第3章:真夜中の火災警報
# 第3章:真夜中の火災警報
佐藤健太郎は真夜中のホテルの前で、パジャマ姿のまま途方に暮れていた。
「どうしてこうなった?」
健太郎は夜空を見上げながら呟いた。彼の周りでは、同じように避難してきた宿泊客たちが不安そうに佇んでいる。ホテルの入り口では消防士たちが忙しく動き回っていた。
彼は自分の服装を見下ろした。青と白のストライプのパジャマ。思えば、これは先月の誕生日に妻が買ってくれたものだ。「出張が多いから、少しはちゃんとしたパジャマを着なさい」と言われて。普段ならTシャツと短パンで寝る彼だが、今回の出張は特別に大事だったから、妻の言葉に従ったのだ。
皮肉なことに、そのパジャマ姿が今、ホテルの外で晒されることになるとは。パジャマの上には慌てて羽織ったビジネススーツのジャケット。足元はホテルのスリッパ。肌寒い夜風に、健太郎は体を小さく縮めた。
「このままじゃ明日の商談に…」彼はつぶやきながら、スマートフォンを取り出した。バッテリー残量は62%。充電器は当然、部屋の中だ。
この状況で、彼の頭の中は明日の商談のことでいっぱいだった。鳥取砂丘リゾート開発計画。もし成功すれば、彼のキャリアは大きく飛躍するはずだった。
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すべては12時間前から始まった。
健太郎は鳥取空港からタクシーでホテル・サンドダンスに到着したばかりだった。チェックインを済ませ、ようやく部屋に入ると、彼は安堵のため息をついた。
「やっと着いた…」
彼はベッドに腰掛け、スマートフォンを取り出した。既に午後3時を回っている。東京から鳥取までの道のりは、想像以上に長く感じられた。特に、搭乗予定だった便ではなく、急遽、鳥取行きの便に乗ることになったために計画が大幅に狂ってしまった。
「よし、まずは荷物を…」
彼は立ち上がり、部屋の隅に置いたスーツケースの前に立った。しかし、そこにあったのは彼のものではない。同じような黒いスーツケースだが、側面についているネームタグには「田中誠一」と書かれている。
「え?」
健太郎は混乱した。間違いなく彼のスーツケースではない。空港で取り違えたのかもしれない。彼は急いでフロントに電話をかけた。
「すみません、スーツケースが違うものになっています。空港で取り違えたようなんです」
「お客様のお名前は?」
「佐藤健太郎です。部屋番号は503」
「少々お待ちください…」
短い沈黙の後、フロントの声が戻ってきた。
「佐藤様、大変申し訳ございません。空港からお電話がありまして、別のお客様が同じようにスーツケースの取り違えを報告されています。恐らくそのお客様と取り違えたものと思われます」
「それで、どうすれば?」
「空港の遺失物取扱所に連絡を取っていただければ、対応していただけます。また、現在お持ちのスーツケースは、そのお客様のものですので、空港にご返却いただく必要があります」
健太郎は頭を抱えた。明日の朝10時から重要な商談がある。そこまでにスーツケースを取り戻す必要がある。彼のスーツケースには、プレゼン資料だけでなく、明日着用するスーツも入っていた。
「空港の遺失物取扱所は何時まで開いていますか?」
「午後8時までです」
健太郎は時計を見た。今から向かえば間に合う。
「わかりました。すぐに向かいます」
彼は急いで部屋を出て、タクシーを呼んでもらった。
鳥取空港に到着すると、健太郎は遺失物取扱所に直行した。
「スーツケースの取り違えについて連絡がありましたが」
担当者はパソコンを確認してから答えた。「はい、佐藤様ですね。田中様がお持ちになられたスーツケースをお預かりしています。こちらがそうです」
健太郎の前に置かれたのは、確かに彼のスーツケースだった。彼は安堵のため息をついた。
「ありがとうございます。これで助かりました」
「田中様のスーツケースはどうされますか?」
「あ、そうですね。今、車の中です。すぐに持ってきます」
彼は急いでタクシーに戻り、取り違えたスーツケースを持ってきた。交換は無事に完了した。
「本当にありがとうございました」健太郎は深々と頭を下げた。
「お気をつけてお帰りください」
タクシーでホテルに戻る途中、健太郎は自分のスーツケースを開けて、中身を確認した。プレゼン資料とスーツは無事だった。しかし、資料の一部がスーツケース内で崩れていることに気がついた。慌てて中身を整理し直す。
そして、彼のスマホが鳴った。会社の上司、中村部長からだ。
「もしもし、佐藤です」
「佐藤か。無事に着いたか?」中村部長の声は、いつもよりも厳しい調子だった。
「はい、ホテルに到着しました」
「明日の準備はできているな?」
「はい、問題ありません」
「鳥取砂丘リゾート開発は、うちの会社にとって大きなチャンスだ。失敗は許されないぞ」
「はい、わかっています」
「特に鳥取県観光局の山口さんは厳しい人だ。中途半端な資料だと叩きのめされるぞ」
「大丈夫です。しっかり準備します」
「頼むぞ」
通話が終わると、健太郎は深いため息をついた。プレッシャーがかかるのは当然だ。この案件が成功すれば、彼の評価は大きく上がる。失敗すれば…考えたくなかった。
ホテルに戻ると、彼は早速資料の最終確認を始めた。プレゼンテーションのスライド、財務計画、市場調査結果…すべてに目を通す。小さなミスも許されない。作業は深夜まで続いた。
時計を見ると、既に午前1時を回っていた。健太郎はようやく資料への確認を終え、シャワーを浴びることにした。温かいお湯が彼の疲れた体を包み込む。彼は明日のプレゼンについて考えながら、シャワーを浴びた。
シャワーから出ると、彼は新しいパジャマに着替えた。青と白のストライプのパジャマ。妻が買ってくれたものだ。普段ならここまでちゃんとしないが、明日は特別な日。きちんとした格好で眠りたかった。
彼はベッドに横たわり、アラームを午前7時にセットした。準備は万端だ。明日のプレゼンがうまくいくことを願いながら、彼は目を閉じた。
その1時間後、けたたましい警報音が彼の眠りを破った。
「火災が発生しました。速やかに避難してください」
健太郎は混乱した意識のまま、目を覚ました。最初は何が起きているのか理解できなかったが、館内放送の声を聞いて現実を認識した。火災だ。
「うそだろ…」
彼は飛び起きて、部屋の電気をつけた。煙や炎は見えない。しかし、警報音は止まない。彼は慌ててジャケットを羽織り、スマートフォンをポケットに入れた。財布はどこだっけ?パニック状態で見つけられない。とにかく避難しなければ。
廊下に出ると、既に多くの宿泊客が避難を始めていた。健太郎も流れに乗って非常階段へと向かった。階段を降りる間、彼は部屋に置いてきた資料とスーツのことが頭から離れなかった。
ロビーに集まった宿泊客たちの中で、健太郎はホテルスタッフの説明を聞いた。火災は3階の一室で発生したが、初期消火に成功したという。しかし、安全確認のため、少なくとも数時間は部屋に戻れないとのことだった。
「どうしてこうなった?」
健太郎は再び呟いた。明日の商談まであと数時間。資料もスーツも部屋の中。このままでは、全てが台無しになる。彼の頭の中は、次々と浮かぶ不安で埋め尽くされていた。
彼は振り返り、夜空を見上げた。星がいくつか見えた。普段なら美しいと思うだろう。しかし今は、その星々が彼の不運を見下ろしているようにしか思えなかった。彼の思考は、さらに過去へと遡っていった…。