ぬいぐるみ -3-
「陽山!おいしっかりしろ!」
下敷きとなった陽山はピクリとも動かない。
直ぐに棚を持ち上げ目視で容体を確認する。外出血は見られないが、内部もそうとは限らない。
頭を揺らさないように肩を強く叩いて何度も呼び掛ける。
「うぅ……」
「!」
救急車を呼ぼうとスマートフォンに手を伸ばした瞬間、うめき声があがった。
「陽山、大丈夫か。痛むとこは?」
起き上がった陽山の頭部に怪我がないか触診する。切った傷や腫れた様子もない。陽山は身体を動かして怪我がないことを示した。
「日々の筋トレのおかげかもな!」
自分の身体が頑丈で良かったと笑うが、頭部は筋力トレーニングでどうにかできる部位ではない。
「少しでも違和感あったら、すぐ医者に診てもらえよ」
頭部打撲は、時間が経ってから発症することもあり、なかには数か月後になってから痛みや不調が生じる場合もある。たとえ軽傷に見えても、軽んじてはならない類の怪我だ。
棚の取り付けについてきつく釘を刺しておいた。棚に物を戻しながら、怪我がなくてよかったという陽山の声に、適当に相槌する。
「!」
猫宮はあるものを見つけた瞬間、その瞳がすっと細まった。
陽山は猫宮の見つめる先を追うようにして、床に落ちていた何かに目を留めた。──ラッコのぬいぐるみだ。
どうやら床に落ちた拍子に、縫い目の隙間から綿がはみ出してしまったらしい。
「さっきの揺れで落ちたんだな。綿が出るほどだったか。直してやるから待ってろよ!」
陽山は記憶を頼りに、しまい込んだ裁縫道具を探しに行った。
一方、猫宮は先ほどまで感じていた気配が消えてしまったことに、胸をざわつかせていた。
「消えちまったのか……?」
呟いた言葉に返答はなかった。
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陽山が持ってきたのは、少し埃をかぶった裁縫道具だった。いかにも思春期の男児が好みそうな、ドラゴンがあしらわれた柄が目を引く。糸を針に通そうとするが、その手つきはどこかぎこちなく、慣れていない様子が窺えた。
「……さては不慣れだろ」
「裁縫は学生以来だな」
陽山はむっと顔に皺を寄せ、渋い表情を浮かべた。大柄な体に対して、細長い針の扱いは明らかに難しそうだった。なんとか針穴に糸を通すことはできたが、その代償として糸通しは無残な姿となり、猫宮は思わず手を合わせた。
「ったく、俺がやる。お前の逞しい指じゃ針が折れる」
わざと「逞しい」のところを強調した。それは、貧弱と評されたことへのささやかな仕返しだった。
「うぅ……そうだな。頼む」
反省の念と、これ以上の被害を防ぐために、素直に猫宮へ助けを求めた。その間、陽山は他に被害がないか見て回ることとなった。
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ちくちく、ちくちく。
猫宮のスマートフォンには「ぬいぐるみ 目立たない 縫い方」と検索して見つけた情報が表示されていた。はみ出した綿をそっと押し戻し、はしご縫いの手順を見つめながら、ひと針ひと針を確かめるように縫い進めていき、裂け目は少しずつ閉じられていった。
「やっと終わっ──!」
途中で途切れた猫宮の声に、不思議そうな様子を見せながら、足の上で眠っていたおはぎがゆっくりと首を持ち上げた。
裁縫に没頭していたせいか、終えるまで視線にまったく気づかずにいた。
「ようやく気づいたようですね」
凛とした女性のような声がする。声の主は他でもない──ラッコのぬいぐるみだった。
「お前……」
「あまりにも反応がないので、実は『分からない』人間なのかと思いました」
自分から軽々しく声をかけるわけにもいかず、もどかしさが募っていた。そう告げるその声色には、どこか呆れの混じった響きがあった。
「悪かったな。お前が消えたのかと思ったんだよ」
「おや……面識もない人間ごときが、私のことを案じたというのですか」
猫宮の手元から離れたラッコのぬいぐるみは、一瞬目を丸くした後、からかうような口調で厚かましく言い放った。
気に障った様子は微塵も見せず、猫宮は静かに微笑みを浮かべていた。その瞳にはどこか余裕が漂い、まるで相手の挑発を楽しんでいるかのようだった。
「そういうお前こそ、消えかける危険を冒してまで『人間ごとき』を助けるとはな。ずいぶんお気に入りのご様子で」
ラッコのぬいぐるみは、決して力強いわけではなかった。せいぜい、一度の怪我を引き受けるのがやっと。図星をつかれたラッコ──付喪神は悔しそうに顔を背けた。
眉間に寄ったシワを猫宮がつつく。しかし、反抗するようにかえってラッコのシワは深まり、その手をはたく。
「綿が出る前より元気そうだな」
むしろ力が増したのか、猫宮はその気配が一層濃くなったことを感じ取っていた。
すると、空気が一瞬で引き締まる。変化を察知したおはぎの耳がピンと立ち、その全身が緊張でこわばる。猫宮がそっと撫でると、少しずつ力が抜けていった。まるで緊張の糸がゆっくりとほどけていくように。
「縫合の際、意図せず貴方は力を込めていたようです」
その視線は猫宮を見透かすように鋭く、迷いなく向けられていた。静かな空気の中で、その声ははっきりと響いた。
「おかげで私の声が貴方に届いた。これからもあの子を見守れることには、感謝します」
かつてはせいぜい一度の災厄から持ち主を護るにすぎなかった付喪神が、今やその力を増し、意思の疎通を図れるまでに至った。
持ち主の陽山が零感だったのは、ある意味、幸いだったのかもしれない。もし「声」が聞こえていたなら、種々の説明を余儀なくされたことだろう。
意識が別のことへと逸れていたが、続いた言葉によって現実へと引き戻された。
「しかし気をつけなさいな。本来消えるはずだった霊魂を補強するなど、──ただの『人間』になせるものではありません」
おはぎを撫でていた手が、動きを失う。
「貴方の力は強大です」
使い方次第でそれは容易く巨悪へと転じ得る。
猫宮に言わせれば、力とは本来、そうした両義性を孕んだものだという。
たとえば火。
人の暮らしを温め、食をもたらし、文明を前進させる礎ともなれば、ひとたび制御を失えば、大地を焼き払い、命を奪う凶器とも化す。
言葉もまた然り。
誰かを励まし、思いを伝え、知を分かち合う手段となる一方で、嘘を紡ぎ、中傷し、悪意を鋭利な刃に変えて他者を傷つけることもできる。
知識はどうだろうか。
病を癒し、世界を進歩へ導き、無知を照らす灯ともなろう。しかしまた、詐術に使われ、他者を欺き、混乱を操る道具にもなり得る。
ならば筋力は。
人を助け、己を律し、健やかな身体を支える側面を持ちながら、他者を屈服させ、暴をもって従わせる「暴力」へと転じる危うさを秘めている。
結局のところ、いかなる力も、その本質は中立である。それを善にも悪にも染め上げるのは、常にそれを用いる者の意思にほかならない。
「貴方は本当に──」
付喪神には猫宮の表情が読み取れない。
「『人』なのでしょうか」
赤い瞳が細められ、口元がにやりと歪んだ。




