クジラの絵 -前-
描かれているのは、空に浮かぶ大きなクジラだった。背には木々が生えており、大地というより小島に見える。名付けるとすれば、空くじらというより島くじらの方がふさわしい。ひれは長く、まるで飾り毛のように優雅に揺れていた。青白い身体は空に溶け込んでしまいそうだ。
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「このクジラを泳がせたいのです」
絵の持ち主であった平賀は、すでにこの世を去っている。持ち主に代わり息子が今回の依頼主として名乗りを上げた。そして、今回、依頼の仲介役を務めるのは、道具屋の中でも名の知れた「大塚屋」に属する人物であった。
彼女の名は河口という。積み重ねた歳月がにじむような落ち着きを湛えたその佇まいは、周囲に自然と静謐な空気をもたらす。揺れる黒に混じる銀の髪が印象的で、仕立ての良いスーツを隙なく着こなす姿には、年季と品格が漂っていた。
「『空に浮かぶクジラ』。御覧の通り、孔雀絵師による一作です。猫宮様は孔雀の絵師についてご存じで?」
絵師について知っているかと問われ、猫宮が答えようとわずかに口を開いたその瞬間、彼の胸元から鳴き声が漏れた。前に斜めがけにされたショルダーバッグからのぞくおはぎの頭を撫でつけると、「多少は」と返答する。
孔雀絵師とは、具象化する特殊な絵を描く正体不明の人物である。会ったことがあるという者は絵師を男だと言うが、確証はなく人間であるかも怪しいところだ。妖や霊を描いた作品が多くある中、時折空想上の生物を描いたものもあるという。
謎多き絵師だが、サインや落款の代わりに描かれた一羽の孔雀が、彼の作品だと示している。この絵にも、大空に浮かぶクジラを見上げる孔雀が描かれていた。猫宮は何となく絵に違和感を覚えたが、ひとまず頭の隅に押しやった。
(今回は出しても特に危ねぇもんではないな)
孔雀絵師の絵は、条件を満たすことで描かれたものを具象化させることができる。この絵から具象化するとすれば、思い浮かぶのはせいぜい温厚そうなクジラくらいだ。危険はないだろう。
平賀は生前、その条件を探していたが、ついぞ見つけることができないまま、生が尽きた。彼の遺言の中にも、この絵に関する記述がしっかりと残されていたという。
猫宮は、河口の言葉に引っかかりを覚えた。
(『遺言に』ねぇ?)
平賀の子息がただの饒舌家という可能性も捨てきれない。だが、遺言というかなり私的な話を不用意に他人へ漏らすとは考えにくい。常識的に考えてそれはやや不自然に思えた。
「『遺言に書かれていた』と。詳しいですね」
猫宮は声の調子を抑えつつも、どこか探るような目つきで問いを投げかけた。
すると、河口は何も隠すことなどないと言わんばかりに、淡々と答えた。血縁関係はないものの、平賀一家と懇意にしているのだと。
猫宮の脳裏にふと、複雑な家庭なのかという考えがよぎった。しかし、その想像はすぐに彼女の言葉によって打ち消された。
「あれとは腐れ縁だっただけで、互いに色恋の気は全くありませんでしたから。誤解の無いよう」
「それは失礼しました」
猫宮は肩をすくめ、変な勘ぐりをしてしまったことを詫びた。それに対して河口は、言葉にはしないものの、まったく気にしていないことを静かな表情で示してみせた。
不意にちらりと彼女が窓の方へ視線を向けた。視線を追って猫宮も目を向けると、羽の生えたリスのような妖が外を羽ばたいていた。
「見えもしないのに、あれ(平賀)は昔から変わったモノを好んでいました」
そう言われて、猫宮は改めて辺りへ意識を向けた。
絵が置かれたこの部屋には、壁に沿ってずらりと棚が並び、そこには呪物めいた品々が所狭しと並んでいる。人によっては一歩引くような光景だが──よく見れば、そのどれもがただのオブジェにすぎない。意味ありげな姿形をしているが、実際には何の力も宿してはいない、精巧に作られた飾り物たちだった。
「これでも幾分か減った方です」
「これで…?」
床に物が無造作に散らばっているわけではない。だが、棚や置物がびっしりと並べられたその部屋は、全体の半分ほどが物によって占められていた。整然としていながらも、空間はどこか圧迫感を伴っていた。
「売り払ってもよいと言い残したのは良かったのですが、如何せん数があり過ぎて、奥方が整理に苦労しております」
その口調に滲むしみじみとした響きからして、河口自身も片付けを手伝っているのだろうと察せられた。
素人目にざっと見ただけでも、価値がありそうな骨董品がいくつも目に留まる。道具屋である彼女ならば、その伝手を使えば良い値でさばくこともできるだろう。とはいえ、この物量だ。いかに目利きでも、処理には相応の労力を要するに違いない。
「物好きな収集家だな。統一性も何もねぇけど」
面だけ、壺だけといった収集の一貫性は見られず、呪物めいたものから御守りのようなものまで、実に雑多だ。どうにも目新しいものを見つけては、その場の興味で手に入れてきたような、そんな印象を受ける。
「昔、ツチノコだと言って素手でそこらの蛇を持ってきたときは、奥方とともに拳骨を贈りました。流石に懲りたようで、それ以降ツチノコの話題を出さなくなりましたね」
「ははっ、いい歳した野郎だろうに」
頭にコブを二つ拵えた姿を想像すると、笑いがこみ上げてくる。
すると、猫宮の視界に、ねずみを呑み込んだような蛇の標本──ホルマリン漬けらしき瓶が映った。
(……やってんなぁ、平賀の旦那)
けれど、あえて口には出さなかった。どうせいずれ誰かの目に留まるだろうし、今は深く関わらないほうがよさそうだった。
彼が存命であれば「しまった」とでも言っていたのだろうか。猫宮は口元をわずかにゆるめた。
「他人事で悪いが、大変そうですね」
「ええ困ったものです。ただ、彼には恩がありますから」
放っておけないというのは、奥方たちと親しいからだけではない。平賀への恩義が、彼女の協力の根底にあった。
「私は昔から、下級の妖であれば見えるのです。……お察しでしょうが、それゆえに幼少期は周りと馴染めない子でした」
やはりそうかと、猫宮は心の中でつぶやいた。妖と関わる者は、幼い頃から辛酸をなめることが多い。自身にも覚えがある猫宮はそっと目を伏せ、彼女の話に耳を傾ける。その微かな機微を感じ取ったのか、おはぎがそっと気遣うように見上げてくる。問題ないという風に猫宮は無言でその頭を撫でた。
それ故、哀れみを滲ませた河口の視線に、猫宮が気づくことはなかった。




