茶屋
「……」
猫宮の背後を、何かがじっと見ていた。
通りを歩く足音の中に紛れて、気配は音もなくついてくる。振り返っても誰もいない。けれど、確かに「見られている」。視線の針のような刺さり方に、猫宮は鼻を鳴らした。
ただの通りすがりではない。獲物を見る目でも、敵意でもない──だが、妙に執着がある。
「鬼が出るか蛇が出るか……」
「にゃう?」
「いや、なんでもねぇ。『今』は大丈夫だ」
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人のいない小道。
猫宮が、犬に舐め回された小さい妖を摘まみ上げる。全身水気を含んでいて、見た目よりも少し重い。
「きたねぇ」
「ぐずっ、うぅっ、だずがっだぁー」
「全身ぐっしょぐしょだな」
「あの獣が、いきなり襲いかかって来たのだぁ!」
「にゃ」
「『あっち』?」
おはぎが示す方向を見ると、草陰に小さなおもちゃがひっそりと転がっていた。
妖を取り上げられて悲しそうな顔をした犬に、おもちゃを渡す。もともと遊んでいたおもちゃを投げでもして見失った後、この妖をそれと間違えたのだろう。大雑把に見れば確かに似ている。
「私をそんなものと間違えたのか、貴様ー!」
さっきまでぐったりしていたが、怒って手足を振り回せるほどには調子が戻ったらしい。
憤慨する妖を犬から引き離して、気を付けるように言い聞かせる。
「食ったら腹壊すぞ。やめとけ。な?」
「わんっ!」
「キィー!!」
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民家の一室。卓の上には、籠に盛られたみかんと、猫宮の分も含めた3つの茶が置かれている。
依頼主の娘の背後には、はっきりと霊の姿があった。
『あア゛ア、ァあ、アああ』
「お前、俺の言葉が分かるか?」
『ア、アアアぁ、ああ゛アァ、ぁ、ぁぁぁ』
「その人より俺に憑いてみねぇか」
『アあぁ、アア、あ゛ぁあ』
霊と意思の疎通が可能かを試みたが、言葉は成り立たず、理性はない様子だった。説得によって女性から引き離すのは、難しいだろう。
「にゃぁ……」
「おはぎにはちょいと耳障りかもな。俺の心音でも聞いとけ」
成り行きを見守っていた依頼主が、悲痛な声をあげる。
「娘を助けてください、お願いします。もういろんなお祓い師に頼んだのですが、どれもダメで……!」
「『除霊の効果がなかったり、そもそも一目見ただけで断られたり』……ですかね?」
「!はい、どの方も『うちでは手に負えない』と言うばかりで!」
確かに、並の祓い屋には荷が重いだろう。この霊は何もせずとも、いるだけで周囲に瘴気を振りまいているのだ。これを知覚できる分、祓い屋は彼女たちよりも直接的に影響を受ける。
「中には『お気の毒に』だなんて……!!」
「名のある祓い屋は、多忙ですから」
無理を承知で呼びつけたところで、その頃にはもう手遅れになっているだろう。祓い屋が言った「お気の毒に」──それは、暗に諦めろと告げられているようなものだった。
猫宮は決して、彼女を慰めることはしない。むしろ、なすべき事柄に心を集中させるべきである。
「こうなったきっかけなど、何か分かりますか」
「……」
「すみません、娘は精神的にかなり滅入っていて……」
心当たりを尋ねれば、依頼主の娘はうつろな目で宙を見つめており、座っているのがやっとな、まともに答えられる状態ではなかった。
「おはぎ、頼む」
「にゃあ」
おはぎが彼女に近づくと前足でそっと触れる。
途端に、彼女の揺らいでいた視線が少しずつ安定し、混乱していた意識がぼんやりと戻り始めた。
「あ……あれ、私……?」
「ハ、ハナ!?猫宮さん、これは一体……!」
心身の変調に関する問いかけの隙も与えず、猫宮は質問を繰り出した。
「ゆっくりでいいです。心当たりがあれば教えてください」
「えっと……強いて……言うなら……」
「些細な事でもいい。思い出してください」
ある夜、帰り道に普段は通らない道を通ってから、彼女の体調は悪化の一途をたどっているという。彼女が常日頃から霊を視認していたわけではなく、その際にも霊を目撃したわけではないようだ。つまり、彼女は狙われる体質ではなく、単なる偶発的な取り憑きであったと推察される。
「そんな……何も悪いことなんてしていないのに……」
「残念ながら、こういう相手の多くは通り魔的なんですよ。理屈なんて求めちゃいけない」
そんな些細なことで、と思うかもしれない。だが、怪異との軋轢の多くは、まさにこのような理不尽に端を発するものなのだ。
「なんとかできますか!?」
母親は娘の手をしっかりと握り締め、沈痛な面持ちで見つめていた。母娘ともに顔色は悪く、目の下には深いくまが刻まれている。霊に憑かれてからというもの、眠りとは無縁の夜を過ごしてきたのだろう。
「えぇ。呪いだなんだの心配はなさそうなので、霊自体を祓えば解決します。なので、」
赤い目が鋭く霊を見据えた。
「今日からはちゃんと眠れますよ」
ぱんっ
『ア゜ッ』
猫宮が柏手を打つと、多くの祓い屋たちが手をこまねいていた悪霊は、呆気ないほど簡単に弾け飛び、跡形もなく消え去った。
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森の奥深く。猫宮は、顔なじみの妖に会うために足を運んでいた。
「あいつだ」
「ほんとだ、あいつだ」
この森に棲む者たちは、当初こそ余所者である猫宮に警戒の目を向けていたが、やがて彼に害がないことを理解し、今では「また来たのか」と一瞥をくれる程度になっていた。
しばらく森の中を歩いていると、一匹の妖が声をかけてきた。
「またあんたか」
「よぉイタチの」
探していた妖が、ようやく見つかった。それはイタチのような姿をした妖で、猫宮にとっては見慣れた存在である。この妖はみかんを好物とするが、この森には自生していないため滅多に口にすることができない。
そんななか、猫宮の手には依頼主からもらったみかんがひとつ。──猫宮がなぜ会いに来たのか、言わずとも知れる。
「わざわざ来たの?暇人め」
「なんだよ、要らねぇのか」
「何言ってんのさ、みかんに罪はない!」
満更でもなさそうな様子の妖に、猫宮はみかんの皮を丁寧に剥いて渡しながら、他愛のない話を交わした。
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こうして、犬に絡まれていた妖を助け、悪霊祓いの依頼を無事に終え、顔なじみの妖と他愛もない話を交わした後、猫宮は茶屋へと足を運んできた。
ここは町から少し離れた場所にかまえた隠れた店。鳥のさえずりと、柔らかな木漏れ日が疲れた心を癒す。
茶屋を営むのは穏やかな年配の女性だ。
「婆ちゃん、俺とおはぎにいつものくれ」
「あいよ」
縁台に腰をかける。
そう待たずに盆が運ばれてきた。盆の上には、もみじ饅頭と煮干しが乗っている。好物を前に、一人と一匹は目を輝かせた。
菓子を口にして、顔をほころばせる猫宮たちを見て、彼女は温かな微笑みを浮かべていた。
「毎度美味しそうに食べるねぇ」
「美味ぇからな」
「にゃ」
「あら。嬉しいこと言ってくれる」
菓子を摘みながらぼんやり過ごしていると、徐々に猫が集まってくる。同類とでも思われているのか、猫宮いる所にはすぐ猫集会ができる。
だが今回は猫以外の気配が紛れていた。
「婆ちゃん、追加で菓子を一つ頼む」
「お客さん用かい?」
そ、という返事と共に、もみじ饅頭の残り一欠片を口に放り込む。
「そいじゃあ、お邪魔な私は退散するよ」
茶屋の婆さんが居なくなったのを見計らい、しゅるしゅると舌揺らす白い蛇が猫宮の前に現れる。
一目散に猫たちが逃げ去った。
「あーあー、折角くつろいでたのに。強い気配を当てられるなんて可哀想に」
「それで、この祓い屋猫宮に御依頼ですかねぇ?──神様」
猫宮の赤い目が白蛇を捉えた。
直後。
「つまらんな。脅かし甲斐がない」
白蛇からバリトンボイスが発せられた。
猫宮は、神が目の前にいることよりも、腹に響くバリトンの方が、内心衝撃的だった。
「ずっと尾けてきたのは、『脅かすタイミングを計ってたから』ではないですよね……?」
白蛇は、ただ微笑みを浮かべるばかりで、返事をする気配はなかった。
おやつを食べ終えたおはぎがパーカーのマフポケットに潜り、そのまま眠りにつく。
「お前さんの『使い』は寝てしまったが、良いのか」
「『あなたから害意を感じない』『あっても俺なら平気だと判断した』ってところでしょう」
煽るようなニヤケ面を向ける。実際白蛇に悪意はなく、周囲の猫が警戒して逃げる様子もない。
「それと、あんたはおはぎを俺の『使い』と言ったが、俺らに上下関係はねぇ。『家族』だ」
あえて口調を強め、真っ直ぐな目でそう訴える。互いの信頼の強さが垣間見えた。
と、思えば「いや、おはぎは俺を弟や赤子みたいに扱うときが、たまにある、か……?」などと歯切れの悪いことを言い出す。
「そういうあなたのその身体は『使い』の物ですか」
「ふむ。目が良いな。確かに今の私は『使い』を通して見聞きしている。本体は神社だ」
神社の場所を聞けば、県ひとつを跨ぐところだという。遠路はるばる猫宮の元まで来たわけだ。
「わざわざ俺をご指名したのは何でですかね。神子にも頼めないことでも?」
「忘れているようだが、神子であろうと、人と神はそう易々と対話することはできんのだよ。お前さんが特殊なだけだ」
「あ……。そういや、『神懸かり』とか『神楽』とかって儀式がいるんだったか……?」
神は意思疎通が可能な相手だ、という認識が猫宮には染みついてしまっている。猫宮にとって当たり前でも、他にとっては当たり前ではないということが多分にある。強い力を持っている名のある祓い屋でさえ、猫宮と同じ景色を見ることはできない。
「やっちまった……」
「人の子は労多きことよ」
決して忘れていたわけではないが、先のようにふとした瞬間認識の差が言動に現れる。相手によっては煽られたと激高されかねない。相手が温厚そうな神で良かったと安堵する。首を摩る動作に反省の色が滲む。
ひとまず場所を移して話を聞くことにする。
「婆ちゃん、ごちそうさま。美味かった」
「お粗末様です。はいこれ、頼まれたお菓子。お仕事頑張って猫ちゃん」
猫宮は染髪せず奇抜な装飾もなく煙草も吸わないのだが、多少ガラが悪い。そんな180cm越えの男を猫ちゃん呼びできるのは、おそらく後にも先にもこの人くらいだろう。
猫宮に労った後、首に巻き付いた白蛇へと言葉をかけた。
「それと、猫ちゃんたちをよろしくね」
穏やかな見た目とゆったりした口調で釘をさす。神相手にこの態度とは、茶屋の婆さんもなかなか肝が座っている。猫宮の事情を知っている訳でもない上に、本人は零感である。にもかかわらず、何かを察して温かく見守ってくれる稀有な存在だ。
菓子を受け取って、猫宮たちは茶屋を後にする。
「とんだ大物だな。あの人の子は」
茶屋の婆さんに感心しつつ、白蛇の住まう神社へと向かう。