07 白砂の古城(4)
砂の壁は風に巻かれるように回転を始め、砂塵を撒き散らしながら渦巻いていく。
砂が頬を掠めた。皮膚が裂けて薄く血が滲む。マナを纏っていなければすでに全身がズタズタになっていてもおかしくない砂塵の刃。
何も見えない。細かい砂が目に入って涙が止まらない。聞こえるのは砂が激しく擦れ合う轟音だけ。
足元から感じる揺れは徐々に大きくなって、すぐそこまでシャチの気配が迫りつつあるのを肌が鋭敏に感じた。
猶予はなかった。
「……」
思い浮かんだのはクラウスのことだ。
シャチとの戦闘が始まったあのとき、確か魔法を準備していた。それを思い出した。
今に至るまで魔法の発動はなかったはずだ。機会を伺っているのだとしても、シャチを視認できない今の状況では手出しできずにいる可能性が高い。
(クラウスの魔法なら何とかなる……はず)
現状を打開するには、むしろそれしかないような気がする。
そのためには、今置かれている状況を渦の外にいるクラウスに伝えなけきゃならないけど。
(どうやって?)
渦から抜け出るためにはクラウスの力が必要だ。でも、クラウスと協力するためには、この渦を取り除かなきゃいけない。
矛盾してる。そもそも、渦を容易に取り除けるなら、クラウスに頼る必要だってないんだ。
じゃあ、どうしたらいい?
妙案なんて、そうは思いつかない。こんな状況じゃなおのことだ。
そもそも、クラウスに頼り切りでいいのか……だってもし、あのとき用意していたスキルが〈ホーリーシールド〉以外だったらどうなるだろう?
状況的にこっちを援護するためのスキルを使ってくれるはずだ。けど、多分とか、確かとか、思うとか、そんな曖昧な考えに身を任せていいものだろうか。
いっそ頼るのはやめて、真っ向から受け止めるのは?
できるかもしれない。けど、そこから何か仕掛けられたら対処できるだろうか。
カウンターを決める……砂の中からいつ出てくるかもわからない相手に?
無理とは言わないけど……。
他に何かできることがあるとしたら。例えば。
(この渦を斬る……とか)
「……っ!」
手の中の棒が軋んだ。
思いついたこと自体、普段ならありえないことだ。
できるともできないとも言い切れない。いや、できるかもしれないと思える自分が何より意外に思える、
でも、どうしてだろう。思いついたら不思議と挑戦してみたい気がする。
(浮かれてるだけなのかな)
挑戦? 何を言ってるんだろう。
マナだなんて超常なものに触れて、妥当な判断ができてないだけだ。
でも、“妥当”って何だろう? 考えつくこと全部、確実に成功するとも言いきれないのに、何を“妥当”と言えるんだろう?
砂の渦は数秒のうちに、両腕が伸ばし切れないくらいの距離まで狭まっている。これ以上距離が近くなるようならようなら、棒を振り回すのも難しくなる。
唾を飲んで、棒を硬く握りしめた、
シャチは確実にここで仕留める気でいる。そんな敵を相手に待ちの姿勢で後手に回って、それで本当にいいのか。
それとも、こんなふうに考えるのも浮かれてるから?
いや、
(これ以上、長々考えてられない)
できるできないじゃなくて、自分がしたいことは何だろう。そう思えば自然に見えてくる。
嫌な緊張が胃の腑を揺らす。
それを振り切って意識を向けると、体内のマナが呼応するように脈打った。待ち望んでいたかのように、手繰る手に抗うことなく滑らかに動いてくれた。
全体のおおよそ半分を引き出し、大気の中に霧散しそうになるそれらを瞬時に身体の周囲に押し留める。統制し切れないマナが過剰に発光して、身体と、そして、手に持った棒までもが伝播するように淡く光を帯びた。
これでいい。
もう後には引けない、ふとそんなことを思って苦笑した。
そもそも渦を斬ることを考えついた時点で、気持ちは決まってたはずだ。自分の気持ちに嘘はつけない。
棒を引きつけ、身体の横に構えつつ重心を落とす。
チャンスは一回きり、渦の一部を斬ったところでまた再生されたら終わりだ。
だから、周囲を取り囲むこの渦のすべて、
「払う!」
地を蹴り跳躍する。
身体を回転させつつ、構えた棒をそのまま横一閃に振り切ろうとした瞬間、凄まじい荷重がのしかかった。
腕ごと押し返されそうになる。マナと、それを纏う棒が先端から削り取られていくのが見える。
引けない。引けば死ぬ。砂に削られるか、シャチに噛み砕かれるか……いや、違う。
(雑念は捨てるんだ……!)
轟々と風が鳴る。暴れ狂う砂塵のなか、幸臣もまた負けじと声を張り上げた。
風の圧に腕がちぎれそうだ。でも、歯を食いしばって、そのまま遮二無二押し切った。
(斬った!)
渦巻く砂の中に一本線を引いたような空白が生まれる。内側に見えた空に一瞬目を奪われ、次の瞬間、渦が外側へ膨れ上がったことに幸臣は気づいて身構えた。
大気が揺らぐ。そして、弾けた。
「はぁ……は、はは」
眼下に砂漠が広がっている。渦に巻かれて、気づかないうちに浮かび上がっていたらしい。
渦が掻き消されていく。中空に砂を散らしながら揺らぐ姿にさっきまでの力強さは感じられない。
「タカオミ!」
声の方向へ首を回すと、見下ろした先でクラウスが目を丸くしてこちらを見つめていた。
まさか、ここまでできるとは思わなかったんだろう。気を揉ませてしまっただろうか……でも、もう少しだけ心配をかけることになる。
まだ終わったわけじゃない。気を抜いてもいない。
クラウスの表情が驚愕から切羽詰まったものに変わっていく。大声で何事かを伝えようとする彼に頷きかけ、下方に視線を向ければ、そこにはちょうど砂を押し除けるように跳び上がったシャチの姿があった。
アレにとって幸臣が渦から抜け出ることが想定の内か外かはわからない。けれど、少なくとも戸惑う様子は見せず、空中だというのにまるで突進するかのような速度で迫ってくる。
棒を上方に振り上げ、幸臣はシャチを睨みつけた。
大丈夫、対応できる。
あれほどの渦を斬ったんだ。当てさえすれば必ず。
そこまではよかった。
「……え」
ふっと、身体に纏っていたマナが霞のように消え去った。
「な……え?」
想定外の事態に思考が鈍る。もう一度マナを纏うことなど到底できるわけもなく、呆然と動きを止めた。
何で……いや、そうか。
渦を斬るために統制できる限界を超えて力を使ったことが原因だ。気づかないうちにどこかに綻びが生まれて、それで、維持できなくなったってことだろう。
きっと間抜けな顔を晒していたはずだ。シャチの瞳が幸臣を見て嘲笑するように弧を描いた。
こちらの動揺を悟っているのだ。いっそ無防備なくらいに口を大きく開けた。この状況ではただ死を受け入れる以外にできることはないだろうと高を括って。
けれど、それは幸臣がひとりきりだったらの話だ。
「──ッ!!?」
突如出現した光の壁が、幸臣とシャチとを隔てた。
結界に手をつき体勢を整えた幸臣に対して、反応できなかったシャチは頭から壁に激突し、その巨体がふらりと揺れた。
相当な衝撃だったに違いない。
失神しているのだろうか、ぴくぴくと身体を震わせている。巨体が重力に引かれて落下を始め、そのまま砂の上に落ちるかと思いきや、そうはならなかった。
クラウスが空中に指を走らせた。
指の動きに合わせて光が宙に軌跡を描き出し、やがてシャチの全身を囲うと、軌跡を幾重もの光が結んで結界を作りあげた。
結界ごしの近い距離にシャチの顔がある。
まだ覚醒しきっておらず、焦点の合わない瞳をぼんやりと幸臣に向け、見上げる視線の中には敵意も害意もない。ただ自分の現状に疑問を抱くように、緩慢に瞬いている。
これも今のうちだけだろう。すぐに正気を取り戻して暴れまわるはずだ。
でも、ひとまずは命拾いした。クラウスのおかげだ。
鼓動が落ち着くまで待ち、もう一度マナを纏う。綻びのないよう丁寧に、今度は統制できる程度に抑えて。
結界を蹴りクラウスの傍に降り立ってようやく、幸臣は息を吐いた。
「ありがとう、本当に助かりました……」
クラウスが手を振って返す。幸臣に笑みを向け、そして、すぐさまその視線を上方へ向けた。つられて幸臣もそちらを見ると、結界の中のシャチが目覚めて暴れているのが目に映った。
巨体がぶつかるたび結界に波紋が生じている。波紋から光の粒子が舞い、次第に結界の輝きが失せていくのが目に見えてわかった。
「早すぎる」
もう少し余裕があるかと思っていたけど……マナの残量も心許ないし、ここからどうするべきだろう。
退くべきかどうか。
でも、目をつけられて今後ずっと執着される可能性を思えば、今いる場所が拠点のそばだってことがどうしても問題になってくるし。
「タカオミ」
クラウスが自分の胸に手を当てて軽く叩いた。幸臣の迷いを見透かして、不安を取り去ろうとするかのように、陽光を受けた瞳が琥珀色の光を帯びている。
(易しくない、ホントにさ)
裏表がないというか、遠慮がないというか。
クラウスが幸臣の持つ棒に手を触れ短く謳った。
赤いオーラがたちのぼり、炎のように揺らめいた。軽く振ると、空中を漂う塵が触れて細かな火花が散る。
「何か考えが?」
クラウスが指をさした。最初に棒、その次に自分の目、そしてその次に、
「シャチ? シャチの目を貫く?」
幸臣がそう問いかけると、こめかみを指で叩いてクラウスが返した。
「え?」
ひょっとして……頭を使えよって?
確かにすぐ答えを求めるのは悪い癖かもしれない。けど、何もそんなふうに言わなくったって。
急を要するのにゆっくり考えてる暇だってないっていうのに。
思わずムッと見返すとクラウスは眉を上げて小首を傾げた。やがて、おかしなものを見たように笑い始めた。
「クラウス?」
首を振ってもう一度、今度は指ではなくて、掌全体で触れるように頭を軽く叩いてみせた。
誤解だったみたい?
というか、伝えようとしてるのってもしかして、
「脳……? 目から貫いてこれで焼き切れってことですか?」
なんて、えげつないことを考えるんだろう。自分がされたらと思うだけで身震いしてきた。
そんなことを思っているとクラウスが幸臣の胸を叩いた。笑っていた唇の端が引き締まり、真剣な眼差しが幸臣に向けられている。
冗談でもなんでもなく、妥当な手段に過ぎないのだと伝えてくる。
「……わかりました」
それに頷きを返し幸臣は顔を上げた。休憩はどうやら終わりらしい。
バキッ──と音を立てて結界の一部に亀裂が入る。隙間から血走った目が見えたかと思えば、激しく頭突きをする音が聞こえ始めた。
結界のひび割れる音。見る間に亀裂は広がり、それからあまり時間が経たないうちに衝撃に耐えかねた結界が一気に崩れた。
結界の破片に混じってシャチの巨体が落ちてくる。
砂に潜り込む瞬間をひたすら待ち望むように、緊張に強張った身体が震えている。
シャチの落下する姿を目で追いながら、幸臣は突進しやすいよう身体を前方へ倒してゆく。
そして、
「……!」
駆け出す一瞬前、瞬きの間だけ背中に手が触れた。背から伝わる熱が身体の隅々に行き渡り、疲労や細かな切り傷が消えていく。
そして、加速しつつある幸臣をさらに強く押し出した。
疲労もなく身体も軽い。景色が後ろへ流れていく。
狙うは目だ。
例えその奥までは届かなくても、無防備な今のうちに片目だけでも奪う……!
急速に近づく幸臣に遅れてシャチは反応した。驚愕と憤怒に目を剥き、自らと地面との間の距離を確認して牙が軋むほど歯噛みした。
けれど、どれほど悔しがったところでできることなんかないはずだ。
跳躍しつつ距離を詰める。
速度に乗せて突き出した棒が、シャチの瞳に吸い込まれるように進んでいく。
決まった、幸臣はそう確信した。
「──ッ!!」
そんな幸臣にシャチが吠えた。舐めるなと言われた気がした。
シャチの背から砂が噴き出す。幸臣が反応する暇もなく距離が開くと同時に、ぐんと巨体が反転してシャチは下に向けた尾ビレを砂漠に触れさせた。
そして、砂を掬い上げるように、そのまま左右に尾を振るった。
「ぶなっ!?」
尾ビレに飛ばされた砂が鋭利な槍に変わり、凄まじい速度で身体を掠めた。
体勢の崩れかけた幸臣を狙ってシャチが再び尾を振るう。
また、砂の槍だ。
風を切って飛んでくるそれをギリギリで避け、幸臣はなんとかシャチに近づこうと砂を蹴った。
攻撃というよりは牽制だろうと思った。
それが今は一番効く。砂の中に逃げ込まれてしまえば手出しができなくなってしまうからだ。
強引に近づく幸臣に応じて、シャチは尾で砂を叩き、更に後方へひきつつ巨体を空中で回転させた。
今度は腹を下に、そして頭を幸臣へ向けて悪辣に笑ってみせた。
(何か来る!)
警戒に身体を強張らせた瞬間、口が大きく開かれた。
噛みつき……!?
咄嗟に棒を身体の前に構えて備えるも、しかし、シャチの取った行動はまったく予想外なものだった。
「ぐッ!!」
振動、あるいは、音波。開かれた口から発せられた衝撃が幸臣に襲いかかった。
吹き飛ばされまいと全身に力を込める。けれど、身体をその場に留めるには足りず、ズリズリと後退していく。
吹き飛ばされる寸前にせめてもと苦し紛れに一撃を放つ。なにかを掠めた気がしたものの、攻撃が通ったかの確認はできなかった。
身体が大きく吹き飛ばされ、砂を巻き上げながら転がっていく。
「く、そっ!」
そんな中で一瞬、閉じた瞼の向こう側を白く閃光が染め上げた。同時に硬いもの同士がぶつかり合う音が聞こえ、その音は次第に激しくなり始めた。
何が起きてる……!? 状況がわからない!
地面に手足をつき勢いを殺しきったときには、かなりの距離を離されてしまっていた。
「シャチは……!?」
咄嗟に頭を上げる。と、幸臣の頭のすぐ上を凄まじい速度で何かが通り過ぎた。
着弾と同時に背後で砂が撒き散らされる。振り返って見れば、抉れた地面に鋭利な槍が刺さって、槍自体も衝撃に耐えられなかったのか瞬く間に崩れ落ちていった。
砂の槍、シャチのスキル……!
それを確認した瞬間、嫌な予感がわきあがった。素早く前に向き直り、そして、眼前の光景に声を上げて横に飛び退いた。
一瞬前まで幸臣が立っていた地面に四、五本の槍が同時に突き立った。地雷が爆発したかのような音と衝撃が空気を揺らし、激しく砂煙がたち込める。
煙を裂いて槍が飛んでくる。眉間を抉る軌道。槍を視認して避ける。
避けた先にも槍が飛んでくる。棒でそれを弾けば、影に隠れていたもう一本が咄嗟に首を傾けた幸臣のこめかみを掠めた。
「──ぐっ!?」
ここじゃだめだ、視界が効かなすぎる。
焦って砂煙から飛び出そうとした瞬間、機先を制するように槍が正確に心臓を穿つ位置へと飛んできた。
槍と胸の間に咄嗟に棒を滑り込ませるも、想像以上の威力に身体が浮き上がる。
致命的な隙だった。
砂の槍が数本迫っている。
緩慢に進む一瞬の中で、身動きの取れない幸臣にまっすぐと。
徹底的だ、あまりにも。これまでと比べ物にならないほど、徹底的で冷徹な殺意に晒されている。
まるで詰碁をさせられているようだ。
指し手としてじゃない、碁盤の上の石として。指し手に死活を問うだけのただの丸い石ころ……。
空中で、それも咄嗟にすべてを捌き切れるはずもない。すんでのところでなんとか二、三本を弾くだけが精一杯だった。
「……ぁ」
反動でさらに後退する身体、身体のを貫くような衝撃。
そして、空中に飛び散る赤い血──それが自分のものだと気づいた瞬間、肩と脚、そして脇腹に焼きごてを押し付けたような激痛が走った。
身体が砂の上に落ちる。肺の中の空気が無理に押し出される。ごろごろと転がる身体。
痛い。身の置き場がない。
気絶することも、他の何かで紛らわすこともできず、浅く呼吸を繰り返しながら幸臣はうつ伏せのまま目を見開いていた。
砂の粒が見えた。
汗か涙かはわからない。乾燥した砂にポタポタと落ちて濡れてできたシミは、けれど、数秒とたたずに乾いてしまう。
今までどれだけ幸運だったのだろう。
こんな場所にいたにも関わらず、死に頻することも、それどころか、今みたいに血を流すことすらほとんどなかった。
「はっ…はっ…ぐ、ぅう」
痛い。どうしようもなく痛い。
膜に隔てられたような感じで音も聞こえにくく、身動きもできずに痛みに耐えていると、すぐ近くで轟音が聞こえた気がした。
同時に光が砂の上に影を作りだした。クラウスの放つスキルの光、何度も見たことがある。気のせいなんかじゃないはずだ。
光と轟音は次第にそれぞれ激しくなっていく。
尋常じゃない何かが周囲で起きていることだけは確かで、痛みと同時に恐怖心から身体を強張らせていると、何かが背中に触れた。覚えのある、あたたかさだった。
「──」
光と轟音は止む気配がない。
なのに、たったそれだけのことで胸に安堵が広がる。
「……ラ…ゥス」
光が身体を伝う。傷を負ったところに妙なくすぐったさが感じられて、代わりに痛みが軽減されていく。じわじわと傷が治っていくのがわかった。
砂の槍は不思議と飛んでこない。けれど、硬いもの同士がぶつかり合う轟音は変わらず響いている。
傷がおおかた癒えたのを感じて身体を起こそうとすると、背中の手がそれを押し留めた。
まだ治りきっていないということだろう。
痛みも軽くなったおかげで周囲に注意を向けられるようになると、気になるものも色々と見えてきた。
身体の周りに散らばった砂か石かの破片。轟音のたびに同じようなものがパラパラと降ってくる。
視界の隅で何かが輝いた。
(光……?)
見えた気がしたのも束の間、それはあっという間に視界から消えてしまった。
直後、何かがぶつかり合う音。破片が幸臣の周囲に落ちてくる。
状況もわからず傷が癒えるまでの数十秒をじっと待っているのは、酷くもどかしかった。
「タカオミ」
クラウスの呼びかけに身体を起こす。急いで起きようとしたけど頭の位置が上がった瞬間、吐き気が込み上げてできなかった。
(こんなに血を流してたんだ……)
砂が血で濡れてる。身体も血まみれで、これがすべて自分の身体から流れ出たものだなんて。
眩暈を堪えながら顔を上げると、ようやく置かれていた状況の危うさが見え始めた。
「……凄い」
轟音と光の残滓、最初はそんなふうにしか感じられなかった。
幸臣が避けることすら苦労した攻撃の、更に倍以上の無数の槍がこちらへ向かってくる。普通なら風穴が開くところだ。
にも関わらず、そのすべてが例外なく幸臣とクラウスの前方数メートルの距離で砕け散っていく。
こんなことがあり得るのか。
目が慣れるにつれてわかってきたのは、残滓としか捉えられなかった光に形があること。礫というか板というか、それがいくつも宙を飛び回って、自分たちを守る盾になってくれている。
(完全に制御してるんだ……あれを全部)
光跡を描いて飛び回る光の礫は多分五つ以上ある。
それを全部、自分の意思で制御する?
(考えながらどうこうできる数でも速度でもないと思うんだけどな)
クラウスのスキルなのは明らか。
集中するクラウスは目を閉じて唸っている。それを見るに、少なくとも視覚に頼って状況を判断しているわけじゃなさそうだ。
マナによる身体強化の延長?
砂の槍がこれまで以上の数で迫ってくる。
マナの消費も無視できないはずなのに、粘り強く防ぎ続けるクラウスに焦ってるんだろうか?
いや、そもそも……どうしていきなりこんなにも攻撃が激化したのかな。
砂の槍ばかり繰り返すのも変だ。
確実に決めるなら砂に潜って攻撃を繰り返した方が、シャチからしたら効率的なはずなのに。
そこまで考えてようやく、吹き飛ばされてからここまで一度もシャチの姿を見ていないことに気づいた。危険な状況に置かれていたせいもあるだろうけど。
そうして“敵”の姿をまともに見て、その理由は明確にわかった。
「そう、か……そういうことか」
シャチは口から目にかけて酷い裂傷を負っていた。
今もまだドクドクと血が流れて、殺意に濁った片目がひたすら真っ直ぐ幸臣に注がれていた。
殺すためってことか。
(他でもない、僕を)
それ以外の何も目に入っていないんだ。効率とかそんなことはすでに考えにない。
むしろ砂に潜ることなんて、“逃げ”と同じと思っているかもしれない。
シャチの音波に吹き飛ばされる寸前、棒が何かを捉えた感触は確かにあった。それがきっと、あの裂傷を生んだ。
その結果、危機に見舞われて、でも今は、
(チャンスだ)
この上ないチャンスだ。
喉元まで胸全体を打ち付けるように拍動がひとつ鳴った。
怒りと憎悪で攻撃は激しく、素人目でも隙はほとんど見当たらない。それでも、思考の幅が狭まっているならやりようはあるはずだ。
「──クラウス」
呼びかけると、そっと目を開いたクラウスが長く息を吐き出した。
額に汗の球が浮かんでいる。当然だ、とんでもない負荷がかかっていてもおかしくないんだから。
この状態で更に〈ヒール〉を使ってくれたのか、自分を助けるために。
改めて、本当に感謝してもしきれないと思った。
いくらマナの量が多いといっても、ここまで使ってきたスキルの回数を思えば、流石のクラウスでも余裕はないはずだ。
でも、
「もう一回、もっと強くエンチャントをお願いします」
ごめんなさい……。
それでも今は、無理を強いてでもしてもらわなきゃいけない。どうしても。
どんなに傷を負っても、不思議と握ったまま離さずにいた棒を幸臣は見つめた。
傷を負わせるだけじゃ無力化できない以上、あの怪物を殺し切るには策を成功させる武器が必要だ。
内側から焼くための武器が。それも、抵抗されないうちに決め切るだけの火力がいる。
「──」
少し考え込んだあと、クラウスは頷いてくれた。幸臣が差し出した棒に手を添えて、詠唱を唱えた。
その瞬間、棒そのものが激しく炎をあげ始めた。
「いや……そうじゃない」
違う、これはそうじゃない。
付与した対象が触れたものを燃焼させるのが〈エンチャント・フレイム〉のはず。その性質を思えば、これはきっと、
「触れた空気が、燃えてる」
空に向かって高く立ち上る炎が帯のように周囲を揺らめく。
熱い。けど、焼かれる恐れは浮かんでこない。
これなら、いける。
むしろ、これを向けられる方が怖気付くんじゃないかと思ったけど、その心配はなかった。
シャチは変わらず気炎をあげている。こちらの様子を見て慎重になるどころか、更に激しく攻撃をし始めた。
向こうのマナが尽きるより、クラウスに限界がくる方が早いだろう。幸臣もマナの残量は心許ない。
確実に次の攻防が最後になる。
棒を正眼に構え、シャチの鼻っ面を睨みつける。
眩暈とふらつきが酷い。血を流しすぎたせいだ。身体が揺れないよう耐えながら息を吐き出した。
この戦闘の一番最初も確かこれだった。だからこそ、向こうも誘いに乗ってくれるかもしれない。
そんな意図もあって、あえてクラウスの光が守ってくる範囲ギリギリのところに立つ。その間もシャチは幸臣を注視していた。
誘いには乗ってくれたらしい。
攻撃を中断し、唸りを上げ始めたシャチを幸臣もまた見つめた。
手負いのはずなのに、自分が負けるとは微塵も思っていないのだろう。殺意と害意ばかりだった視線に闘志が乗せらている。
それに気付くと同時、幸臣は即座に仕掛けた。
瞬間、シャチが砂の槍を放った。頭と鳩尾を狙う位置、防いだらまたさっきの二の舞になるかもしれない。
選択肢は避けることのみ、でも、それを予想するように時間差で到達するよう、左右に二本さらに飛んできている。
(──なら)
体を倒し、地面スレスレのところで蹴り出す。槍の下を潜り抜けるように跳躍。両手で身体を起こしつつ、引きつけた足でまた地面を蹴った。
咄嗟に上手くできた。でも、放たれた攻撃に反応するだけじゃダメだ。いつか限界が来る。
クラウスと対峙していた時の苛烈な攻めも今はなりをひそめているけど、アレをやられたらなす術がない。どんな攻撃がくるか事前にわかってるくらいじゃなきゃ、数分どころか数秒と持たないだろう。
スキルを十全に使わせないための立ち回りも必要だ。
砂の槍は放つために尾ビレで砂を跳ね上げる必要がある。徐々に縮まる距離、これを完全に詰める必要がある。
数本程度なら問題なく対応できると思われてしまったらしい。十に及ぶ数の槍が同時に放たれ、点のはずの攻撃が面で襲いかかってくる。
避ける隙間はほとんどない。
でも、これもまたどうにか対処するだろうと、シャチは信じているように見える。
現に今のこれは全部様子見だ。本気を出せばクラウスと対峙していたくらいの数で押し切ることができるはずなのに、それをしようとしてこない。
見下されてるのとはまた違う。試されてる?
(アイツはどこまで行っても捕食者なんだ、わかってたことじゃないか)
そのおかげで命拾いしてるなら、これほど幸いなこともない。強者と弱者の関係性は、この状況下では覆らないんだから。
チャンスを待つだけだ。そして向こうも、こちらが何かを狙っていることは十全に理解している。
迫る槍に、もう一度身体を前傾させた。けれど、今度は避けるためではなく防御のために。
もともと運動なんか苦手じゃないってくらいで、得意でもないんだ。こんなのを避けられるほどアクロバティックな動きが自分にできるとは思わない。
棒を縦に構えて目前に迫った槍を真っ向から突く。槍の威力はそこに纏わせたマナを貫くには足らず容易に砕け散り、生まれた隙に身体を滑り込ませつつ幸臣は回転した身体を制動して地に足をつける。
踏み込み、そして前方を見据えた。
ここまで来ればもう圏内だ。幸臣にとってではなく、あの怪物にとって。
「──」
かろうじて捉えた残像。
跳躍──振り抜かれた長大な尾ビレを飛び越えつつ、横に回転するシャチの巨躯に手を添えて即座に棒を振り下ろす。
潰れた片目の方向だ。幸臣の姿が見えるはずはない。当たると確信した攻撃はされど、速度と威力が乗るより前に跳ね上げられた頭に弾かれた。
横から迫るヒレ。防御は間に合わない。
衝撃に備えて歯をくいしばる。身体が吹き飛ばされた先、即座に立ち上がるも眼前には牙をあけた口があった。
「ふっ!!」
何か来るのは予想していた。
棒を口に滑り込ませ両手で押し留めようとするも、さらに後方へ押し出される身体。
眼前の牙、棒が軋む。
チリチリと火花が散り、シャチの頭が燃焼を始めた。けれど、分厚い外皮は熱を通さず、構う様子もなく押し込んでくる。
幸臣はとっさにマナを引き出して足にまとうと身体を回転させ、力を横に逃す。
横を通り過ぎるシャチの顔。じっと視線が幸臣に注がれている。
風が全身を殴りつけた。
息つく暇もない。胸が震える。
また……来た!
シャチが選択したのは自分の身体による突進。単純な攻撃だからこそ、緊迫した今の状況では何より恐ろしく思えた。
前方から迫る。タイミングを合わせて振り──
「……え」
幸臣が棒を振った瞬間、ドンと地面が振動するほどの勢いで尾を叩きつけシャチは宙に浮いた。
(タイミング……ずらされた?)
そして、膂力を溜めるように一泊置き、身体を縦に回転させる。
予想もできず、反応もできず、今度は衝撃に備えることもできず。上から下へ、無防備に晒していた幸臣の隙を突いて。
四肢の末端に至るまでをも貫く、痛烈な衝撃。
声も出ない。
地面に叩きつけられた身体がバウンドする。
回転をそのまま、またシャチの顔が幸臣へ向いた。霞んだ視界の中で片目の獰猛な光だけ見える。
目が離せない。
対処のしようがなくても、真っ向からそんな攻撃を繰り出してくれたことに妙な感覚が胸に広がって。
明確に“敵”を見据える瞳の色。油断なく冷徹で、そして、相反する熱を孕んで。
けれど、油断はなくても驕りはある。そのことに気付けてすらいない真っ直ぐな瞳を前に、幸臣は知らず笑った。
「──ッ!??」
光の礫がシャチの頭と尾の二箇所を強く締め上げた。一転して、苦しげな息を漏らす。
棒を杖代わりに、ふらつきながらもなんとか立ち上がろうとすると、駆け寄ってきたクラウスが支えてくれた。頭痛が酷い。大量に失血した上にダメージを負いすぎた。
でも、おかげでこの状況に追い込めた。
腕に力が入らない。むりやり引き出したマナでそれを補い、向き直る。
シャチは拘束を剥がそうともがいている。今更どうなるものでもないだろうに。
そもそも、これは闘争だ。砂に潜って攻撃を繰り返していれば、少なくともこんな事態にはならなかった。
気持ちよく勝つために自分の強みを捨てるなんて。
「その余裕が、君を死なせるんだ」
苦々しげな顔でシャチは幸臣の持つ棒を見た。もがくのはやめて、受け入れ難い事実を呑み込むように。
恐れは一欠片も感じさせなかった。
むしろ、その強い視線に幸臣の方が気圧された。
(……こんな顔できないな)
犠牲にならなきゃいけない存在は必ずいて、情けなんてものもない。
命を奪って命を繋ぐ、きっとそんな世界で生きてきたから、自分の命すらこんなにすっぱり諦められるんだ。
「……」
憐れみじゃないとは言い切れない。でも、こんな気持ちを抱くこと自体、自分勝手な侮辱もいいとこだ。
胸の奥が凪いでいく。きっとこの砂漠に生きる彼らは、こんな気持ちで狩りをしているのだろう。
無用に心を揺れ動かさないように、でなきゃ生きていかれない。
(なんか、やだな)
染められていくみたいで──嫌だな。
−−個別通知−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
>>戦闘状況の分析を完了。
>>モンスター:デザートオルカ(Lv.21)の無力化を確認。
>>該当モンスターに対し、【テイム】を使用しますか? ・・・(3/3)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「ん?」
ピロンと、それは唐突に現れた。