第7章:寝坊した朝
# 第7章:寝坊した朝
佐藤健太郎は目覚まし時計の甲高い音で飛び起きた。瞬間的な混乱と焦りが彼を襲う。
「どうしてこうなった?」
彼はデジタル時計の赤い数字を凝視しながら絶望的な声で呟いた。午前8時30分。出発予定の2時間後だ。彼は枕に顔を埋めて唸り声を上げた。思い返せば、彼はアラームを3つセットしたはずだった。しかし、目の前の時計以外は鳴っていない。そう、停電があったのだ。夜中の短い停電で電子機器のアラームがリセットされてしまった。唯一、電池式の小さな目覚まし時計だけが彼を救ったが、それもあまりにも遅すぎた。
健太郎は一瞬でベッドから飛び起き、バスルームに駆け込んだ。シャワーを浴びる時間はない。彼は顔を洗い、歯を磨きながら、もう一方の手でスマートフォンを操作した。空港までのタクシーを予約しようとしたが、配車アプリは「現在、大変混雑しております」というメッセージを表示するだけだった。
「くそっ…」
彼は慌ててスーツを着始めた。シャツのボタンを留める指が震えている。彼は深呼吸をしようとしたが、パニックで呼吸が浅くなっていた。
「冷静に、冷静に…」健太郎は自分に言い聞かせた。「まだ間に合う。絶対に間に合わせる」
彼はネクタイを結びながらリビングに向かった。山田から預かったUSBメモリはどこだ?机の上、ソファの横のテーブル、キッチンカウンター…どこにも見当たらない。
「昨夜ここに置いたはずなのに…」
健太郎は部屋中を探し回った。時計は容赦なく進み、既に8時45分を指している。最後の望みを託して、彼はスーツのポケットを確認した。そこに、小さなUSBメモリがあった。昨夜、念のためポケットに入れておいたのだ。
「よし!」
彼は安堵のため息をついた。次は、スーツケース。幸い、昨夜ほとんど準備を済ませていた。彼はスーツケースを手に取り、最後に財布とスマートフォンを確認した。
「タクシー…」
彼は再びスマートフォンを取り出し、今度は直接タクシー会社に電話をした。
「申し訳ありませんが、現在大変混み合っております。配車まで30分以上かかる見込みです」
健太郎は焦りを感じながら、他の選択肢を考えた。電車だ。彼の家から最寄り駅までは徒歩7分。そこから羽田空港まで1時間くらい。9時に家を出れば、10時には空港に着ける。まだ間に合う。
彼は急いで家を出た。重いスーツケースを引きずりながら、小走りで駅に向かう。汗が背中を伝い落ちる。普段なら7分の距離を5分で駅に到着した。
改札を通り、羽田空港行きの電車の時刻表を確認する。次の電車は9時10分発。そこからの所要時間は55分。間に合う、ぎりぎり間に合う。
彼はホームに降り、電車を待った。時計は9時5分。彼はスマートフォンを取り出し、中村部長に連絡すべきか考えた。しかし、既に空港に到着しているという前提で話していた。今から「実は寝坊しました」とは言えない。何とか自分で解決しなければならない。
電車がホームに滑り込んでくる。健太郎は乗り込み、座席に深く腰掛けた。ようやく少し落ち着くことができた。彼は窓の外を見つめながら、この状況を何とか取り繕う方法を考えた。
電車が2つ目の駅を出たとき、車内アナウンスが流れた。
「お客様にご案内いたします。線路内の安全確認のため、この電車は次の駅で一時停車いたします。再び発車するまでしばらくお待ちください」
健太郎の心臓が早鐘のように鳴り始めた。一時停車?どれくらいの時間だ?彼は不安そうに周囲を見回した。他の乗客たちも困惑した表情を浮かべている。
電車は予告通り次の駅で停車した。5分経っても、10分経っても発車しない。車内アナウンスが再び流れた。
「お客様にご案内いたします。線路内で不審物が発見されたため、安全確認が完了するまでしばらく停車いたします。ご迷惑をおかけして申し訳ございません」
健太郎は頭を抱えた。時計は9時25分。このままでは確実に飛行機に乗り遅れる。彼は立ち上がり、車掌に声をかけた。
「すみません、どれくらい停車する予定ですか?」
「申し訳ありません。現時点では未定です」車掌は申し訳なさそうに答えた。
健太郎は決断した。彼はスーツケースを持って電車を降り、駅の外に出た。タクシー乗り場に向かったが、既に長蛇の列ができていた。明らかにみんな同じ考えだ。
「どうしよう…」
時間は刻々と過ぎていく。彼は周囲を見回し、別の選択肢を探した。そのとき、駅前のレンタサイクル店が目に入った。
「それだ!」
健太郎は走ってレンタサイクル店に向かった。
「自転車を借りたいのですが」
「はい、どのタイプをご希望ですか?」
「一番速いもの」
彼は素早く手続きを済ませ、自転車にスーツケースを固定した。スマートフォンのマップアプリを確認し、最短ルートを検索する。彼の現在地から羽田空港まで約15キロ。普通なら自転車で1時間以上かかる距離だ。
「無理かもしれない…」
しかし、諦めるわけにはいかなかった。健太郎は全力でペダルを踏み始めた。スーツ姿で自転車を漕ぐのは不格好だったが、そんなことを気にしている余裕はなかった。
彼は住宅街の狭い路地を抜け、大通りに出た。交通量が多く、自転車で進むのは危険だったが、彼には選択肢がなかった。信号で止まるたびに、彼はスマートフォンで時間を確認した。9時45分。
「まだ間に合う、間に合わせる」
彼は自分に言い聞かせながら、さらに全力でペダルを踏んだ。汗が目に入り、視界が曇る。背中はシャツが汗でびっしょりと濡れ、スーツはしわだらけになっていた。
時計は10時を回った。搭乗締め切り時間は10時15分。彼はまだ空港から数キロの場所にいた。
「もう無理だ…」
健太郎は徐々に諦めの気持ちが湧いてくるのを感じた。しかし、その時、前方に「空港直行バス」の停留所が見えた。そこにはちょうどバスが停まっていた。
「待ってください!」
彼は残された力を振り絞って自転車を漕ぎ、バス停に滑り込んだ。
「このバスは羽田空港に行きますか?」彼は息を切らしながら運転手に尋ねた。
「はい、そうです」
「すみません、乗せてください」
運転手は汗だくのスーツ姿の健太郎を不思議そうに見たが、乗車を許可した。彼は自転車を停留所に置き、スーツケースだけを持ってバスに飛び乗った。
バスは幸いにも専用レーンを使って順調に進んだ。健太郎は時計を見た。10時10分。搭乗締め切りまであと5分。バスは空港のターミナルに近づいていた。
「間に合うかも…」
彼は小さな希望を感じた。バスが空港に到着すると、彼は他の乗客を押しのけるようにして飛び降り、ターミナルに駆け込んだ。チェックインカウンターに向かって全力で走る。
「JA302便、大阪行きです!」彼は息も絶え絶えに言った。
カウンターの職員は困惑した表情で言った。「お客様、JA302便は既に搭乗手続きを締め切りました」
「お願いします、なんとか…」
「申し訳ありません。次の便は午後1時45分発です」
健太郎は肩を落とした。すべては終わった。彼は周囲のベンチに腰を下ろし、頭を抱えた。
彼は震える手でスマートフォンを取り出し、中村部長に電話をかけなければならないと思った。しかし、その前に、彼はマップアプリを開いた。羽田から大阪までの別のルートを探すためだ。新幹線なら?リスト全便ビジネスクラスなら空席があるかもしれない。
そのとき、空港のアナウンスが流れた。
「お客様にご案内いたします。JA302便大阪行きは、機材到着の遅れにより、出発時刻を30分延期いたします。搭乗手続きは引き続き行っております」
健太郎は飛び上がった。まだチャンスがある!彼は再びチェックインカウンターに駆け寄った。
「すみません、JA302便に乗りたいのですが」
「お客様、先ほどの…」職員は彼を認識して言った。「はい、出発が遅れているため、まだ搭乗手続きが可能です」
健太郎は安堵のため息をついた。「ありがとうございます」
手続きを済ませ、セキュリティゲートを通り、搭乗ゲートに向かった。時計は10時25分。本来の出発時刻だが、アナウンスによれば30分遅れるという。彼はようやく安心して椅子に座った。
彼のスマートフォンが鳴った。中村部長からだ。
「もしもし、佐藤です」
「佐藤、どうした?もう搭乗したのか?」
「はい、今から搭乗します」彼は嘘をついた。「機材トラブルで少し遅れているそうです」
「そうか。とにかく無事に着いてくれ」
「はい、ありがとうございます」
電話を切った後、健太郎は深く息を吐き出した。なんとか窮地を脱したが、今日はトラブル続きだ。これ以上何か起こらなければいいが…。
しかし、彼の願いは叶わなかった。10時45分、搭乗が始まった。彼は列に並び、搭乗券を手に取った。そのとき、アナウンスが流れた。
「お客様にご案内いたします。JA302便へご搭乗予定のお客様は、ゲートが18Bから21Aに変更になりました。お手数ですが、21Aゲートにお越しください」
健太郎は焦って時計を見た。21Aはこのターミナルの反対側だ。彼は重いスーツケースを引きずりながら走り始めた。
ゲート21Aに着いたとき、既に最後の数人が搭乗していた。健太郎は安堵感と疲労感で足がガクガクしながら、列の最後に並んだ。
「どうしてこうなった?」
彼は息を整えながら呟いた。ようやく飛行機に乗れる。これで大阪に着き、予定通りの会議に出席できる。全てが上手くいく…はずだった。
搭乗ゲートでパスを通すと、彼は通路を通って飛行機に向かった。しかし、ドアを潜ったとき、彼は違和感を覚えた。機内の雰囲気が、いつもの大阪便と少し違う。客室乗務員が彼を見て笑顔で挨拶した。
「いらっしゃいませ。15Cのお席ですね」
健太郎は言われた通りに席に向かった。隣には70代くらいの老紳士が座っていた。老紳士は機内誌を見ながら、彼に話しかけた。
「鳥取は初めてですか?」
「鳥取?」健太郎は驚いて声を上げた。「この便は大阪行きではないのですか?」
「いいえ、鳥取行きですよ」老紳士は穏やかに答えた。
健太郎は震える手で搭乗券を確認した。そこには確かに「JA203便 鳥取行き」と書かれていた。彼は目を疑った。どうして?彼は確かにJA302便のチケットを持っていたはずだ。
そのとき、彼は朝のパニックを思い出した。急いでいて、チェックインカウンターでの会話をよく聞いていなかったのだ。搭乗ゲートの変更も、実は便の変更だったのかもしれない。
「どうしてこうなった?」
健太郎は絶望的な表情で窓の外を見つめた。飛行機はゆっくりと動き始め、離陸への準備を整えていた。もはや降りることもできない。彼の思考は、さらに過去へと遡っていった…。