へ怒りを向けるのは間違っている、と。責めてはいけない、と。分かっている。頭では分かっているのだ。どうしようもないことだ、とも。
けれど、胸の奥底に湧き上がる苛立ちを抑えきることが出来ず、俺はそれを悟られぬよう視線を逸らし、彼女へ背を向けた。リシェルと瓜二つの顔から、殆ど同じ形をした目から逃げるようにして。
「……アルベルトを呼んでくる」
今すぐここを出ていきたかった。外へ出て、雪で冷やされた清潔な空気を、身体いっぱいに吸い込みたくてたまらなかった。そうすることで、胸のざわつきをどうにか鎮めたかった。
だから、努めて平静を装いながら歩み出そうとした俺を、しかしオリヴィアは無理矢理引き留めた。上着の袖を、蒼白い細い指で、まるで縋り付くように掴んで。
「ねえ、ルシウス。お願いがあるの。私の……最期の、お願い」
振り返ることはしなかった。しなかったというより、出来なかった。ただ静かに立ち尽くし、背中越しに彼女の言葉の続きを待つ。瞬きをする度、瞼の裏の暗闇に、リシェルの顔が次から次へと浮かんでくる。驚いている顔。泣いている顔。怒っている顔。そして、まるで太陽のように眩い、くしゃりと綻んだ笑顔――。
「貴方にしか頼めないことなの」
微かに触れた彼女の皮膚は、ひどく冷たかった。暖炉や魔道具で、春の陽だまりの中のようにあたためられた室内にいながら。外気に晒された人形の手でもあるみたいに。生気のまるで感じられない、骨の浮いた冷たい手。
「どうか、お願い。ずっと……ずっと、あの子の傍にいてあげて。誰よりも、一番近くに」
そう懇願する声は、病に蝕まれているとは思えないほど澄んでいて、力強かった。この世にたったひとりの、愛おしくてたまらない妹への想いが溢れんばかりに滲んだ、胸が締め付けられるほど真っ直ぐな声。祈るように紡がれたその言葉に、心が強く揺さぶられるのを感じながら、俺はただ奥歯をきつく噛み締めるしかなかった。大切な妹の幸せを願う、姉としての愛情。健気な、どこまでもどこまで純粋な想い。
それから三ヶ月後、彼女は亡くなった。ずっと共に生きてきた、かけがえのない妹に見守られながら。最愛の夫の腕の中で、静かに――。




