昔の夢
「おかぁさん、おとぉさん……」
上手く泣けない子どもが嗚咽を繰り返す。子の心情を表すように森は薄暗い。辺りは一面紅葉で覆い尽くされている。抑えようとしても抑えきれずに漏れ出る泣き声が、深い森の中にこだまする。
冬が近づく季節に、外套のひとつも身に付けない薄衣の子どもは、膝を抱え身体を小さくして座り込んでいる。
(おれの目がヘンじゃなかったら、きらいにならなかったかな。こわがらせなかったのかな)
恥じるように自分の赤い目を手で覆い隠す。
(さいごに目をみてくれたのって、いつだっけ)
もう思い出せないほど昔のこととなってしまった。
(おかぁさんに会いたいな。でもおかぁさんはおれに会いたくないもんな。おれがヘンなこと言う、わるい子だから。みんなを困らせるから)
何もない場所を指さす子どもは、母親にとって気味の悪いものに見えていたことだろう。
「ヘンなこと言ってごめんなさい。おばけがいるって言ってごめんなさい。困らせてごめんなさい。ハンセイするから」
自分に見えるものが何なのか。好奇心から聞いただけで、困惑させるつもりなど毛頭なかった。怖がらせるつもりなど、なおさらなかった。
「ごめんなさい、ヘンなこと言わない。おれ良い子にするから、ごめんなさいするから、おいてかないで」
いくら謝罪を述べようとも、受け取る相手は誰一人としてここにいない。
「ひとりはヤダ。ひとりはさみしいよ。ひとりは──」
家族の誰にも、理解できない力を有していたことが災いした。力のせいで子どもはひとりになった。幼いながらに、独りのつらさを知ってしまった。誰からも温もりを得られない寂しさを知ってしまった。
「さむいなぁ」
そこに音もなく、何かが現れた。
「お前、ひとりで何をしている」
いつの間にか、目の前には人影がひとつあり、子どもを見下ろしていた。それが何か、誰かなど子どもには興味がなかった。
「いなくなってる」
「何?」
「おれがわるい子だから、おかぁさんのとこからいなくなってるの」
「どういうことだ」
「しってる?あかい目の子は、ふつうじゃないんだって」
目を覆う手の隙間からのぞく、腫れぼったい子どもの目は、人らしからぬ赤い色をしている。
「ぜんせ?で、わるいことしたとか、生まれたときにノロわれたとか。フキツなんだって」
「……」
子どもが言っていることは支離滅裂で、理解に苦しむ。だが、家庭環境が悪辣だというのは読み取れた。
「でも、おれがわるいの。ヘンなものが見えちゃうから。みんなには見えない、ヘンなもの。おれだけ見えるってことは、おれだけがヘンなんだって」
他人事のように話す子どもの目が、何かを追っている。視線の先には小さな妖がいた。
「おれがヘンにうまれちゃったから、ふつうじゃないから、おかぁさんがみんなに怒られて、おかぁさんがかなしい思いしちゃうんだ。おれを産んでから全部だめになっカゾクたんだって。カゾクがぐちゃぐちゃになったんだって」
小さな妖など見なかったというように、子どもの目がそっと伏せられた。
「きもちわるい子をうんだおかぁさんも、みんなにきらわれちゃうから、おれは、いっしょにはいられないって。だから、おれがわるいの。いっしょにいたらフコウにしちゃう」
「お前は、それで良いのか」
「おれは……。おかぁさんとおとぉさんと、いっしょにいたかった、のかな。おかぁさんが笑ってるとおれもうれしく……。あれ、おかぁさんっておれに笑ってくれたこと、あったっけ?……わかんなくなっちゃった」
彼らにも確かにあったはずなのだ。心から子どもを愛し、慈しんだ頃が。だが、子どもに思い出せるのは、腫物を扱うような苦笑い。それがいつしか怯える顔になり、ついには──。
「もうよくわかんないけど、いっしょにいたら、みんなつらいんだ。おかぁさん、ずっと暗い顔のままなんだ。おれをなかったことにしたいって、おかぁさんもおとぉさんも、そうしたいんだって」
自ら手を下すことができなかった彼らが選んだのは、この子どもが「初めからいなかった」世界線。
あまりのやるせなさに酷い顔をした人影を、怪我でもしたのかと子どもが気遣う。
「だいじょぶ?どこいたい?」
(痛いのは、辛いのは、お前の方だというのに、お前は見ず知らずの私に心を砕くのか)
この子を恐れ捨てた彼らは、この温かさに気づいてやることができなかった。
(名前も知らない人間共よ。お前らがこの子を不要だと言うのなら──)
「お前は、生きたいか」
「いきたい?いきたいって、なに?おれ、わかんない」
齢五つにも満たない幼子には難題だった。
「なら、何が食べたい」
「たべたいもの?たべたいもの、たべたい……もの……」
見上げる子どもの目に紅い葉が映りこむ。
「あれがたべたい」
ひらひらと落ちる紅葉を指さした。
「……紅葉か?」
「うん。あれ、たべてみたい。まえにみたことあって気になってた。……だめだった?」
「いいや。いくらでも食べさせてやる。だから──」
「 」
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紅葉が舞う静かな森の中。木の上にいる猫宮とおはぎ。懐かしい夢から覚めた猫宮が、小さく笑い声を漏らす。
「今思えば、あんときのセンセーめちゃくちゃ困ってたな」
猫宮に身体を預けてくつろぐおはぎと目が合う。
「にゃう?」
「あぁ、夢だ。センセーに会ったときの夢を見てたんだ」
おはぎに、それで?と促されるまま続きを話す。
「俺は名前が分かんなくてな。ずっと紅葉を指さして『あれが食いたい』って強請ったんだよ」
猫宮は小袋から好物の菓子をひとつ取り出すと、空にかざして眺めた。昔見たひらひらと落ちる葉を模して。
「見つけたのはそれから数時間後で。手当たり次第に店を回って、最後なんか体力切れで負ぶられたな」
猫宮は実の両親を恨んだことはない。好きの反対は無関心とはよく言ったもので、彼らに対して恨むほどの関心がもうないのだ。肉親に対して冷たいと思われようとも、感情は理屈でどうにかできるものではない。
そんな一歩引いた目で見れば、彼らに同情できなくもない。彼らの言動を正当化する気はないが、血のつながった家族でさえ理解し合えないこともある。分からないものに恐怖するのは、生物としていたって自然な反応だ。身を守るための一種の防衛本能。
どうしたって自分とは違う一個体の他者だ。同じ景色が見えても同じように感じるとは限らないのだから、なおのこと。一緒にいない方がお互いにとって最善なこともある。
きっと、彼らには猫宮を理解しようと歩み寄れるほどの、心の余裕がなかったのだろう。向き合うための準備がまだ、充分ではなかった。
「あの人たちに相談できる人がいたら。あの人たちも俺と同じだったら。俺があの人たちと同じだったら。違う結果になってただろうな」
すべてこれのせいだ、と責めることなど土台無理な話。いろんな事象が複雑に折り重なって今に繋がっている。
だからこそ、猫宮はこんな過去を持つ自身を不幸だとは思わない。センセーに出会えたから今の猫宮がある。人肌は温かいのだと知ることができた。
「にゃあ」
「だな。お前に出会えた俺は幸せもんだ」
「にゃうにゃう!」
「ふはっ!そうか」
おはぎも「猫宮に出会えた幸せ者」だと自慢気に鳴くものだから、思わず吹き出してしまう。
つい嬉しくておはぎを腕の中にしまい込む。
「あったけぇ」
『いいや。いくらでも食べさせてやる。だから──』
『私の子にならないか』
★猫宮さんの質問コーナー★
Q1)センセーってだれー?
A1)俺にいろんなことを教えてくれた奴。力の使い方とかな。
Q2)センセーと猫宮さんはどっちが強いー?
A2)さあ?でも負ける気はねぇよ。
Q3)センセーの名前はー?
A3)秘密。ほいほい名前を明かすのはNGだぜ。