第2章:奇妙な衣装のバス乗客
# 第2章:奇妙な衣装のバス乗客
佐藤健太郎はパジャマのズボンとビジネスジャケットという奇妙な出で立ちで観光バスに座っていた。
「どうしてこうなった?」
健太郎は窓に映る自分の姿を見つめながら呟いた。パジャマのボタンが一つ外れ、その隙間から白いアンダーシャツが覗いている。ジャケットの肩には粉のようなものが付着し、襟元には明らかなシワがあった。
周囲の乗客たちは皆、いかにも観光客らしい恰好で、カメラやガイドブックを手にしている。その中で彼だけが、明らかに場違いな出で立ちだった。前の座席に座った年配の女性たちが、時折振り返っては彼の姿を観察している。その視線に、彼は体を小さくしようとした。
健太郎のジャケットの内ポケットには会社の名刺と、かろうじて助かったスマートフォンが入っていた。パジャマの右ポケットには、ホテルのフロントで手に入れた観光パンフレットが入っている。それだけが今の彼の全財産だった。
サラリーマン生活10年の中で、ここまで窮地に追い込まれたことはなかった。
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すべては8時間前から始まった。
健太郎はホテル・サンドダンスの部屋で深い眠りについていた。翌日の重要な商談に備えて早めに就寝したはずだった。そのため、真夜中に鳴り響いた火災警報の音は、彼の意識を現実と夢の境界から無理やり引きずり出した。
「うるさい…」彼は初め、目覚まし時計だと思い、枕に顔を押し付けた。しかし、警報音はやむことなく、むしろ大きくなっているようだった。
「火災が発生しました。速やかに避難してください」
館内放送の声に、健太郎は飛び起きた。時計を見ると午前2時13分。窓の外はまだ暗い。夢ではない。本当に非常事態なのだ。
「くそっ…」
彼は素早くベッドから飛び出し、部屋の電気をつけた。昨日の夜、シャワーを浴びた後に着たパジャマのままだ。とにかく外に出なければ。健太郎は慌ててスーツが掛かっているハンガーラックに向かった。しかし、真っ先に手にしたのはジャケットだけだった。
館内放送がさらに緊迫感を増す。「煙が広がっています。姿勢を低くして速やかに避難してください」
「もういい、これでいこう」
健太郎はパジャマの上からジャケットを羽織り、スマートフォンをポケットに入れた。財布はどこだ?彼は部屋を見回したが、パニック状態のため見つけられない。とにかく命が大事だ。彼は部屋を飛び出した。
廊下では既に多くの宿泊客が避難を始めていた。中には健太郎のように寝間着姿の人もいれば、完全に着替えた人もいる。健太郎は流れに従って非常階段へと向かった。
「落ち着いて、順番に」
ホテルスタッフが冷静に避難誘導をしている。階段を降りる間、健太郎は自分の荷物のことを考えていた。スーツケースには明日の商談用の資料とスーツが入っている。それらがなければ、このミッションは完全に失敗だ。だが今は命が最優先。
ロビーに到着すると、そこは既に大勢の宿泊客で混雑していた。ホテルのフロントスタッフが拡声器を持って立っている。
「皆様、落ち着いてください。火災は3階の一室で発生しましたが、既に初期消火に成功しています。現在、消防隊による安全確認を行っておりますので、しばらくの間、館内には戻れません」
健太郎はため息をついた。命の危険はなさそうだが、部屋に戻れないということは、明日の商談の準備ができないということだ。彼は腕時計を見た。もう午前2時半を回っている。
「どのくらい戻れないんですか?」誰かが尋ねた。
「消防隊の安全確認が完了次第ですが、少なくとも2〜3時間はかかる見込みです」
フロントスタッフの返答に、宿泊客からはうめき声が上がった。健太郎も頭を抱えた。3時間後といえば朝の5時半頃。商談は午前10時からだが、そこから準備をしていては間に合わない。
「すみません」彼はフロントスタッフに声をかけた。「明日、いえ、今日の午前中に重要な商談があるんです。部屋に資料とスーツが…」
「申し訳ありませんが、消防隊の許可が出るまで、どなたも館内には入れません」スタッフは申し訳なさそうな表情を浮かべた。
健太郎は周囲を見回した。ロビーのソファや床に座り込む宿泊客たち。中には毛布を受け取っている人もいる。長期戦になりそうだった。
「お手洗いはご利用いただけます」スタッフが案内する。「また、自動販売機やロビーのコーヒーサービスもご自由にどうぞ」
健太郎は財布を持っていないことを思い出し、内心でうめいた。
時間はゆっくりと過ぎていった。健太郎はロビーの隅のソファに座り、状況を整理しようとした。厄介なことに、スーツケースには充電器も入っていた。今手元にあるスマートフォンのバッテリーは40%ほど。これをどう使うか考えなければならない。
彼は会社の上司にメールを送ることにした。
「火災報知器が鳴り、避難中です。荷物はすべて部屋に。状況が変わり次第、連絡します」
送信ボタンを押した後、彼はスマホをポケットにしまった。バッテリーを節約しなければ。
午前4時頃、新たなアナウンスがあった。
「消防隊による安全確認が予想以上に時間を要しております。申し訳ありませんが、館内に戻れるのは朝の7時以降になる見込みです」
健太郎は天井を見上げて深いため息をついた。もはや商談に間に合わせるのは不可能に近い。
「すみません」彼は再びフロントスタッフに声をかけた。「朝7時では商談に間に合いません。何か良い方法はありませんか?」
スタッフは同情的な表情で首を振った。「本当に申し訳ありません。ただ、こちらの判断ではどうすることもできません」
健太郎は途方に暮れた。そのとき、ロビーに設置された観光パンフレットラックに目が留まった。その中に「早朝の鳥取砂丘ツアー」というチラシがあった。
「このツアー、まだ参加できますか?」
「はい、まだ空きがあります。午前6時出発で、ホテルの前から観光バスが出ます」
「予約したいのですが…財布が部屋に…」
「大丈夫です。お名前と部屋番号をいただければ、後ほど清算できます」
健太郎は迷った。しかし、ここでじっと待っていても状況は変わらない。少なくとも動いた方が、何か打開策が見つかるかもしれない。
「お願いします。佐藤健太郎、部屋番号は503です」
予約を済ませた後、健太郎は改めて自分の状況を考えた。パジャマにジャケット姿。財布もなし。スマホのバッテリーも限られている。そして何より、重要な商談の資料とスーツがホテルの部屋に取り残されている。
どうすればいいのか。健太郎の頭は混乱していた。上司に連絡して状況を説明すべきか。しかし、こんな言い訳で許してもらえるだろうか。「すみません、火事で資料が…」そう言っても、「なぜバックアップを用意しなかった」と怒られるのが目に見えている。
健太郎は腕時計を見た。午前5時15分。もう一度、スマホを取り出し、タクシー会社の番号を調べようとした。しかし、その時、彼は充電が29%まで減っていることに気づいた。
「くそっ…」
選択肢は限られていた。砂丘ツアーに参加し、その後どうにかして状況を打開するか、ここで上司に全てを告白して指示を仰ぐか。
健太郎は前者を選んだ。動かなければ何も始まらない。
午前6時、予定通り観光バスがホテル前に到着した。寝不足と疲労で頭はぼんやりしていたが、健太郎は決意を固めて立ち上がった。
「佐藤さん、砂丘ツアーの方ですね」フロントスタッフが声をかけた。
「はい」
「こちらが参加券です。運転手さんにお渡しください」
健太郎は参加券を受け取り、バスに向かった。乗り込む際、運転手に奇妙な視線を向けられたが、彼はそれを無視した。
バスの中で座席に着くと、周囲の観光客たちの視線を感じた。特に前の席の年配女性たちが頻繁に振り返るのが気になった。健太郎は窓の外を見つめ、何とか気を紛らわせようとした。
「どうしてこうなった?」
彼は再び自問した。ずっと真面目に生きてきたはずなのに、なぜこんな状況に陥ってしまったのか。彼の思考は、さらに過去へと遡っていった…。