酷く綺麗な世界
道は綺麗に舗装され、無数のビルが空へ伸びている。ビルの隙間が奏でる音は大きく、そしてとても寂しげだ。
「死ね、乞食が!」
街は人で溢れているのに、その言葉に耳を傾けるものはいない。
綺麗に整えられた世界は少なくとも、罵声を浴びせられ、磨り減った靴の底で何度も踏みつけられる惨めな少年のためにあるモノではなかったようだ。
少年はそこに居ただけ。たったそれだけの事が彼らには、気に入らなかったらしい。
「お前みたいな奴はな、生まれてくること自体が間違いなんだよ!」
言葉と共に降ってくる暴力は、いつの日か少年の心を傷つけることはなくなっていた。
「死ね、死ね、死ね、死ね!」
地面に横たわり、ボロ雑巾のように身を縮める術は、少年がこの世界で生活していくために欠かせない技術。
少年は既にこの状況を知っていた。というよりも、生きていくためには知らざるを得なかった。
あともう少し。ほんの少しでこの時間は終わるはず。
最後に大きな衝撃が「ズン」とお腹に響いて、少しだけ眠ればまた次の日がやってくる。次の日になれば何かが変わるということもないけれど、少なくとも今日は終わる。
「おら、とっとと死ねよゴミが!」
でもその日はいつもより少しだけ長かった、少しだけ痛かった。
途中で少しだけ息を漏らしたのが原因だろうか。心の中でほんの少しだけ誰かに助けを求めたのが原因だろうか。
いや、もうそんなことを考える必要もないらしい。
いつものように、視界が真っ白に染まり、端の方から徐々に黒く塗りつぶされていく。
変わらない日々。
少年が目を覚ますと、何も変わらない綺麗な街が目に映った。綺麗な道に綺麗なビル。
本当に何も変わらない。変わってくれない。世界は汚く惨めな少年のことなど気にも留めない。
少年はいつものように少しだけ場所を移して座った。堅いコンクリートの上で、脚を折り畳み、頭を地面に擦りつける。こうするだけで偶に情けを買える。そして情けは少年の生へと化ける。
コツン
何かが少年の後頭部に当たった。しかし少年の額が地面から離れることはない。施しをくれた人はもう少年のことを見ていないかもしれない。それでも少年は額をさらに地面に擦りつけることでしか与えられたものに対して返す方法がなかった。
幾何かの時が流れ、少年の近くに人が来る。
「見ろよこいつ。きったねぇな」
嘲笑を含んだ言葉を交え、二人は少年を話題に挙げた。また今日も始まったのだ。罵倒され、貶され、そして暴力を振るわれる。今日もまたいつもと何ら変わらない日常。それでも少年が何かをすることはない。
少年は生きていくための自分ルールを決めていたから。
ルール①:見ないこと
ルール②:喋らないこと
ルール③:抵抗しないこと
ルール④:考えないこと
これだけを守っていればきっと大丈夫。たとえ、鈍い音が響き、頭が割れるようでも。たとえ、身体のあちこちが悲鳴をあげ、濃淡色の痣が無数に浮かび上がってきても。少年は自分が決めたルールを守っていれば、きっと大丈夫だと信じていた。
今日を終えるには、あとどれくらいの時間が必要なのだろう。少年はいつもの状況の中で、ゆっくりと目を閉じると、いつもよりほんの少しだけ長く眠った。
目を覚ますと、今日もまた綺麗な街が目に飛び込んできた。でも今日はどこか違和感がある。綺麗に舗装された道。綺麗なビル。いつもと同じ綺麗な街のはずだ。決して変わることのない世界であり、決して変わってはくれないモノ。
でもやっぱり変だ。
違和感の正体は視界の端で見切れている一つの影。
「起きたかい」
すぐそこに居るだろう影から声が聞こえた。少し嗄れた年季の入った声。少年はその声が自分に向けられていることがわかると、すぐに顔を伏せた。
『ルール①:見ないこと』
どうして自分なんかに声をかけてきたのか、そんな疑問を考えることもしない。
『ルール④:考えないこと』
少年がこれまで生きてきた中で、考えるということが役に立つことはなかった。
「安心しなさい。私はただの案内人」
構わず老人は言葉を続けた。それでも少年のやるべきことは変わらない。ただ額を地面に当てるだけ。じっとしていれば、時間が全てを連れ去ってくれる。
「君がそこから動かない理由はわかっているつもりだ」
老人の言葉を無視することに努めているが、向けられた言葉はいやに耳に残る。しかし少年はそれに対して不思議に思うことも自分に許していない。
「だからこそ、君に言わなくてはいけないことがある」
ルールを守るのだ。今までルールを守ってきたからこそ生きていられたのだから。ルールだけが信じられるもの。ルールだけが少年を少年たらしめるもの。
そんな少年に老人は、一つの言葉を贈った。
「残念ながら、君は既に死んでいる」
老人の言葉は抵抗なく少年の心に溶け込んだ。別に不思議なことはない。いつかその瞬間が訪れるとは思っていたから。少年にとって『死』は最も身近にあったものだった。
死んだ。
それなのに少年の額は地面についていた。死んでもやることは変わらない。自分のルールを守り、時間が過ぎるのを待った。
「君は死んだんだ。もう生きている頃の真似事は止めなさい」
老人は酷く歪んだ正論を突き付けてきた。
でもその言葉は少年自体を否定することと同義だった。少年が少年であり続けるためのルールがなくなってしまえば、少年は一体何になればいいのだろうか。
あぁ、でも死んでいるのなら、もう関係ないのか。
額を地面から離し、老人の方を見る。少年は死んで初めて、自分ルールを破った。人の顔を見たのは久しぶりだった。少なくとも目の前にいる老人より以前に見た人の顔を思い出すことはできない。見慣れていないせいか、老人の輪郭がどこかぼやけて見える。
「さぁ、おいで」
差し出された手をじっと見つめる。どれだけの世界に触れてきたのか。老人の差し伸べられた掌には、無数の線が刻まれていた。
「人である君がこの世界を離れてしまう前に、少しだけ案内しよう」
両手で手を取ると、老人はグイッと力を込め立たせてくれた。そしてくるりと背中を向けると、どこかへ歩いていく。ピンと張られた後ろ姿を少しだけ見つめ、やがてその後ろを付いていくことにした。
何かを話すわけでもなく、老人はただ歩みを進め、少年は子ガモのように後ろを付いて行く。背中に隠れながらも辺りをキョロキョロと見回し、時折走っては老人の影へと戻っていた。
少年は死んでなお、この世界の美しさに圧倒されていた。なだらかで一切の摩擦すら排除してしまったような道。空から降り注ぐ光を反射させ、空間全体を輝かせる噴水。徹底された区画整理によって配置された建築物は、人工的な美しい世界を創り上げており、そこに歪みなんてものは感じられない。
今まで生きていた世界は、少年とは対照的な穢れのない世界だった。
「ゔっ」
散漫としていた少年は、いつの間にか止まっていた老人にぶつかる。
「見なさい」
そう言って老人が指示した方向を見てみる。
そこには完成された綺麗な世界には、到底相応しくない汚れがあった。この綺麗な世界を汚す、ただ一つのモノ。世界を綺麗に保つ反面、全ての汚れを凝縮したようなヘドロの塊。それは決まった形をとっておらず、内から湧き出るヘドロにより常にドロドロと形を変えている。視界に捉えることすら躊躇してしまうようなそれらは、壮麗なこの世界をどこまでも邪魔していた。
「アレが何かわかるかい?」
「……いえ」
少しだけ躊躇ったが、真っ直ぐ視線を合わせる老人に少年は二つ目のルールを破った。老人は口角を少し上げ、続ける。
「アレもこの世界に必要なモノなんだ」
老人はそれだけ言うとまた歩き始めた。綺麗な世界になくてはならない汚れ。少年にはヘドロの存在意義が分からなかった。
それから少しだけ歩くと、
「ここで待っていなさい」
老人は一人、大きなビルへと向かっていった。向かった先には、二匹のヘドロがいた。それらは老人に反応するようにモゾモゾと動き出し、何かを手渡されると一層活発に動き出す。それから幾らかのやりとりを終え、話を付けてきた老人が戻ってきた。
「おいで、中に入ろう」
少年を連れビルの中に入ろうとしたが、思いついたとばかりに唐突に言った。
「ああ、そうだ。これを持ちなさい」
少年の前に掲げられた手には、ネックレスが握られていた。少年は言われた通りにネックレスを受け取る。怪訝な表情でそれを見つめていると、老人は一人で先に行ってしまった。
どうしようか。少しだけその場で呆然としていたが、少年も遅れてビルの中に入ることにした。
ビルの中はいつか想像したことのある宝石箱のようだった。あちこちに黄金色の輝きを放つ装飾品が置かれていて、外の統制された美しさとは違う、華やかな美しさが詰め込まれていた。
しかしまたヘドロが居た。
テーブルに椅子、食器。物は美しい。だがそれを使っているモノはどこまでも汚れていた。少年が目に飛び込んでくる情報に呆気に取られていると、一匹のヘドロが近づいてくる。そして少年の耳の横に頭部らしきものを近づけた。
「何をしに来た? 汚らしいゴミが。この前の仕返しのつもりか? ここはゴミが来ていいところじゃないんだ。さっさと消えろグズが!」
聞き覚えのある声だった。きっと歯を噛みしめながら話しているのだろう。無理やり押さえつけられた怒りが話し方に滲み出ていた。
少年は咄嗟に額を地面につける。
何も変わらない少年のいつもの姿であったが、その場にはどうにもそぐわない。
煌びやかな空間の中で行われる惨めな土下座など本来見ようと思っても見られるものではない。耳に届く他のヘドロたちの笑い声。
既に十分笑い者になっているため溜飲が下がったのか、今日はどこにも衝撃が来ない。
その代わり、老人の声が聞こえてきた。
「アレを出しなさい。さっき渡したやつさ」
少年は老人から受け取ったネックレスを捧げるようにヘドロに渡そうとするも、ネックレスが少年の手から離れることはなかった。
ネックレスを見たとたんにヘドロが慌て始めたのだ。気泡がパチパチと弾け、動きが鈍くなる。
そしてヘドロから「申し訳ありません」「許してください」「そんなつもりでは」などの媚びへつらうような言葉が次々と出てきた。
一体何が起こっているのかわからなかった。変なネックレスを出しただけ。たったそれだけのことで情況が一変したのだ。
笑いものへ向けられた蔑みの言葉はいつの間にか、少年を土下座させたヘドロへと向かっていた。
堪えきれなくなったヘドロが半ば無理やりに少年を立たせる。ヘドロはみすぼらしく汚れた少年の服を綺麗に整え始めた。
そして何かに怯えながら身体を震わせ、老人のいるテーブルへと案内してくれた。
テーブルの上には、今まで見たことがないような大量の料理が置かれている。どう考えても二人では食べきることができない量だ。
「食べなさい」
豪勢な食事を前にしてなお、少年は動かなかった。それを見ていた老人が些細なことのように悪びれる様子もなく言った。
「まぁ薄々感じていたとは思うが、君が死んだというのは嘘だ。だから、食べなさい」
老人は笑顔で両手を開いて食事を勧めた。その言動に少年は呆気にとられるも「それならたった今君は生き返ったと思ってくれてもいい」という老人のてきとうな言葉を聞いて、銀のフォークを手に取った。これ以上視線で窺っても意味はないと理解した少年が料理に手を伸ばす。
しかし目標の定まらないフォークは料理の上を右往左往していた。行き場のない空中散策の後、一番近い料理へ手を伸ばした。
黙々と食べる少年。柔らかな笑みを浮かべる老人。
「どうだった?」
少年は少しだけ間を置き、
「美味しいです」
と答えた。
「そうか」
老人は少年の答えに満足げな笑みを浮かべる。
「好きなだけ食べるといい」
「いえ……もう」
「そうか? 周りはもっと食べているぞ?」
確かに少年の周りにいるヘドロ達は、ドロドロと一層激しくヘドロを流しながら料理を口に運んでいた。
ただヘドロはどこからどう見てもヘドロにしか見えない。どれくらい食べているかはわかりようがなかった。
「大丈夫です」
「そうかい?」
「あ、これ返します」
少年は老人にもらったネックレスを差し出した。改めてネックレスを見てみると、不思議な形をしている。奇抜な形の二つの物体が合体して出来ていた。
「それはもう君にあげたんだ。もう君のものさ」
「でも――」
「私にはもう必要のないものだ。暇なときにでもいじってみるといい。パズルみたいなものさ」
「パズル?」
少年はもう一度ネックレスに目を落とし、少し弄る。確かにそれぞれの部品が別々に動くことで、ネックレスはいろいろな形へと姿を変えそうだった。
「それにしても、君は気にならなかったのかい? アレが」
老人の指す『アレ』とは、二人の周りに当たり前のようにいるヘドロのこと。
「少しだけ、気になります」
「アレはね」
老人は漏れ出す嘲笑を隠すことなくヘドロについて言及する。
「人間さ」
ヘドロが人間。ドロドロと内から汚れを生み出し、それが尽きる様子もない。少年が知っている人間の姿とはかけ離れていた。
人間とは、今目の前にいる老人のような姿をしているはずなのだ。
「人間?」
疑心暗鬼な少年の問いを老人は笑いながら返す。
「そう、アレがこの世界の人間だ。私や君から見ればヘドロなんだが、彼らはお互いに人間に見えている。この綺麗な世界において唯一の汚れだ。私が美しい世界を創れば創るほどアレはこの世界を汚す。かと言って一定数は世界を維持するためのエネルギー源として必要。実に、邪魔な存在だよ」
さっきまでの笑顔が消えた表情からは彼がどれほど本気で言っているのかが分かった。少年がピクリと身体を緊張させたことで我に返った老人は、再び笑顔に戻る。
「定期的に処理はしているんだけどね。如何せん数だけは多いから処理も大変だ」
残念、とでも言うように老人は肩をすくめた。
処理? 人間の処理ってどういうことだろう。
次々と生まれる疑問に少年の頭は追いつかない。
「処理って、人間をですか?」
「そうだ。人間の処理だ」
確かな意思がこもった目に、少年は底知れない恐ろしさを覚える。
「でもそれって……」
「ただの掃除さ。綺麗な道にゴミが落ちていたら掃除をするだろう? それと何も変わらない。綺麗な世界に汚れが大量にあるから綺麗にしているだけさ」
当たり前のことだ、と言わんばかりの老人の輪郭がまたぼやけた気がした。
「非人道的と思うかい?」
少年はこくりと頷く。
「そうか……そうだな。でも私が無理やり決めていることではない。私は彼らから許可をもらっているんだ」
「殺す許可?」
「ああ、彼らの中から一定数処理する許可だ」
「殺されてもいいの?」
「自分が選ばれるのは嫌だろう。しかし自分でなければどうだっていいんだよ。選ばれる機会が増えても、自分は選ばれるわけがないってね」
自分が殺されても仕方ない許可を他人に与えているのに、自分が殺されないと思っている?
矛盾しているような老人の答えに、少年がポカンとするのも無理はなかった。
「理解できないかい? 明日はもっと色々な場所を巡る予定だ。明日の今頃にはきっとその疑問も晴れていると思うよ」
老人はヘドロを一匹呼び、話している。
見れば見るほどヘドロが人間とは思えない。ただの汚物である。
ここで一つ少年の頭に新たな疑問が浮かんだ。
『自分もヘドロに見えているのだろうか』
視線を下げ、自分の手を見る限りはヘドロには見えない。でも他人の目から見たら? 確認しておきたかった。
「あの」
「ん? どうした?」
「人間がヘドロってことは、今の自分もアレに見えていますか?」
疑問をそのままぶつけてみると、老人は今までの嘲笑とは違い、口を大きく開けて豪快に笑った。
「違う違う。安心して、君はアレではない。君から見て私はどうだい?」
「普通の人間?」
「そう。私から見ても君は普通だよ。ボサボサの髪に、ボロボロの服を着た見た目はみすぼらしい普通の少年さ」
自分の姿を見ればヘドロをどうこう言える見た目ではないのかもしれない。
「処理されますか?」
少年の一言を聞いた老人はまた快活に笑う。
「しないしない。君とアレを比べたら君に失礼だ。アレとは違う。もしヘドロになったら、君も処理するかもしれないがね」
食事の後、少年は老人に案内されるがまま最上階に来ていた。
最上階ぶち抜きの最高級の部屋である。
生きていた頃、地べたを這い回っていたのと比較すると、皮肉なことに一度死んだ後の方が随分と良い暮らしをしていた。下界を一望できる巨大な窓がある部屋は、以前の少年の活動範囲を完全に網羅している。
華美な部屋は少年が思わず呆けてしまう程のの威力がある。だがもっと驚いたのは、部屋に全ての雑事をこなすロボットがいたことだ。
「欲しいものや何かわからないことがあればこのロボットに話かけなさい」
頭部は丸く逆さまの円錐形のロボットは、よく見れば地面から数センチ浮いていた。ロボットは少年の方を向き一礼すると、老人を肯定するように話し出した。
「ナンナリトゴメイレイヲ」
「まずはゆっくりお風呂にでも入ってくるといい。そのあとはちょっとしたサプライズを用意しておこう」
「サプライズ?」
「誰もが虜になることさ」
よくわからないが、老人が一瞬見せた鋭い目は獲物を見据えた鷹のようだった。
「さぁさぁまずは身を清めてくるんだ」
ロボットが準備をしてくれた大きなお風呂には湯気が立ち込めていた。ボロボロの服を脱ぎ、風呂場へと踏み込む。いざ自分が広い風呂を使用するとなると、尻込みをしてしまう。少年は湯舟には入らず、端っこの方でひっそりと身体を洗うことにした。
今までは雨で身体を洗っていたので、温かいお湯は少し感動。だがここで一つ問題が生まれた。
「どれを使えばいいんだろう」
少年の前には、石鹸と思われる容器が複数並んでいる。シャンプーやリンスの他にも身体のメンテナンスのために使われるだろう石鹸も含まれていた。
「わかんない」
この場所にはこの場所のルールがあるかもしれない。少年はロボットに聞くことにした。
「あの、すみません」
「イカガサレマシタカ」
少年が質問してくるのを見越していたのか、お風呂の扉の前で待機していたロボット。
「お風呂ってどうやって入ったらいいのかわからなくて」
「デハ、センエツナガラワタクシガオテツダイサセテイタダキマス」
するとロボットが形を変え始める。先ほどまで見るからにロボットの造形をしていた物は、みるみる内に背もたれと肘付きの付いた椅子になった。
「オノリクダサイ」
少年が乗ると、ロボットは自動で風呂場へと入っていく。悩んでいたいくつかの石鹸を使い少年を洗うと、そのまま湯舟の中に入った。
景色を一望できる湯舟に椅子ごと入っている。夢見心地の少年は堪能した。
すっかり綺麗になった少年を迎えたのは、今まで着ていた服とは全く違う小綺麗な物である。ロボットに着させられている間大人しくしていたのは、着させられている服が絶対高級な物であるからだった。
肌に一切の不快感を与えず、するりと袖が通る。万が一がないように少年は身動き一つしない。
「ソレデハゴヨウノサイハ、イツデモオモウシツケクダサイ」
少年を寝室の前に案内し、それだけ言い残すとロボットは再度風呂場に戻っていった。
巨人でも入るのかと思ってしまうほど大きな扉。少年は見上げ、そして一歩足を進める。その瞬間、扉は滑らかに自動で開いていった。
中は「豪華」の一言で終えたくなるほど情報量が多く無駄にキラキラしていた。
少年何人分もの巨大なベッドにアンティーク調の家具一式。さらに角部屋の利点を最大限活かした窓では、二つの景色を楽しむことができる。無駄な豪華さをこれでもかと詰め込んだいらない宝石箱のような部屋。月明りさえもあちこちで反射するため少年が落ち着ける場所はベッドの中しかなかった。
少年が恐る恐る入ったベッドはふわふわの雲のよう。
いつか見た本では死んだら空にいくと書かれていたが、まさかこんなところだとは。
老人と出会い自分のルールを破っていった少年は自然体で考えを巡らせる。老人が死んだと嘘をついたことや、人間がヘドロの形をしていること。それらの答えは自分の中にはないのだろうが、どうしても考えずにはいられなかった。
しばらく考えごとをしていると扉が二回ほど叩かれた。
「失礼。む、もう寝ているのか?」
「どうされましたか」
「忘れたのか? サプライスを用意したといっただろう。さぁ入ってきなさい」
老人の呼びかけで部屋に入ってきたのは、昼に散々みたヘドロが二匹。似合わない。部屋全体が輝きを放つ中をヘドロは自信満々に歩く。
「オコルト様。この子ですか?」
「ああ、頼んだぞ」
「分かりました」
老人と二匹のヘドロが何やら怪しげなやり取りをしている。少年は完全に蚊帳の外。最後に老人が少年の方を向き、にやりと笑い部屋を出た。
「楽しむといい」
部屋に残されたのは、少年と二匹のヘドロ。ただでさえどうしたらいいのかわからないのに、ヘドロは二匹揃って少年の元へ近づいてくる。
「ぼく、名前はなんて言うの?」
「名前……」
そういえば自分の名前はなんだろう。
「自分の名前忘れちゃったのかしら」
冗談めかして一匹のヘドロが言う。
「はい」
思いがけない少年の答えにぶるりと身を震わせると、慌てて言葉を繋げた。
「まぁ、そんなときもあるわよね」
「そうそう、私も時々名前忘れるから……」
どうやら慰められているようだ。名前がないからと言って特に思うこともなかったが、名前がないことは悲しいことのようだ。
「そうだ、じゃあ今日はお姉さんたちが名前を付けちゃおうかしら」
「いい案ね」
「お姉さん?」
単にヘドロにしか見えないから言った言葉であったが、ヘドロにとっては受け取り方が違ったようだ。二匹は顔を見合わせる。
「私はピチピチの二十三歳だから、お姉さまのことよ」
「あら、失礼ね。私の美貌が見えないの? 私もまだまだお姉さんよ」
ヘドロにも美貌の概念はあるらしい。ヘドロ同士では見分け方でもあるのだろうか。少年にはわかりようもないこと。少年にかろうじてわかることは声がお姉さんっぽいということだけだった。
「君もそう見えるわよね?」
「はい」
考えるよりも早く口に出ていた。
「ならよろしい」
「お姉さま怖いですよ」
「そんなことないわよ。彼の……そうそう名前を決めないと」
「そうだった、そうだった」
「何かいい名前でもあるかしら」
「そうね『シオン』なんてどうかしら。この前読んだ本のかわいらしい主人公の名前よ」
「シオン? いいわね。私も賛成」
「君はどう?」
「シオン、シオン、シオン……」
もらった名前を反芻し、飲み込む。
「大丈夫です」
「良かった」
「じゃあ早速、シオンに天国を見せちゃうわよ。ねっ」
「そうね、お姉さま。実は私、これくらいの子が一番そそられるのよね」
二匹はドロドロと流れているヘドロの勢いを活発化させる。普通に会話をしていた時とは比べものにならないほど勢いを増したそれに恐怖すら感じる。じっとその光景を見る他なかったが、ベッドの上にヘドロ達が着ていたらしい服が一つまた一つと落ちてくる。
細やかな模様が編み込まれた下着まで見終え、視線をあげるとド迫力のヘドロの壁が立ちはだかっていた。完全にシオンの脚を飲み込んでいるそれから逃れる方法はもうない。
くすぐったいような気持ち悪いような変な感覚だ。一匹のヘドロの頭部が数センチまでに近づいた頃にはシオンはもう直視することができなかった。
ぎゅっと目を閉じ、ふわふわの雲にその身を預けた。
次の日の朝。シオンの部屋にやってきた老人の顔にはまだ昨夜のにやけ顔が張り付いていた。
そして開口一番
「昨夜は楽しめたかい?」
「楽しむ……何をですか?」
「なるほど」
シオンの返答を聞いて、老人は一人納得する。「これはまだ早かったか」とか「やっぱり無理だったか」だとか一人でぶつぶつと呟いている。
「これからのためにも知っておくべきなんだが、まだ早かったようだ。まぁ仕方ない。ヘドロが相手では誰でも気が失せるというものだ。おいで、朝食にしよう」
老人が何を言っているのかはわからなかったが、昨日の対応に正解があるとは思えない。 二匹の蠢くヘドロが自分に迫ってくる。脚は呑まれ動くこともままならない。誰でもそっと現実から目を離すことになるだろう。
シオンは無駄に広いベッドから降り、老人についていく。
二人が向かった部屋には何十人もの人間がいて初めて真価を発揮するようなテーブルが置いてあった。仮に端と端に座れば、老人のにやけ顔どころか顔そのものがぼやけて見えるだろう。
だがその心配はなかった。用意された席は老人の前。二人はテーブルを挟んで朝食を摂る。
「昨夜は余計なことをしてしまったらしい。申し訳ない」
「いえ、大丈夫です」
「その償いと言ってはなんだが、好きなだけ食べると良い。おかわりも自由だ」
シオンは並べられた十分すぎるほどの料理を前に、もっと欲しいなんて思うことはできない。
「ありがとうございます」
周りがヘドロしかいないからか、老人とは自然に会話をすることができるようになっていた。
ここで一つ、シオンは昨夜のことを思い出した。
「昨日、名前をもらいました」
「ほう、名前」
「はい、『シオン』と」
「良かったじゃないか。シオン、いい名前だ。ちなみに私の名前はオコルト、改めてよろしく」
「よろしくお願いします。オコルトさん」
固い握手を交わし、オコルトは言った。
「さて、早速だがシオン」
「はい」
「今日は私の職場に案内するよ」
死後の世界の案内人(嘘)オコルトの職場。地獄とかだろうか。朝食を終えた二人は、外に出る。
二人が今居る場所から市井に出るには、不思議な機械に乗る必要があった。昨夜上がってくるときにも利用したそれはオコルトが作ったエスカレーターというモノらしい。
乗ってボタンを押せば、なんの労力も使うことなく簡単且つ短時間で昇降できる。
「便利だろう?」
「はい」
でも便利な機械はそれだけではなかった。下に着くと今度は長い金属の塊がシオンを出迎えていた。
「シオンが住んでいた辺りでは規制されていたから、車を見るのは初めてだろう」
オコルトが扉を開け、シオンは乗り込む。 昨夜の部屋よりは小さいが、豪華さはそのまま凝縮されているような目に悪い室内がシオンを迎えてくれた。
沈みこむような感覚を味わえるソファに二人は座る。
「それじゃあ、行こうか」
オコルトがボタンを押すと、巨大な金属の塊はほとんど音も無く動き出した。その車はオコルトとシオンを乗せているのに、驚く程速く進んでいく。一度この速さに慣れてしまえば、いつもの愚鈍な歩みに戻る気はしないだろう。
窓の外では二人が乗っているモノによく似た車がヘドロを中に乗せて走っていた。視界に入っては消え、肺っては消えていく。まさに無数と言っていいほど、ありふれていた。
興味深く窓の外を見ていたシオンにオコルトが自慢する。
「これらも私が作ったんだ。凄いだろう?」
老齢でありながら、子供のように褒めてとシオンを見ていた。
「すごい。もう歩く気にはなれないかも」
「そうだろうそうだろう」
シオンの正直な感想に気をよくしたオコルトが続けて言う。
「世の中を便利にするモノを作るのが私の仕事なんだ。まぁその結果、良くないことも起きたのだが、まぁそれは後にしようか」
しばらく乗っていると、オコルトは突然車を止めた。道のど真ん中で止めたことで、後ろに続くヘドロ達が戸惑い、横を通り過ぎざまに怒鳴っていた。
「いいんですか?」
「あぁ、問題ない。それよりアレが何かわかるかい?」
オコルトが指さした先にあるのは大きな大きな噴水。大量の水を吐き出し、空に虹を描くそれをシオンは生前施しでもらった本で知っていた。
「噴水です」
「そう、噴水。アレはこの世界の湿度を管理するために街のいたるところに配置させたんだ」
「世界の湿度を管理?」
「そうだ。あっちの木々は見えるかい?」
「はい」
「アレはこの世界の空気を管理しているんだ。必要な空気を作ったり、汚れた空気を綺麗にしたり」
「アレもオコルトさんが作ったの?」
「そうだ。私はこの世界が綺麗であることを望んでいる。だからできることはなんでもしてきたんだが、随分と汚い世界になってしまったな」
オコルトは話を切り上げると、指示を出し再び車を走らせる。
オコルトがどこに向かっているのか、しばらく走るとなんとなく分かってきた。
ただでさえ高いビルが立ち並ぶこの街で、一際白く、一際高い建物がある。天を貫かんとするその建物は優に雲の高さを超えていた。
二人の乗る車はいくつかの関所を越えると、真っ直ぐ建物へと続く道を進んでいく。シオンは窓から顔を出し、迫りくる白い巨塔を見上げた。首が痛くなったことを機に、シオンは座り直す。
首を抑えるシオンを他所に、車はスピードを落とし、建物の中へと侵入していった。一階部分に該当するその空間は、二人の乗る車を数十台おいても埋め尽くすことはできない程広大だ。
内装は豪華とは対照的で何もない。自身の存在を主張する装飾品はなく、だだっ広い空間が広がっているだけ。 ゆっくりと中心まで進む。すると車を囲むように地面に光の線が入った。
やがてそこを境に内側の地面が隆起し始め、二人を車ごと上へと運んでいき、あっという間に目的の階に着いてしまった。
「さぁどうぞ」
先に降りて扉を開けてくれるオコルト。新鮮な体験だからだろうか、実に楽しそうにやっている。シオンは車から降りると、またオコルトの後ろを付いて歩いた。
方向感覚すら狂わせるほど辺りは白一色。オコルトが近づけば自動で開く扉を抜け、今度は無色透明のエレベーターで上階に上がった。
エレベーターが止まり、扉が開く。
「ようこそ私の仕事場へ。といっても仕事はほとんどしていないがね」
自虐をして一人で笑うオコルト。だがそれどころではない。ぐるりと巨大な窓で囲まれたその部屋において、視線は三百六十度どの方向へ向かっても遮られることがなかった。
おずおずと窓に近づくと、シオンは雲すらも見下ろしていた。なんだかちょっとふわっとする。
「ここは一体?」
「ふむ、どう言えばいいか……世界を管理している塔。と言っても世界の一部を管理している装置を管理しているだけなんだけどね」
オコルトは思案すると、
「実際に見た方が早いだろう」
オコルトが空でおもむろに手を振った。するとオコルトの周りに羅列された文字や図が現れ、それらを操作し始めた。開放感しか取り柄の無かった窓がその真価を発揮する。巨大なスクリーンへ変わったそこには、街やヘドロの様子を数百と映し出していった。
どれを見ても大差ない映像。特徴的なものがまるでない景色に思うことはただ一つだけ。
不自然に「綺麗……」
シオンが誰にともなく発した言葉は、近くにいたオコルトにははっきり届く。
「そう言ってもらえると私の今までが報われた気がするよ。かつては仲間もいたが、今では私しかこの世界を管理していないからね」
オコルトは再びいくつかの操作をする。今度は大きな画面で一つの景色が映る。
「見たまえ、これがかつて仲間だったモノだ。全員見事にヘドロだろう?」
呆れたように微笑する。
「ヘドロになったの?」
「そう、ヘドロになった。それも特別大きなヘドロだ」
「どうして?」
「それが人という生物だからだ。少し他のも見てみよう」
続いてオコルトが映したのは、ホテルの一室。ベッドの上で蠢いているヘドロは一見一匹のように見えるが、二匹のヘドロが重なっていた。
「これなんか分かりやすいな。ヘドロの流動が激しくなっていることがわかるかい?」
「はい、なんだか昨夜の二匹に似ています」
それを聞いたオコルトは頷きながら笑う。
「そうだね、きっと楽しいことをしているんだろう。こっちはどうかな?」
今度はかなりの大きさを誇る車が映った。映像は中の様子へと変わる。
「おっとこっちもか。こっちはいかにもヘドロって感じだな」
中では複数のヘドロが蠢いている。そこかしこに散らばった服、テーブルの上に用意されているシャンパンや食べ物。
「アレは何してるの?」
「欲望を開放しているんだ」
シオンが顔に疑問符を浮かべていると、オコルトは続ける。
「そうだな……シオンは何かをしたいと思ったことはあるかい?」
「何かしたい……ある」
「ほう、例えば?」
「生きている頃に、少しだけルールを破りたいと思ったときがある」
「その時は破ったのかい?」
「はい。一人の老人が何日もずっと僕に話しかけてくるから。だから話した。自分で決めたルールを話して、話すことはできないって言ったんだ」
「そうだね、それ以降は話していないのかい?」
「うん、ルールを破ってしまうと自分が壊れてしまう気がしたから」
「そうだね。アレは自分で決めたルールを破り続けた場合の君の姿だ」
「壊れているってこと?」
「自分を制御する装置が壊れているんだ。自分の望んだこと、したいことに素直に従う。彼らはそれを我慢することも我慢する必要もなくなった存在だ。君は一度ルールを破っても自分を壊さないよう止められた。だが彼らは無理だった。一度ルールを破ったから何度破っても同じことだと思ったのだろう」
冷笑を湛えていたオコルトは、目を細め言う。
「でも違ったのは次の欲望の大きさだ。一度目よりも二度目、二度目よりも三度目。彼らがルールで縛っていた欲望は前のルールでは縛ることができない程大きくなっていった。やがてドロドロと湧き出る欲望で彼らは埋もれてしまったんだ」
「それがヘドロ」
「そうだ。だからこそ私のかつての仲間は一際大きなヘドロになったんだ。彼らの欲望はそれはもう醜く巨大なものだった」
オコルトは憂いの宿った目でかつての仲間を見る。
「私たちは世界を管理していた。世界を管理するためには、世界の隅々まで知り、影響を及ぼす力をもっていなければならない。だがある時、私たちの一人がその力に酔いしれてしまった。誰にも縛られない、それどころか世界の管理者として尊大に振る舞うことも可能。最上級のヘドロになるには最適な環境だったんだ。一度自分のルールを破ってしまった彼を縛るルールなどあるわけもなかった」
「それでどうしたの?」
「私たちは世界の管理をしているんだ、やることは一つだけさ。彼も利用して世界を綺麗にすることにした。もう仲間ではない。ヘドロの一匹だからね。ある程度の特権を与えたまま、飼い殺しさ。でもね、その結果どうなったと思う?」
答えは自明。
「……一人になった?」
「正解。一人、また一人。かつての仲間は次々とヘドロに変わっていき、気づけば私一人になっていた。彼らは世界の管理をするよりも、ある程度の特権・地位の上で欲望を開放することを望んだのさ。彼らにはもう他の人間がヘドロに見えることはない。ヘドロのいない最も綺麗な世界に早抜けだ」
「オコルトもヘドロになったら? そうすればヘドロもいない綺麗な世界じゃないの?」
「かもしれない。だがヘドロがいることに蓋をして、表面だけ綺麗では私の理想とする綺麗な世界とは言えない」
そう言ったオコルトは、シオンにはまた少しぼやけて見えた。
「おっと、これを見せるのを忘れていた」
また別の映像が映し出される。
「昨日言っていただろう? ヘドロの処理方法だ」
以前オコルトはヘドロ達の力も必要と言っていたのだ。全てを綺麗にすることもできないのに、どうして処理する必要があるのか。たとえ処理をしたとしても、結局また綺麗な世界を汚されるはずだ。
「処理する理由は、単純に増えすぎたからだ。世界を管理するのに最適な人数を越えてしまっている。これ以上はいらない」
「必要なら少しでも多い方がいいんじゃないの?」
「そんなことはない。いらないものはいらないんだ」
映っている画面には、ヘドロが大量にいる。何を目的として集まっているのかは、彼らが並んでいる方向を見れば一目瞭然である。
彼らの先には、一つの電光掲示板があった。
『先着千名様限定:三万円配布します』
事前に情報を仕入れていたヘドロ達は、ざわざわと騒ぎ立てながら中を見ることもできない会場の前で列をなす。しばらく経つと会場の扉から、一機の人型ロボットが現れた。
「それではこれより配布を開始しますので、順番にお願いします」
昨日見たロボットより、はるかに流暢に話す人型ロボット。ヘドロ達はロボットの指示通りに中へ入っていく。数匹のヘドロが列をかき分け入っていくも、ロボットが止めることはない。
処理される様子を直接見たわけではない。それでもあの中で人間が処理されていると考えると恐ろしい。
「この間も言ったように、私が無理やり彼らを処理しているわけではないよ。全て彼らの同意を得て行っているんだ」
どうやら考えていたことが表情に出ていたらしい。オコルトは勝手に釈明を始めた。
「殺されることに同意しているの?」
「している。していない者もしている」
明らかに矛盾していることを至極当たり前のように言う。
「実はね、私はとっても偉い人なんだ」
「知っています」
少しの時間しか共にしていないが、オコルトが優遇されているのは明らかだった。
「偉い人である私は権力も金も名声も全てを手にできる特別な力を持っている」
「……自慢?」
「違う違う、偉い人の特権を簡単に教えてあげたんだ。それじゃあ、そんな『特別』を一体誰が与えてくれると思う?」
誰もが羨むような力を一体誰が与えてくれるのか。きっと神様か何かだろう。
でもオコルトの答えは違った。
「それはね、私以外の全員だ。私以外が私だけを特別と感じることで、私は『特別』を持つことができる」
「アンケートでもとるんですか?」
「アンケート、そうだね。私は三年に一度、この力を持ってもいいのか審査される。彼らがダメと言えばこの力はすぐに雲散霧消するだろう。しかし彼らが良いと言えば、また『特別』は私のもの。つまり私の持つ『特別』は、彼らの選択であると言える」
それでも今はオコルトが『特別』を持っている。しかもその力を彼らの処理に使っている。
「私はね、この力を三十年も継続して持っている。つまり彼らは私がこの力を持つに相応しいと思っているんだ。どれだけ非人道的なことをしても彼らはそれに同意しているも同じさ」
「でも近い内に気づくんじゃ」
「近い内じゃないさ、もう気づいている。それでも私を選ぶのさ。これは人間、いや彼らがヘドロであるが故に成立する」
「ヘドロしかいないから、ヘドロではないオコルトが選ばれるってこと?」
「いや、私がヘドロかどうかは関係ない。そもそも彼らにはヘドロが見えていない。これは彼ら自身の問題だ。人間というものは、さっきも見たように集団として生き、その意識を持っているはずなんだ。集団の一部であるという自覚。でもヘドロになるような彼らは違う。集団で生きているはずの彼らは今、『個』を主張している」
「集団の中で個人を意識している」
理解を進めるために声に出しただけだが、オコルトはそれに反応する。
「集団の中の個人ではないよ、それは別に悪いことではない。彼らが主張するのは『個』単体だ。私のもたらした便利な機械は彼らに誤解を与えてしまったんだ。ボタン一つで火をつけられたり、ボタン一つで水を出せたり。彼らは自分だけでなんでもできると錯覚し始めた。本当はどれも大変なはずなのに。だが簡単に手に入ってしまったことで、彼らは自分に力があるとでも感じたのだろう。その結果、人間という集団のはずが、彼らは己という『個』を主張し始める。自分が、自分が、と」
「でもそれならなおさら特別な力なんて渡さないはず」
「ふむ、そこが肝だな。さっきも言ったように、私は彼らに『特別』に対抗できる力を集団にあげたんだ。民意という皮を被せてね。彼らという集団に大きな力を渡すことはした。でもその力は分散する。彼ら一人一人にその力が渡る頃には実感することもできないくらい小さな力になっているのさ」
にやりと笑う。今のオコルトは自分の話がしたくてたまらない子供のようだ。
「個人を主張する彼らが実際に感じることができるのは小さな力。それとは別に、さっき言ったように彼らは自分でなんでもできる力があると思っている。だったら誰が小さな力に目を向ける?」
「なるほど……でも少しもいないってことは……」
「少しもいないね。私以外全てヘドロなんだから。他人を顧みず自分の欲望だけを思うままに叶えていく。汚い欲望を垂れ流す存在、それがこの世界の人間、私たちが見ているヘドロというものだ」
また少しオコルトがぼやけて見えた。
「私はここ何十年、便利な機械を創っていない。でも三年に一度こう言うんだ。『もうすぐ新たに便利なものが作れそう。これで皆さんの生活はもっと豊かになるでしょう』と。簡単だろう? これで『特別』はまた私の手の中だ。便利を実感するのは、自分。処理されるのは、他人のはず。恩恵は個人である自分に、損害は集団である他の誰かに。彼らは常に自分のことばかり、何も創らなくても私の言ったことなど忘れていく」
「それで、あなたはこれからも同じことを続けていくのですか?」
オコルトは、少しだけ沈黙し諦めた様子で答えた。
「いや、もう終わらせるよ。実はその準備はしていたんだ。人間を探していたのも、その準備の一環さ」
彼の言う「終わらせる」にはどういった意味が込められているんだろう。綺麗な世界を目指すこと? 『特別』でヘドロを処理すること?
いくつか疑問は浮かぶけど本人にぶつけるなんてことはしない。
「これを作るのに、三十数年掛かった」
オコルトがボタンを押すと、天井が開き大きな球体が降りてきた。不思議な機械に囲まれ浮遊しているそれは、真っ赤に燃え、眩い光を発していた。
「私が完成させた永久機関だ。その名の通り、これは永遠にエネルギーを作りだすことができる」
それはつまり――
「人間はもう必要ない」
オコルトは満足げに笑う。
「その通り。綺麗な世界を保つために必要だった汚れはもういらない。私が思い描く綺麗な世界は汚れが必要という矛盾に阻まれていた。だがこれを起動させれば理想は完成する。空気を管理する木や湿度を管理する噴水、ヘドロを処理するロボット、またそれらを管理するこの塔すらもこれで永遠に動くことができる。きっと素晴らしい世界になるだろうね。塵一つない綺麗な世界さ」
熱を帯びるオコルトの言葉。シオンにはもうその姿をはっきりと捉えることはかなわない。沸々と漏れ出すヘドロがオコルトを隠してしまうからだ。
「でもシオン、君とはここでお別れだ。君はもうこの世界に居てはいけない」
ヘドロの触手がシオンへ伸び、ドンと押した。オコルトの手から伝わる衝撃は、シオンの態勢を崩し、後ろに飛ばす。不思議なことに背後からの衝撃は来なかった。それどころかシオンを襲ってきたのは浮遊感。
小さくなっていくオコルトに視線を送るも、行き場のなくなったそれは宙を巡る。やがて綺麗な世界は瞼で遮断され、シオンは落下に身を任せた。
オコルトはあの機械を起動させたのだろうか。それとも、もう世界は汚れていないことに気付いたのだろうか。想像してみると、少し面白い。
きっとそこは酷く綺麗な世界なのだろう。