第一話
――姉が、死んだ。この世に生まれ落ちた時からずっと一緒だった、大事な大事な、片割れとも言うべき存在の、双子の姉が。
輝くように美しく、深い慈愛に満ち溢れた彼女は、誰からも可愛がられ、そして誰からも愛されていた。
彼女はとても優しかった。怒ったところなんて一度も見たことがない。どんな時でも穏やかで、どんな時でも純真無垢だった彼女を、まるで白百合のようだ、と喩え始めたのは誰だったろう。
けれど私は、姉には白百合ではなく太陽の方がぴったりだ、と思っていた。彼女はとても神々しい、眩しい存在だったから。それは、ある種の憧憬だった。清々しいくらい真っ直ぐな、いっそ崇拝ともとれるような、憧れ。
そんな姉が、死んだ。
心臓の病だった。治療法のない、不治の病。余命半年という医師の見立て通り、姉は病に倒れてから半年と一日で亡くなった。庭に植わる白百合が盛りを迎えた、あたたかな春の日に。穏やかな風と、甘やかな香り、そして突き抜けるほど澄んだ青い空に見送られながら。
彼女の死は、たくさんの人の人生を、音もなく狂わせた。姉を深く愛していた夫の人生を、彼女をとても可愛がっていた両親の人生を、そして、私自身の人生をも。
姉の死とともに、私は“私”でなくなった。私は“私”の人生を捨てたのだ。“リシェル・モランディーヌ”という名前とともに、何もかもを。姉を心から愛していた、彼女の夫の為に。それは、決して実ることのない淡い恋心を抱き続けていた私が、初恋の人の為にしてあげられる、唯一の献身だった。
でも――。夜の帳に包まれ、静かな眠りに就く庭を眺めながら、小さく自嘲をこぼす。人の気配はもちろん、動物の影すらひとつもない、張り詰めたような静寂の広がる薄闇。色とりどりのルピナスから甘くやさしい香りがふわりと立ち上り、しっとりとした夜風とともに、蒼白く色付いた庭をすうっと吹き抜けてゆく。水面に小さな光の粒を浮かべた小ぶりな噴水、蔓薔薇の茂った美しいガゼボ、濃い陰影の落ちた大理石のオブジェ。
ここから眺める景色を、姉はとても気に入っていたという。愛らしい小さな花をたくさんつけた灌木や、藤の垂れ下がるアーチや、或いは円形に整えて配された四季折々の花々の彩るその景色を。彼女の為に、夫であるアルベルトが一流の庭師に依頼して特別に造らせた、愛と喜びと思い出の詰まった美しい庭。
その庭を、でも私は愛すことが出来なかった。姉と夫が、真心をこめて大切にしてきたものだと分かっていても。
「……本当に、綺麗ね」
ぽつりと呟いたその言葉は、あたたかな夜気の中へ静かに溶けて消えてゆく。誰の耳に届くこともなく、ひっそりと。それはまるで、これから私の身に訪れる事そのもののようだ、と思った。妙に心地の良い、すっきりとした感覚が、胸の中をすうっと吹き抜けてゆく。
姉が亡くなって、夫――この時はまだ姉の夫だった――であるアルベルトは、それまでの温厚な人ぶりがまるで嘘のように、全くの別人になった。凶暴になったわけでも、冷酷になったわけでもない。狂ってしまったのだ。骨の髄まで。病的なまでの狂人になってしまった。或いは、亡霊になった、と言った方が正しいのかもしれない。心は疾うに、彼の逞しい身体の中にはなかった。ふよふよと、そこら中を彷徨い続けている。最愛の人を探して。朝も昼も夜も関係なく、ずっと。
侯爵であるアルベルト・クローヴィアとは、私たちが六つになってまだ間もない頃に知り合った。彼の父と私の父がとても親しく、爵位の垣根を超えて“親友”と言い合うまでの仲だった彼らによって引き合わされた私たちは、それ以来、よき理解者、よき友人として長く付き合ってきた。
一つ年上であるアルベルトは、当時からとても紳士的な振る舞いをする、どこか大人びたところのある少年だったのを、今でもよく憶えている。やさしくて、溌剌としていて。笑うと唇の端に愛らしい笑窪の出来るところが、私はとても好もしいと思っていた。同い年の子どもたちよりも幾分成熟しているけれど、それでも彼の子どもらしさを感じさせるチャームポイントとして。
そんなアルベルトが、私の姉であるオリヴィア・モランディーヌに好意を寄せているのだと知ったのは、いつ頃のことだっただろう。はっきりとしたきっかけは思い出せない。それくらい、ほんの些細な“違和感”の積み重ねだったのだろうと思う。
彼の恋心が明確になったのは、十五歳の誕生日を目前に、三人でこっそりと出かけたピクニックの時だったと思う。湖の畔に咲く花々を愛おしそうに眺める姉を、同じくらい、もしかしたらそれ以上に愛に溢れた眼差しで見つめる横顔に気付き、私は全てを悟らざるを得なかった。彼は姉のことが大好きなのだ、と。彼女以外はまるで眼中にないのだ、と。
そう理解した瞬間、私は自分の失恋にも気付くことになってしまった。密かに抱き続けていた、アルベルトへ対する淡い想い。それは初恋だった。六つの頃からずっとずっと隠し続けてきた、時にあたたかく、時に切なく胸を締め付ける恋心。何もかもを互いに共有し合ってきた姉にさえ、一度として打ち明けたことのないそれは、日の目を見ることもないまま、儚く砕け散ってしまった。
アルベルトと姉の婚約が決まったのはそれから一年後のことで、アルベルトの二十二の誕生日に、二人は晴れて結婚した。その時の、心の底から幸せそうに笑い合う二人の顔を、今でも鮮明に思い出すことが出来る。今この瞬間、この世の全ての幸福がここにある、と思ったものだ。事実、あの時そこには、本当にこの世の全ての幸福があったに違いない。姉もまた、アルベルトのことを愛していた。二人はもうずっと、両想いだったのだ。物事は、全て順調に進んでいた。明るい未来に向かって。これ以上ない万福のその先へと。――未だ過去に縋る私を、ただ独り残して。
そうして結ばれた二人の幸せな結婚生活は、でも五年ももたなかった。姉の病が発覚し、半年という余命宣告を受けたせいで。
それからのアルベルトは、侯爵家当主としての務めを果たしつつ、それ以上に、姉の治療に躍起になっていた。王国中から腕の立つ医者をかき集め、他国に優秀な魔女がいると知れば使者を遣わし、そして毎日のように聖堂へ通っては、敬虔な信徒として深く祈りを捧げる。あの頃の彼は、いつ会ってもひどく疲れているように見えた。爽やかな笑みも、穏やかな口調も、洗練された物腰も、何もかもいつもの彼そのものだったのに。それでも、薄っすらと滲む疲労は、誰の目から見ても明らかだっただろう。禄に眠れていないことは、知っていた。寝ている間にもしものことがあるのを恐れ、彼は夜通し、姉の傍を離れようとしなかったせいで。
しかし、アルベルトの努力も祈りも虚しく、姉は亡くなってしまった。最愛の男性を、現という残酷な世界に独り置き去りにして。
アルベルトの憔悴と落ち込みは、それはそれは酷いものだった。食事も摂れないほど臥せっているかと思えば、まるで何か拒み抗うかのように物に当たり散らし、そして最後は決まって静かに涙を流す。彼は正に狂っていた。何もかもがぐちゃぐちゃになるほど。この世で最も愛した女性の喪失は、彼を“彼”でない何かにさせた。
だから――。眠りながらもふわりと揺れる、夜の影を纏った白百合を見つめながら思う。だから彼は、容易に私を受け入れた。最愛の人と瓜二つの顔をした私を。瞳の色を変え、泣きぼくろを消し、嘗て姉の愛用していたドレスを身に纏う、“リシェル”ではなく“オリヴィア”として生きることを課せられた私を。
まともな人間であれば、死んだ人間が生き返るはずなどないことくらい分かるはずだ。けれどアルベルトは、少しも疑いはしなかった。周りの人間が唖然としてしまうほど。彼はすんなりと受け入れてしまった。それどころか、“姉”に扮した私を一目見るなり、彼は端正な顔を嬉しそうに綻ばせ、
――どこへ遊びに行っていたんだい? 心配したんだよ。
と言って、見守っていた人々の心を凍りつかせた。何もかもがぐちゃぐちゃに狂ってしまった彼の中では、姉は死んだのではなく、ふらりとどこかへ遊びに出かけたことにすり替わっていたのだ。いつの間にか。いや、それは正にあの瞬間にそうなったのだろう、と、今ならば分かる。そうすることで、“死人が生き返った”という普通ではあり得ない事実を、何の違和感もない、ごくありふれた日常のひとつとして、呑み込めるようにしたのだ。恐らくは本能的に。
アルベルトの為に、ひいては侯爵家の為に、姉の身代わりとなってほしい――。そう頼まれた時の、地獄に突き落とされたような絶望と、安堵にも似た諦念。可愛がっていた娘の死と、まるで我が子のように大事にしていた娘婿の豹変に打ち拉がれ、憐れになるほど弱りきってしまった両親を前に、私はただ頷くことしか出来なかった。断る道などそもそも初めから存在しないのだ、と、よくよく分かっていたから。
身代わりなんて馬鹿げている、と怒る人もいたけれど。考え直せ、と何度言われただろう。死んだ人間はもうどこにもいないんだ、と何度言われただろう。その憤りはもっともだと頭の片隅で思いつつ、でも私の心はもう既に決まっていた。どんなに批判をされようとも。他に何を言われようとも。私の決意は、少しも揺るがないほど固まっていた。
好きだったのだ。ずっと、ずっと。姉のことしか見ていないことも、姉のことしか愛していないのも理解していながら、それでもアルベルトのことが好きだった。愛していた。儚く散ってしまった初恋の欠片をひとつひとつ拾い集め、それをもう何年も、胸の奥底に大事に大事にしまっていた。二人の婚約が決まった時も、盛大に執り行われた結婚式の時も、そして、常に周囲へ幸福を溢れさせていた二人の、その愛し合う様を誰よりも一番近くで見ていた最中も。
だから私は、“姉”になることを受け入れた。壊れてしまった、初恋の人の為に。私は自らの意思で、“オリヴィア・モランディーヌ”になることを選んだ。そしてその瞬間、この世から消えたのは姉ではなく、妹の“リシェル・モランディーヌ”になったのだった。あくまでも、私たちの歪んだ関係の中では。