第一話
――ひとりより、ふたりで食べた方が美味しいでしょう?
なんて不躾な奴だろう、と思った。明らかに“良いところの娘”と一目で分かる、上質な身なりをしているくせに。時折教会や街中で見かけるそういった部類の子どもらのような、清楚だの慈愛だのといったもののまるでない、呆れるほどの遠慮のなさ。身勝手で、それを悪びれもしない。こんな意味の分からない奴に絡まれるのは面倒だったし、食べたくもないオレンジを押し付けてくる様には怒りを通り越して辟易としたものだ。
――だからこれは、あなたの為というより、私の為に食べて。
それでもあの時、彼女の差し出したオレンジを受け取ったのは、真っ直ぐに向けられる紫色の瞳が無垢そのもののように美しかったからだ、と、ふいに思い出した懐かしい記憶に内心苦笑をこぼしながら、繊細な飾りの施されたガラスの花瓶に花を活ける。乾風の吹くような季節には決して咲くことのない、艷やかな花弁を淑やかに開かせた薔薇の花。花弁がピンクと白の複色をした薔薇には、“励まし”という花言葉があるのだと教えてくれたのは、リシェルだった。そもそも花なんてまるで興味のない俺が、わざわざ魔法で複色の薔薇を咲かせたのは、贈る相手の為ではなく、リシェルの頼みだったからに他ならない。
「とても素敵な薔薇ね」
花瓶に落としていた視線をあげ、ゆっくりと振り向くと、厚手のショールを羽織りながら微笑むオリヴィアと目が合った。いつでも外――彼女が気に入っている庭園――を眺められるようにと、わざわざ窓辺に運び移されたベッドの上に、たっぷりとした大きな枕に凭れ掛かるようにして座る、小さくか細い姿。ゆるく結わえられた淡い金色の髪の毛も、すっきりと整ったかんばせも、陶器のように滑らかな白い肌も、長く濃い睫毛に囲まれた二重の目も、何もかもがリシェルと同じであるけれど、しかし、何もかもがまるで違うように見える。白い肌は、言い換えれば不健康な青白さをしているからか、それとも、薬の副作用のせいで必要以上に痩せてしまっているから。
「リシェルからのプレゼントだ」
「……そうでしょうね」
ふふっ、とやわらかく微笑みながら、オリヴィアは小さく首を傾げた。どこかいたずらめいていながらも、その薄桃色の瞳の奥には、探るような、どこか含みを持った光が揺れている。
「だって、貴方が私に何かをしてくれる時って、殆どリシェルが関わっているもの」
図星だったので敢えて何も言い返さず、ベッド脇に置かれたままのスツール――恐らくいつもアルベルトが座っているのだろう――に腰掛けて、窓の外へと視線を向ける。わざわざ言葉にして答えずとも、その沈黙だけで彼女が意を察するのは分かっていた。図らずも、それだけの長い時間を共にしてきたのだから。親友の“双子の姉”として。その上彼女は、妹であるリシェルよりも達観したところがあり、人の機微にも随分と敏感だ。
窓の外には小さな綿雪が散っていた。ふわふわと踊るように、音もなく。
カーテンは開かれているものの、窓はきっちりと閉め切られ、冷たい風が入り込むような僅かな隙間すらない。部屋の中はまるで長閑な春の日のようにあたたかく、室温はきっちりと一定に保たれている。部屋の端にきられた大理石製の暖炉には火が絶えず灯されているが、しかしそれでは到底役不足なのは明白だった。それでも心地よい室温を維持出来ているのは、部屋の四隅に置かれた、一見ランプのようにも見える小ぶりな魔道具のおかげだ。病に蝕まれゆく身体に、真冬の寒さはさすがに堪える。少しでも心地よく過ごせるにはどうしたら良いだろう、と悩んでいたリシェルに、それなら魔道具でどうにか出来るかもしれない、と請け合ったのは、ほんのひと月前のことだった。
結局それも、オリヴィアの為というより、リシェルの為にしたことなのだけれど。しかしそれを、悪いことだとか酷いことだとは、思わない。どのみちオリヴィアは、普通以上の穏やかな、至れり尽くせりの環境で療養が出来ているのだ。目的が彼女自身の為でなくとも、結果として彼女の役に立っていることには変わりはない。
「貴方って、本当にリシェルのことが大切なのね」
明るい口調でしみじみとそう言いながら、オリヴィアはまたやわらかく笑う。リシェルと似ているようで、その実似ていない、慎ましやかな笑み。リシェルはどちらかといえば、もっと弾けたような笑顔を浮かべる。花がふわりと綻ぶような、或いは、燦々とした眩い太陽のような。無邪気、という言葉が似合うのかもしれない、と、膨らみの欠けたオリヴィアの顔へ目を移しながら思う。オリヴィアが清楚なら、リシェルは無邪気だ。
「まあ、いつまでも一方通行だけどな」
組んだ足に頬杖をつきながら、冗談めかせて苦笑をこぼす。
もし、アルベルトがオリヴィアでなくリシェルを選んでいたら――。そう考えたことは、今までに幾度もある。それこそ、自分自身ですら飽いてしまうほどに。そしてその度に、馬鹿馬鹿しい考えだ、と結論づけることもまた同じだった。アルベルトはオリヴィアを選んだ。瞳の色と泣きぼくろ以外、全く同じ容姿をした双子の姉妹の、まるで白百合のようだと褒めそやされる清楚な姉の方を。それが現実だ。だからこそ、今のこの関係が保たれ続けている。アルベルトとオリヴィアとリシェルと俺という、ある意味で歪でもある関係が。
「あら、そうかしら」
ショールの合わせ目に手を添え、オリヴィアはうふふ、と少女じみた笑い声をこぼす。以前ほどの滑らかさも健やかさもないけれど。それでも気丈に振る舞おうとする様は、リシェルやアルベルトほど繋がりの深くない俺でさえ、思わず目を背けたくなるほど痛ましい。無論、そんなことはおくびにも出すつもりはないけれど。




