朝焼けのアジタート
幸運なことに、自分は天才なんかじゃない。
だが不幸なことに、自分は音楽を愛しすぎていた。
茹だる暑さがまだ残る午前四時。白み始めた空には細い月が輝いていた。聞こえるのは鳥の声ばかり。目覚め始めた街を走る原付の音が時おりそこに混じった。
自転車を走らせてきた心臓は耳の裏でどくどくと鼓動を打ちならしている。いや、たぶん理由はそれだけではない。馬鹿なことをしているという自覚が、緊張と羞恥それから興奮をもたらしているのだ。
落ち着け。深呼吸をひとつ。心臓に命じて、ストリートピアノの蓋を開けた。一音、人のいない構内に響かす。そこからは、夢中だった。
気持ちの赴くままに脳内から楽譜を引っ張り出し、改変し、繋ぎ合わせていく。――実は自分は作曲家になりたいのかもしれない。適当な思考にミスタッチを挟みながら、止め時を見失っていく。心地よい時間に没入していた。
四月に音大へ所属してから数ヶ月。予想通り数多の天才たちが蠢くそこでは自分の才能は無いに等しいものである。幸いにも元より身内にそんな存在がいたお陰で、己の力量は入学前から弁えていた。
天才には天才の苦労がある。悩みがある。孤独がある。分かりあえる相手のいるその他大勢でいることの幸せを知っている。音楽で食べていくとしても道はひとつじゃない。大丈夫、分かっている。分かっているから。
また、ミスタッチ。音が、乱れる。
分かっているから、なんだってんだ。
――大音量の不協和音。
そこから連なる感情がまた音と成っていく。
叫びが、嘆きが。怒りが、焦りが。苦しが、悔しさが苛立ちが慟哭となる。
それは、なんとも無様な音だった。
指はなおも動き続ける。適当な楽譜を適当にアレンジをしながら、気の向くまま、めちゃくちゃに。
そこへ割り込んできた硝子を引っ掻いたような不愉快な高音。内側へ籠っていた意識が吊られて視線を向ければすぐそこにバイオリンを持った男がひとり。にやついた口許をあご当てに乗せ鳴らされた一音に世界は静まりかえった。
学内でも有名な天才のひとりだ。関わりなど持ったこともない。そいつが、目配せをしてきた。
『弾け』
それはまるで遊びの誘いのような命令だった。
まずは、バイオリンソロを。楽譜の無い連なりが身体の奥底を震わせた。それから目線をひとつ。ピアノのソロへと転じる。かと思えば重なる、それぞれの音が無秩序に、計画的に、絡まりあっていく。どこまでも高く、どこまでも深く、どこまでも自由に。
「ははっ――」
零れた笑声まで組み込んで奏でるセッションに心臓はどくどくと早鐘を打ち鳴らす。心はそれまで以上にぐしゃぐしゃだった。
――あぁ、楽しい!
それがとてつもなく、悔しかった。
幾度目かの目配せが交わる。最後の、一音。荒い二つの息遣いが余韻に被さる。
そこから、言葉が交わされることはなかった。次の遊びの約束もない。まるで何事もなかったかのようにふらりと立ち去る背はいつも通り気だるい空気を纏っていた。
その姿をただ見送り、吐息と共に短く興奮を吐き出す。それから、また逃げ損ねたと苦笑い。
不幸にも幸運なこの愛を呪った。