空の飛び方
欲しいものは全て手に入れたとあの人は言った。羨ましい。欲しいものなんて数限りなく存在するのに、私には何一つ手に入らないのに。だけど私は、あの人に対してある種のすがすがしさを感じていた。あの人の自信満々の口ぶりと瞳は、真実を伝えているような気がした。そう、きっとあの人は欲しいものを全て手に入れたんだ。自信満々のあの人の顔を思い出しながら、私は考える。人間は欲しいものを全て手に入れたら、どうなってしまうのだろう。
私は何気なく彼に尋ねる。
「今、一番欲しいものって何?」
彼は不機嫌な声で答える。
「この牢屋の鍵が欲しい。」
私と彼は今、冷たい牢屋に入れられていた。死体の降る街で死体を葬る私と、死体の降る街に生きたまま降ってきた彼。私達は今、彼が元居た世界へ帰るための手掛かりを探して、日々を過ごしている。彼は空から降ってきた。ならば、空の上には一体何があるんだろう。街の人々に空の上のことを尋ね回って、私達は一つの手掛かりを得た。隣街に住む大富豪の男が、ついに自由に空を飛ぶ方法を手に入れた、と。
その大富豪に何とか一目会って、空を飛ぶ方法、もしくは空の上を見て来てもらえないものかと私たちは考えた。他に良い方法も思い浮かばなかった。とりあえずその大富豪の屋敷を訪ねたが、厳重に警備されており、私たちは門前払いされた。仕方がないので、街の人に空を飛ぶ男の話を尋ねた。
「あの大富豪が空を飛べるかは分からないが、あいつが空を飛びたいと思ったならば飛ぶのだろう。あいつはきっと翼を手に入れる。何故なら、あいつは欲しいものを全て手にいれる男だからだ。」
街の人が苦い顔で呟く。
「その男にかかれば、俺も手に入れられてしまうのか?」
彼は苦い顔をして呟く。
「その男は別に君を欲しくないと思うよ。君よりむしろ私を欲しがると思う。」
私は苦い顔をして呟く。
私達は、大富豪の家に泥棒に入ろうとしている男を見付けた。その男が1年4ヶ月かけて掘った隠し通路(街の井戸から大富豪の家の地下倉庫に繋がっていた!)を通って、大富豪の屋敷内へ侵入した。
「あの泥棒が1年4ヶ月も掛けて掘ったのに、1時間弱で大富豪の家まで辿り着いちゃったね。」
「どれだけ時間をかけて作ったものでも、消費されるのは一瞬だからな。」
「それっぽいことを言うね。」
「それっぽいことを言うだろ。」
「気取った喋り方だね。かっこつけてるね。」
「格好付けてはいないさ。」
「どや感が半端無いね。空の上の人は皆そんな感じ?」
「どや感って言葉は初めて聞いた。君の世界の言葉か?」
「私も初めて聞いた。今初めて言ったから。」
大富豪の家の地下倉庫から侵入した私達は、うっかり地下倉庫へ荷物を取りに来た使用人の衣服を奪い、うっかり大富豪の部屋の前までやってきた。途中、部屋という部屋のタンスと棚を空けて周り、樽という樽、壷という壷を破壊して周った。
コンコン、とノックして部屋へ侵入する。大富豪は絵に描いたような大富豪だった。ゆったりとしたソファに、ゆったりと座っていた。恰幅のよい体に赤いガウンを羽織り、右手にワイングラスを持ち、左手でペルシャ猫を撫でていた。
大富豪が大富豪声で尋ねる。
「今晩の食事には少し早くないか。」
私は使用人声で答える。
「私達は食事をお持ちしたのではありません。」
大富豪が大富豪声で尋ねる。
「じゃあ何の用だ。」
私は大貧民声で答える。
「空を飛び方を、伺いに参りました。」
彼が彼の声で尋ねる。
「声色を変える意味はあるのか?」
「お前達、怪しい奴らだな。」
「いや、俺達は怪しい者じゃない。」
「その台詞を生で聞ける機会があったとは!」
「君はマイペースだな。」
「お前達、俺様を無視して話を進めるな。」
「その台詞を生で聞ける機会があったとは!」
「すまない、彼女はマイペースなんだ。とにかく、動かないでくれ。」
彼が剣を抜き、切っ先を大富豪の喉元に突き付ける。だが、大富豪は動じない。ゆっくりと口を開く。
「随分物騒な物を持っているじゃないか。俺様に一体何の用だ。」
「空の飛び方を聞きに来た。それだけだ。」
「その剣は何処に隠していたの?」
「背中だ。」
「背中か。」
「俺様から空の飛び方を聞いてどうするんだ。」
「空の上に帰る。」
「空の上?もしかしてお前が、最近噂の"死体の降る街に降ってきた男"なのか?」
「そうだ。」
「正解です。10ポイント。」
「それならばお前が、"死体の降る街で死体を片付けている女"か。」
「不正解です。-100ポイント。」
「早く空の飛び方を教えてくれないと、俺はお前の命を奪うことになる。」
彼の言葉を受けて、大富豪は高笑いした。
「命なんかいらないさ。」
笑顔が消えて、急に真剣な表情になり、
「何故ならば、俺様は、」
もったいぶって一拍置き、にやりと笑いながら、
「欲しいものは全て手に入れたからな!」
と、彼は言った。
急に足元が無くなり、気付いたら私達は穴の底にいた。落とし穴だった。まさかそこまで大富豪だったとは、と私は感心した。大富豪丸出し、大富豪むき出しだ。背中をしたたかに打ってしまい、痛みが体中を突き抜ける。
「天井が落ちてくるとかじゃなくて良かったね。」
「そうだな。」
彼も痛みに顔を歪めている。
「それにしてもあの男、どや感が凄かったな。」
「そうだね。」
そして私達は牢屋に入れられた。睡眠用の茣蓙が敷いてあるだけの、殺風景な牢屋だった。右隣の牢屋には彼が居る。私は彼に尋ねる。
「さっき、あの大富豪に対して、命を奪うって言ってたね。」
右隣から声がする。
「ああ。でも本当に命を奪うことなんてしないさ。脅しのつもりで言った。」
私はぼんやりと考える。この世界のどこで何が起きているのかを、全て正確に知る術はない。私が知っているのは、街外れでは夜の闇に紛れて死体が降ってくるということだけだ。私は、ぽつりぽつりと呟く。
「そっか。でも、その、嘘だとしても、私は、君に、命を、奪うとか、言って欲しく、ない。」
私は彼の言葉を待った。
「すまなかった。」と、彼は言った。
それから、静寂が辺りを支配した。
私は何気なく彼に尋ねる。
「今、一番欲しいものって何?」
彼は不機嫌な声で答える。
「この牢屋の鍵が欲しい。」
右隣の牢屋で、不機嫌な顔をしているであろう彼の顔を想像していたら、逆隣の牢屋から、笑い声が聞こえた。
「新入りさんですか。奇遇だな。私もこの牢屋の鍵が欲しいんですよ。」
とても美しい声だった。英国紳士のような雰囲気を漂わせ、英国紳士のような言葉遣いだった。隣の牢屋なので姿は見えないが、おそらく、身なりはタキシードなはずだ。
「こんばんは、紳士さん。新人で右も左も分かりませんが、これからよろしくお願いいたします。」
「こちらこそよろしく頼むよ。」
「紳士さんが、今一番欲しいものはなんですか?」
「牢屋に入れられているっていうのに、君はマイペースだね。そうだな、私が今一番欲しいのは自由だね。」
「自由ですか。私は、自由は欲しくありません。」
「何故だい?」
「何故ならば、私は既に自由を手に入れているからです。」
睡眠用の茣蓙をめくると、人が一人通れるくらいの穴が出てきた。この屋敷に泥棒に入ろうとしていた男は、侵入と退却用に複数の穴を掘って、地下で繋げていた。さすが、1年4ヶ月も掛けた作品。数回消費しても飽きないつくりになっている。
私はその穴から牢屋を脱出し、再び地下倉庫への道を歩いた。私は再度地下倉庫から大富豪の屋敷に侵入し、牢屋のある部屋まですんなりやってきた。牢屋の見張りをしていた男を魔法の力で眠らせ、懐に忍ばせていた鍵を手に入れた。早速彼の牢屋の前まで走り、鍵を開ける。そして、鍵を彼に手渡す。
「はい、あなたが今一番欲しがっていた牢屋の鍵だよ。」
「もういらなくなった。今これを必要としているのは向こうの紳士だ。」
キリストは言った。「汝、隣人を愛せよ。」逆隣の紳士を助けてあげるため、隣の牢屋を見てみようとしたが、隣に牢屋は無かった。何も無いスペースに、鳥かごがぽつんと置いてあった。他の牢屋も確認してみたが、どこにも誰も居ない。
「まさか、パラレルワールドに来てしまったのかな?君が空から降ってきたように、私も地下通路から別世界に迷い込んでしまったみたい。」
「俺はずっと牢屋の中に居たから、別世界では無いと思う。」
「別世界から来たような人なのに、そこは否定するんだ。」
「もしかして幽霊だったのかもな。」
「幽霊は牢屋の鍵を欲しがらないと思う。」
「君は屁理屈屋だな。」
そのとき、鳥かごから声が聞こえた。
「私はここにいる。」
鳥かごの中に居たのは、緑色の美しい鳥だった。鳥かごの鍵を外して扉を開くと、緑色の美しい鳥は自由に空を飛びまわった。そして、彼の肩の上に舞い降りた。緑色の美しい鳥は、流暢な人間の言葉で喋った。
「自由にしてくれてありがとう。君達にはどれだけ感謝しても足りないくらいだ。」
良い声だった。
彼は言った。
「気持ち悪いな、お前。」
私も同感だった。鳥が喋ると気持ち悪い。