第4章:荷物のない商談
# 第4章:荷物のない商談
佐藤健太郎は鳥取空港の到着ロビーで呆然と立ちすくんでいた。手元にあるのは自分のものとは違う黒いスーツケースだけだった。
「どうしてこうなった?」
彼は空港職員から渡された紙を握りしめながら呟いた。そこには「遺失物預かり証」と記され、取り違えられたスーツケースの情報が記載されていた。閑散とした到着ロビーで、彼はタクシー乗り場への通路に視線を移した。急がなければならない。明日の商談まであと18時間。スーツケースを取り戻し、資料を確認し、完璧なプレゼンテーションの準備をしなければならない。
健太郎の顔は疲労で青ざめていた。この出張は彼のキャリアを左右する重要なもの。鳥取砂丘リゾート開発計画のプレゼンテーションを任されたのは、部長からの信頼の表れだと思っていた。しかしその信頼も、このスーツケースの取り違えで台無しになるかもしれない。
最悪なことに、彼のスーツケースには商談用のスーツと最終版のプレゼン資料が入っていた。スマートフォンにもバックアップはあるが、紙の資料や図表、配布用の企画書は全てスーツケースの中だ。
「タクシー!」彼は空港を出るとすぐに手を挙げた。
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すべては16時間前から始まった。
健太郎は羽田空港の出発ロビーで搭乗案内を待っていた。昨日の夜遅くまで資料を準備し、寝不足気味だ。会社の同僚が突然体調を崩し、代わりに鳥取への出張を任されたのは3日前のこと。急な準備で眠る時間もほとんどなかった。
「JA302便、大阪行きの搭乗を開始いたします」
アナウンスに顔を上げた健太郎だったが、直後に自分のスマートフォンが鳴った。画面には「中村部長」の名前。
「もしもし、佐藤です」
「佐藤か。今どこだ?」部長の声は緊迫感に満ちていた。
「はい、羽田空港です。これから大阪に飛び、そこから鳥取へ向かいます」
「おい、ちょっと待て。なぜ大阪経由だ?」
「はい、鳥取への直行便が埋まっていたもので…山田さんの代役で急遽決まったので」
「それは聞いている。だが時間がかかりすぎだ。今から直行便に変更できないのか?」
「直行便は満席でして…」
「いいか、佐藤。この鳥取案件は会社の将来を左右する大きな案件だ。明日の商談を成功させなければ、我々の部署の存続にも関わる。私から航空会社に掛け合っておいた。11時30分発の鳥取直行便に空席が出たから、すぐにカウンターで変更しろ」
「え?はい、わかりました」
健太郎は慌てて搭乗口から航空会社カウンターに向かった。中村部長の言う通り、彼の名前で鳥取直行便の予約が入っていた。
「申し訳ありませんが、お客様のお荷物は既に大阪行きの便に積み込まれてしまいました」カウンター係員が言った。
「えっ、そうなんですか?」健太郎は焦った。
「ご安心ください。お荷物は大阪空港でお預かりし、次の鳥取便でお送りします。遅くとも今晩にはホテルにお届けできるかと」
「でも、明日の朝に資料が必要で…」
「申し訳ありません。システム上、今からお荷物を取り出すことはできません」
健太郎は困惑したが、部長の指示に従うしかなかった。結局、彼は身一つで鳥取直行便に乗ることになった。
11時30分、予定通り飛行機は離陸した。健太郎は窓から見える雲を眺めながら、荷物の心配をしていた。スーツケースが無事にホテルに届くといいのだが…。
しかし、彼の不安は現実となった。鳥取空港に到着し、荷物受取所に向かうと、流れてくるのは他の乗客のスーツケースばかり。健太郎のスーツケースは見当たらない。
「すみません」彼は空港職員に声をかけた。「私の荷物が見当たらないのですが」
「お客様のお名前は?」
「佐藤健太郎です」
職員はコンピュータをチェックした。「佐藤様、申し訳ありません。システムに記録がなく…あ、これは」
「どうしました?」
「佐藤様は当初、大阪行きのご予約だったのですね?」
「はい、そうです。直前に変更になりました」
「恐らく、そこでシステムの混乱が生じたようです。大阪には到着したようなのですが、鳥取への転送手続きが正しく行われていないようです」
健太郎の顔色が変わった。「それはいつ届くんですか?」
「確認いたします…」職員は別の端末を操作した。「申し訳ありません。明日の午後便での到着予定となっています」
「明日の午後?それじゃ間に合わない!明日の朝、商談があるんです」
「大変申し訳ありません。当空港からできることとしては、お問い合わせフォームを…」
その時、別の職員が近づいてきた。
「すみません、田中様のスーツケースに関連してですが」
「田中?私は佐藤ですが」
「はい、お荷物の取り違えの可能性があります。田中誠一様というお客様が、ご自分のではないスーツケースを受け取られました。確認したところ、それが佐藤様のものである可能性が高いです」
「それは!どこにあるんですか?」
「田中様はホテル・サンドダンスにチェックインされています」
「サンドダンス?それは私も予約しているホテルです」
「それは良かったです。田中様からの連絡では、フロントでお預かりしているそうです」
健太郎にとって、これは朗報だった。少なくとも、彼のスーツケースの行方はわかった。
「ありがとうございます。すぐに向かいます」
彼はタクシーでホテルに急いだ。ホテルに到着すると、フロントで事情を説明した。
「佐藤様ですね。はい、田中様からスーツケースをお預かりしています。こちらでしょうか?」
彼の前に置かれたのは、確かに彼のスーツケースだった。健太郎は安堵のため息をついた。
「はい、これです。本当にありがとうございます」
「田中様のスーツケースはどうされますか?」
「あ、すみません。こちらです」彼は空港から持ってきた黒いスーツケースを渡した。
無事にスーツケースを取り戻した健太郎は、急いで部屋に向かった。彼は鍵を開け、部屋に入るとすぐにスーツケースを開けた。
「えっ?」
中に入っていたのは、彼の資料ではなかった。見知らぬ書類や衣類、化粧品類。明らかに女性のものだ。彼は混乱した。これも彼のスーツケースではない。しかし、外見は彼のものによく似ていた。
健太郎は急いでフロントに戻った。
「すみません、このスーツケースも違います。私のものではありません」
フロントスタッフは困惑した表情を浮かべた。「申し訳ありません。田中様からお預かりしたものなのですが…」
「田中さんと連絡は取れますか?」
「田中様はチェックイン後、外出されています。お帰りになるのは夕方とのことです」
健太郎は時計を見た。午後3時。夕方まで待っていられない。
「わかりました。田中さんがお戻りになったら、私の部屋にご連絡ください。部屋番号は503です」
彼は再び部屋に戻り、頭を抱えた。明日の朝10時には鳥取県観光局との商談がある。そのための資料が手元にない。しかも、きちんとしたスーツもない。
健太郎はスマホを取り出し、資料のバックアップを確認した。幸い、最低限のプレゼン資料はクラウドに保存されている。しかし、印刷された詳細資料や参考図表は全てスーツケースの中だった。
「どうすればいいんだ…」
彼は呆然と窓の外を見た。鳥取の街並みが広がっている。こんなに遠くまで来て、こんな形で失敗するわけにはいかない。
そのとき、彼のスマホが鳴った。中村部長からだ。
「もしもし、佐藤です」
「佐藤か。無事に着いたか?」中村部長の声は厳しい調子だった。
「はい、ホテルに到着しました」
「準備は順調か?」
健太郎は一瞬、迷った。事実を話すべきか、それとも…
「はい、順調です」彼は嘘をついた。今、荷物のトラブルを告げれば、部長は激怒するだろう。なんとか自分で解決しなければならない。
「明日は絶対に失敗するな。この案件が成功すれば、お前のキャリアにも大きなプラスになる」
「わかっています。最善を尽くします」
通話が終わると、健太郎は深いため息をついた。
時計は午後4時を回っていた。彼は決断した。まず、近くのコンビニでUSBメモリを購入し、資料をコピーする。それから近くのプリンターショップを探して資料を印刷しよう。スーツについては…何とかしなければならない。
彼がホテルを出ようとしたとき、フロントから電話があった。
「佐藤様、田中様がお戻りになられました。今、フロントにいらっしゃいます」
「すぐに行きます!」
健太郎は急いでエレベーターに乗り、ロビーに向かった。そこには40代前半と思われる女性が立っていた。
「田中さんですか?」
「はい、あなたが佐藤さん?私のスーツケースを…」
「すみません、私もスーツケースが見つからなくて…」
二人は状況を説明し合った。田中誠子さんは東京から鳥取に出張中の編集者で、明日、地元の作家との打ち合わせがあるという。彼女も同じようにスーツケースの取り違えに困っていた。
「私のスーツケースは?」健太郎は尋ねた。
「残念ながら、私も違うスーツケースを受け取ってしまったみたいで…」
結局、二人は空港の遺失物取扱所に電話をかけることになった。長い説明と確認の後、ようやく状況が明らかになった。
健太郎のスーツケースは、田中さんのスーツケースと外見がよく似ていたため、別の乗客(鈴木という名前の方)が間違えて持ち去ってしまったのだ。そして、鈴木さんのスーツケースを田中さんが受け取り、さらに田中さんのスーツケースを別の乗客が…という連鎖的な取り違えが起きていた。
「鈴木さんは連絡がつきましたか?」健太郎は尋ねた。
「はい、鈴木様はホテル・サンライズにご宿泊で、既にチェックインされています。スーツケースの確認をされて、取り違えに気づかれたそうです」
「それでは私のスーツケースは?」
「鈴木様がお持ちになっています。ホテル・サンライズに取りに行っていただければ」
健太郎は時計を見た。午後5時。まだ間に合う。
「タクシーを呼んでもらえますか?」
彼はホテル・サンライズに向かった。そこで鈴木さんと会い、やっと自分のスーツケースを取り戻すことができた。
「本当にすみませんでした」鈴木さんは深々と頭を下げた。
「いいえ、こちらこそ。ありがとうございました」
ホテル・サンドダンスに戻ったのは午後7時過ぎ。健太郎は疲れ切っていたが、やっとスーツケースを取り戻せたことに安堵していた。部屋に戻るとすぐに、彼はスーツケースを開けて中身を確認した。
幸い、資料もスーツも無事だった。彼はベッドに座り込み、深いため息をついた。明日の商談のために、今晩は資料の最終確認をしなければならない。そして、万全の状態で臨まなければ。
彼はシャワーを浴び、資料の確認を始めた。時間は刻々と過ぎていく。深夜、彼はようやく資料のチェックを終え、明日着るスーツを準備した。すべては整った。
健太郎はベッドに横になり、アラームをセットした。これでようやく明日の商談に臨める。そう思った矢先、警報音が鳴り響いた。
「火災が発生しました。速やかに避難してください」
「どうしてこうなった?」
健太郎は天井を見上げながら呟いた。彼の思考は、さらに過去へと遡っていった…。