第1章:砂漠の中の一本の木
# 第1章:砂漠の中の一本の木
佐藤健太郎は鳥取砂丘のまっただ中でパンツ一丁の状態だった。
「どうしてこうなった?」
彼は青空に向かって呟いた。声は砂に吸い込まれ、返事はなかった。灼熱の砂が足の裏を焼き、容赦ない太陽が肌を真っ赤に染めていく。一週間前までは普通のサラリーマンだった。机に向かい、電話に出て、会議で居眠りをこらえる、ごく平凡な人生。それが今や、観光地のど真ん中で下着姿という前代未聞の状況に追い込まれていた。
健太郎は両手で自分のトランクスを押さえながら、再び天を仰いだ。『こんな状況、神様だって想像できないだろう』。冗談のつもりで考えたが、笑えなかった。
遠くからは観光客の賑やかな声が風に乗って届いている。誰かに見つかる前に何とかしなければ。しかし、どうすれば良いのだろう。財布も携帯も、すべて奪われてしまった今、取れる選択肢はほとんどない。
鳥取砂丘の広大な砂の海。その真ん中で、健太郎はまるで砂漠に取り残された一本の木のように立ちすくんでいた。
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すべては2時間前から始まった。
健太郎は観光バスの中で居心地の悪さを感じていた。パジャマのズボンとビジネスジャケットという奇妙な取り合わせに、バスに乗り合わせた観光客たちの視線が刺さる。特に前列に座った年配の女性グループの好奇と警戒の入り混じった目線が、背中に突き刺さるようだった。
「皆様、間もなく砂丘センターに到着いたします。到着後は自由行動となりますので、お時間にご注意ください」
運転手のアナウンスに、健太郎はため息をついた。本当はこんなところに来るつもりではなかった。ホテルのロビーで途方に暮れていたところ、たまたま「砂丘観光ツアー」の広告を見て、鳥取市内に戻る手段としてこのバスに飛び乗ったのだ。どうしてもホテルに忘れてきた荷物を回収する必要があった。
バスが停車し、乗客たちが次々と降りていく。健太郎も流れに従って立ち上がったとき、後ろからの声に振り返った。
「あの、すみません」
声の主は、先ほどから健太郎を注視していた年配女性の一人だった。
「はい?」健太郎は笑顔を作ろうとしたが、緊張のせいか引きつった表情になった。
「あなた、この前テレビに出ていた人じゃないの?」女性は目を細めて健太郎を見た。
「え?いいえ、違います」健太郎は慌てて否定した。
「でも似てるわよね。ほら、先週のニュースで警察が探してた、あの変質者」
その言葉に周囲の乗客たちの視線が一斉に健太郎に集まった。
「違います!本当に違います!」健太郎は両手を振って否定したが、それがかえって不審に見えたのか、周囲の目が厳しさを増した。
「ちょっと待って、その服装も怪しいわね」別の女性が指摘した。「普通の人はパジャマの上にスーツのジャケット着ないわよ」
「いや、これには理由が…」健太郎が説明しようとした瞬間、バスの運転手が近づいてきた。
「何か問題でも?」
「この人、テレビで見た変質者に似てるのよ」
運転手は健太郎を上から下まで見て、無線を手に取った。「事務所、ちょっと警察を呼んでもらえますか。怪しい人物がいるんで…」
「違います!本当に違うんです!」健太郎は必死に弁明したが、周囲の疑いの目は解けなかった。
状況を打開しようと、彼は両手をポケットに突っ込んだ。すると右のポケットから、朝、ホテルのフロントで拾ったパンフレットが出てきた。
「ほら、私はホテル・サンドダンスの宿泊客です。これが証拠です」彼はパンフレットを掲げた。
「それ、誰でも持ってるパンフレットじゃないの」女性たちの疑いは晴れない。
健太郎は焦った。このままでは本当に警察沙汰になってしまう。彼は奥の手として、ジャケットの内ポケットから会社の名刺を取り出そうとした。しかし、内ポケットに手を入れた瞬間、女性たちの一人が悲鳴を上げた。
「危ない!武器を取り出そうとしてる!」
「え?違います!名刺を…」
その言葉は最後まで伝わらなかった。突然、後ろから何者かに腕を掴まれ、地面に押さえつけられた。
「離してください!これは誤解です!」健太郎は必死に叫んだが、彼を取り押さえたのは観光バスツアーの若いガイドだった。格闘技をやっているのか、その腕力は並ではなかった。
「警察が来るまで大人しくしていろ」ガイドは冷たく言った。
健太郎は絶望的な気分で地面に頬を押しつけられていた。しかし、そのとき彼の脳裏に一つの考えが閃いた。このままでは完全に犯罪者扱いだ。警察が来る前に、なんとしても逃げなければならない。
周囲の人々が混乱している隙に、健太郎は全力で体を捻り、ガイドの腕から逃れた。
「待て!」
ガイドの声を背に、健太郎は砂丘の方へと全速力で駆け出した。しかし、ビジネスシューズでは砂の上を走るのは難しい。数歩進んだところで靴が砂に埋まり、前のめりに転んでしまった。
「捕まえろ!」
後ろから声がする。慌てて立ち上がろうとした健太郎だったが、足に絡まったパジャマのズボンが邪魔をして、再び砂の上に倒れ込んだ。
「くそっ…」
彼は靴を脱ぎ捨て、パジャマのズボンも引きちぎるようにして脱ぎ、再び走り出した。それでも追っ手は迫ってくる。ジャケットも動きづらいと感じた彼は、それも脱ぎ捨てた。
トランクス一枚になりながらも、彼は砂丘の起伏を利用して逃げ続けた。ようやく追っ手の声が遠ざかったと感じたとき、健太郎は立ち止まり、周囲を見回した。
そこは砂丘のほぼ中央、人気のない場所だった。遠くに観光客らしき人影が見えるものの、この距離なら彼の姿は認識できないだろう。
しかし、問題はそこからだった。彼はトランクス一枚、素足の状態で真夏の砂丘の真ん中に立っている。財布も携帯も、すべての持ち物はジャケットと一緒に砂の上に捨ててきてしまった。
「どうしてこうなった?」
健太郎は再び呟いた。強烈な太陽が照りつける砂丘の上で、彼は途方に暮れていた。この状況を脱するために、彼は頭を働かせようとした。しかし、直射日光と疲労で思考は徐々に鈍ってきていた。
彼は遠くに見える日本海に目を向けた。青い海と空。どこまでも広がる砂丘。その美しさに、健太郎は一瞬、現実を忘れかけた。『まるで絵葉書みたいだ』
そして不思議なことに、この極限状況で彼の心に奇妙な平静さが訪れた。すべてを失った今、彼には失うものが何もない。それは奇妙な形の自由だった。
健太郎はゆっくりと砂の上に座り込んだ。砂は灼熱だったが、もはやそれすら気にならなかった。彼は深く息を吸い込み、目を閉じた。
『こんなことになるなんて』
そして彼の思考は、この状況に至るまでの一連の出来事へと遡っていった…。