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猫になりたい

猫になりたい。

(今日こそ、俺は……)


 弓道部の部活中にも関わらず、頭の中で何度も反芻している思いが、集中力を阻害してしまう。


 弦を弾き、狙いを定める。

 本当に、このポジションで大丈夫なのか。

 しかし迷っている内、いよいよ腕の筋力が限界を迎える。そして中途半端に矢は的場に放たれ、当然のように矢は的を大きく外れた。


「どこ打ってんだよ。」


 横を見てみれば同級生の田中が、あきれた表情で俺のことを見つめていた。


「ちょっと考え事をしていたんだ。」


「考え事?」


「ああ……。」


 物憂げな表情をしていた俺を見た田中は、すぐに察した。

 

「さては、あの花屋アルバイトちゃんのこと、考えていたな?」


「な、なんで……。」


 見事に言い当てられた俺は動揺してしまう。

  普段田中は飄々としているが、妙にこういった勘だけは鋭いのだ。


「お前がボーっとしてるときは四六時中、あの子のことを考えていることはお見通しだ。わかりやすく呆けた面してるからな。そろそろ、関係に進展はあったのか?」


「進展なんて、無いさ。俺はただ、彼女と話せるだけで……。」


「相変わらずのヘタレだな。どうせ悩んだって結果は変わらねえ。」


「余計なお世話だ。」


 再び俺は弦を引く。


「一回、悩むのをやめて思い切ってみろよ。」


「……」


 いっそ、こいつが言うように吹っ切れることができたら良いと何度も思った。変わりたい、でも――


「そんな軽い話じゃないんだよ」


 そう言って俺は弓を放つ。


「あ」


「ほらな」


 矢は的を射ていた。


「今打つ時、なんも考えてなかっただろ?そういうものなんだよ。」


☆☆☆☆☆


 弓道部に所属する俺こと高校2年中山幸太郎は、元中学同級生である春先楓に恋をした。

 これといって好きになったきっかけは無い。ただ、席が隣になって、仲良くなって、成り行きでそのまま彼女のことを好きになった。


 しかし、俺達の高校は別々になってしまった。中学を卒業するまでに気持ちを伝えるつもりではあったのだが、それも叶わないまま。ズルズルとここまで彼女への思いを引きずってきた。


 彼女の両親は花屋の個人経営をしており、高校生になってからは、アルバイトとして手伝いをしているらしい。

 そこで俺は彼女に会うためだけに、彼女が働いている花屋を訪れ、花を一輪買うということを繰り返している。

 もっとも、花屋で彼女と会うとつたない会話はするものの、そこから一歩前に進むことができていない。


 ずっとこのまま変わらないんじゃ無いかと漠然とした不安を感じながら、それでもまた会いに行く。


☆☆☆☆☆


「そういや、聞いたことあるか?」


「なんだ?」


 弓道部が終わった後の下校中は毎度のことながら、田中お得意の豆知識披露が始まる。


「この街では、二つの尾をもつ猫が生まれるってな。いわゆる猫又ってやつだ。もし、猫又を見つけたら願いを叶えてくれるらしいぜ?」


「願い、か。でも、どうせ都市伝説だろ?」


「そうとも言い切れない。」


「どうして?」

 

「いないことの証明は不可能だからだ。」


「何を当たり前のことを……。」


「自分の目に見える範囲の物しか認め無い人生は、つまらないだろ?いつまでも、少年心を持って生きることが幸せの秘訣だと思わないか?」


「まあ、一理あるけど……。そういや、今日は先帰っといてくれ。」


「花屋に行くのか?」


「ああ、悪いな。」

 

「それは良いが、今日こそちゃんとお前の気持ちを伝えて来いよ。」


「……ああ。」


 俺は、春先楓のいる花屋に向かって歩き始める。


 悩むだけ無駄だと、田中には散々言われた。俺だって、そんなことぐらいわかっている。

 でも、俺は恐ろしいのだ。彼女に思いを伝えるのが、そして彼女ともう会えなくなってしまうかも知れないということが。


(田中の言う通り、ヘタレだよ俺は……。)


 言い訳して、何かと理由をつけては先延ばしにしてきた。そんな奥手すぎる自分が、嫌いだ。


☆☆☆☆☆

 

「今日もいらしたんですね。」


 そういって俺へ微笑みかけるのは、春先楓だ。


 黒髪ショートヘアーに端正に整った顔立ち、花屋さんらしいロングスカート。彼女はどこか儚げで触れたら消えてしまいそうな雰囲気を漂わせていた。俺はそんな所に惹かれたのかも知れない。


「うん。今日もカーネーションを一つお願い。」


「中山さんってとても、お母さん思いですよね。毎週のようにプレゼントするなんて。中山さんのお母さんは、とても幸せ者です。」


「そ、そうかな。」


 本当は田中に会いたいから、などという下心で来ている俺は罪悪感を感じた。

 

 しかし、その時彼女が少し表情に影を落としていた事に俺は気が付かなかった。


「ちょっと、待っていてくださいね。」


 すぐに切り替えた彼女は、店の奥へと花を取りに行く。


(いつも、彼女の前に立つと、ドギマギしちゃうんだよな。)


 俺は少し、緊張がほぐすために伸びをした。


 その時、足元を何かが触る。


 見下ろしてみれば、足元に黒猫がいた。

 店で飼っている黒猫のクロが、すりすりと体をこすりつけて来ていたのだ。


「いつも通り、お前は可愛いな。」


 俺は、クロを両手で抱き上げる。


 腕の中でクロは、ゴロゴロとリラックスした音を奏でた。


 そうして猫をあやしていると、春先は梱包で一輪のカーネーションが包まれているものを持って来る。


「あら?クロ、また田中さんに甘えているの?」


「この子、いつも俺のところに来てくれるよね。」


「ふふ、きっと田中さんのことが、好きなんですよ。ほら、クロおいで。」


 俺たちは、カーネーションと黒猫を交換する。


 春先の手に渡ると、クロはにゃーんと甘えた声で鳴いた。


「ほんとに、甘えん坊さんなんだから。」


 彼女はまるで母のように母性溢れた顔で、クロの頭をなでる。


 すると、見せつけるようにクロはこちらを向き、俺の目をじっと見てきた。


 俺は、ほんのりとした敗北感を味わう。俺も彼女の腕の中、あんな風に甘えられたらどれほど良いか。


(いっそのこと俺も、猫になりたいよ。)


 そんな俺の気持ちもお構いなしに、クロはしっぽをゆらゆらと振り回す。ゆらゆらゆらゆらと、二つの尻尾を。


(あれ?)


 見間違いだろうか?クロのしっぽが、どう見ても二つ付いているように見える。


(残像、なわけないよな……。さっきまで一本だったはずだけど、どういう原理だ……?)


「あ、ごめんなさい」


 俺がクロのしっぽに気を取られていると、春先は夢から覚めたように慌ててクロを床へ戻す。

 床を歩くクロのしっぽをもう一度見るが、何ら異常はなく一本しか生えていなかった。


(疲れているのか……?)


 春先は申し訳なさそうに頭を下げる。


「猫のことになると、周りが見えなくなってしまうんです……。」

「……」


 俺はクロのことが気になるあまり、彼女の返答を無視してしまう形になった。


「中山さん……?」


「あ、ごめん、ごめん。で、なんだっけ?」


「あの、どうかなさったんですか?」


「今からちょっと変なこと言うんだけどさ。クロのこと、可笑しいと思った事は無い?なんかいつもとどこか様子が違うなーとか。」


「と、言いますと?」


「例えば、その尻尾が二つに見えるとか……。」


「尻尾が二つ?いえ、そういった事は無いですけど……。ただ、最近クロの様子が可笑しいのは確かです。なんだか、元気が無くて……。」


「それは少し、心配だな……。」


「クロは人の年齢に換算すれと、かなりおじいさんってことになってしまいますからね。早く元気を取り戻してくれた良いんですけど。」


「きっと、大丈夫だよ。猫は案外タフだから……。っと、そういやお代を支払わないと。」


「あ、すいません。お待たせしちゃって。お代は400円ですけど、迷惑をかけたって事で、200円にまけちゃいます。」


 財布事情の厳しい俺には、ありがたい話だった。しかし、ここで素直にまけられてよいのだろうか?


「値引きなんて、大丈夫だよ。少しでもこの店に貢献したいんだ。」


 見栄を張り、我ながら歯が浮くようなセリフを吐いてしまった自分が恥ずかしい。でも、最後くらい彼女の前でも格好つけたかったのだ。


「そ、そんなに私たちのことを考えてくれているなんて……。こちらとしても中山さんお気持ちを無下にするわけにはいけませんね……。わかりました。400円のフルプライスでいただきます。」


 財布からカウンターに100円玉4枚置いた。


「ありがとうございます。」


「じゃあ、また。」

 

「また、来週お会いしましょうね。」


 俺は手を振り、帰路へ着いた。


 以後一週間、彼女の顔も見ることができないし、声も聴けなくなってしまう。

 彼女と一緒にいること。それが、当たり前になる人生が欲しい。

 だが、どれだけ心の中で好きだと叫ぼうが何も変わらない。

 今日も、結局伝えることができなかった。いつになったら、このループは終わりを迎えるのか。

 いっそ、彼女の猫にでもなって飼われてしまいたい。彼女と一緒にいられるのなら、俺は猫として生き、猫として死ねるだろう。非現実的で、根本的な問題から目をそらした夢物語でしかない話だが、そんな夢にすがるしかないほど、今の俺は――


☆☆☆☆☆

 

 俺はこれ以上一人で抱え込むことに限界を感じていた。不甲斐ない自分、もどかしくて憂鬱な毎日。このままだと、可笑しくなってしまいそうだ。


 そして、悩みに悩んだ末、俺はついに田中に洗いざらい本心を打ち明けることにした。


「と、言うわけなんだ。」


「なるほどな。」


 田中はしばらく考え込むような姿勢をしているかと思うと、口をむずむずさせ――


「っぷ、はっはっはっは。」


 予想外にも田中は、噴き出した。

 

「お前、猫になってまで、その子と居たいってマジかよ!真剣に聞いてはいたが、そこだけは耐えられなかったわ!もはや、そんなお前がいじらしいよ!」


「可笑しい、よな。やっぱり、情けないよな……。」


「ああ、お前が猫になりたいと思うのは、全部投げ出し逃げてしまいたいっていう弱さが原因だろう。でもなぁ、それだけ一人の女の子へ本気になれるお前を、俺は応援したいとも思った。」


「え?」


「悩んで、抱えて、苦しんで、それを人に打ち明けることは、かなり勇気のいることだと思うぜ?俺のこと信頼してくれて、ありがとうな。」


「田中……。」


☆☆☆☆☆

 

 俺は今日、彼女に思いを伝える。今日伝えられなかったら終わりだというぐらいの気概で挑むつもりだ。

 もちろん緊張は止まらない。体の筋肉が凝り固まり、血流が通っていないのが分かる。でも、田中から数時間の恋愛講習アドバイスを受け、自信もつけることができた。

 

 花屋の看板を眺めながら、大きく深呼吸する。

 

 (いける、今日ならきっと!)


 心を奮い立たせ、いざ花屋へ。


「こんにちは。」


 花屋のドアを開けると同時に挨拶、これからの一挙手一投足が、成否の境目を分けるのだ。


「いらっしゃいませー。今日もカーネーションを取り揃えていますよー」


 いつものように、春先は笑みを浮かべて待ってくれていた。腕の中にはクロも抱えている。


「今日は、クロと一緒なんだね。」


「ええ、ちょっと調子が悪いみたいで、こうして様子を見ているんです。」


「そう、なんだ……。」


 クロを見てみると、確かにげんなりしている。


 心配ではあるが、今はそれに気を取られてはいけないのだ。


「あの、今日はカーネーションを二つお願い。」


「二つ、ですか……?」


「うん、二つ。」


 俺は、指でピースを作る。


「わ、分かりました。ちなみにどうして、今日は二つなのか聞いてもよろしいですか?」


 俺は、はやる気持ちを抑え少し目を閉じる。

 

 長かった葛藤の全ては、この一言で終ってしまう。感慨深くもあり、嬉しくもあり、ほんの少しだけ寂しくもある。

 結果がどうあれ、もはや俺に引くという選択肢は残ってはいなかった。


「君に、あげるためだよ。」


「私、に……?」

 

 いつにも増して真剣な俺に、彼女は困惑気味の顔を作る。

 彼女の様子にたじろぐも、ここで引いてはいけない。一度でも弱みを見せてはいけないと、田中は言っていたからだ。


「受けとって、くれる……?」


 心臓が、まるで不整脈と勘違いしてしまいそうなぐらいに跳ねていた。両耳は赤に染め上がり、やけどしたように熱い。


「……はい。」


 しばらく間を置き、彼女は花を受け取ることに了承した。


「……今、良いって、そう言った?」


「はい、言いましたよ。」


 彼女は笑みを取り戻し、えくぼを浮かべながらそういった。


 信じられなかった。彼女の言った言葉が。これまでの心労吹き飛ばされてしまったようだ。喜びよりも先に出てきたのは驚嘆、未だ現実味を感じることが出来ていない。


「では、カーネーションとってきますね。申し訳ないですが、その間、クロのこと見ていてくれませんか?」


「う、うん。」


 俺は、クロを受け取った。


 彼女の去った後、ようやく喜びが心の底から遅れて湧き上がって来る。自分は、今夢を見ているのだろうか?こんなにも幸せで、こんなにも切ない気持ちで溢れていて、これは俺に許されて良い幸せなのだろうか?

 いや、卑屈になるのはよそう。これは、俺が行動したことで勝ち取った結果なのだ。確かに田中が決めたレールに乗っ取ってはいたが、何も後ろめたいことなんてない筈だ。


 そんな幸せに浸っている時、あることに気が付いた。


 クロが、俺の目を見てきている。じっと、哀愁漂うやさぐれた目だ。


 尻尾は一つだった。それを見て少し安心したものの、いつもとは明らかに様子が違う。


「しんどいのか……?」


「……」


 もちろん返答は無い。すると、突然ポロリとクロの目から、一粒の涙が零れた。


「え?」


 そして、今度は訴えかけるような目に変わる。


「何かを、伝えたい……?」


 俺がそう言うとクロはゆっくりと顔をしたに向ける。


「今、頷いたのか……?」


 そしてクロは、役目を終えたと言わんばかりに目を閉じた。


「く、クロ……?」


 名前を呼んでもピクリとすら動かない。


 俺は、クロの体を揺すった。

 しかし、反応は無い。


「ま、まさか……。」

 

 クロの口元に手をかざして呼吸を確かめるも、空気の流れを感じ取ることができなかった。


 焦った俺は、すぐに春先を呼ぶ。


「春先!クロが!」


 声を聞きつけた春先は、急いで駆けつけてきた。手元には、二束のカーネーションを携えている。


「クロが、どうかしたんですか!?」


「まったく、息をしていないんだ!」


 春先の手からカーネーションがばさりと、落ちた。


「う、嘘……。」


 俺は、春先にクロを手渡す。

 

 春先は、耳をクロの心臓のある胸へとあてた。


「動いて、無い……。」


 顔が青ざめ彼女の顔から生気が失われる。


「とにかく、早く動物病院に連れていかないと!」


 しかし、春先はクロを抱いたまま、そこを動かない。


「春先……?」


「いや……。」


 春先の両目が、キラリと光った。

 

「まだ離れたく無い!私、どうしたら良いの!?クロがいなきゃダメになっちゃうよ……。」


 春先はクロをギュッと抱きしめその場にへたり込む。

 そして、泣き始めてしまった。


「はる、さき……。」


 今、彼女になんと声をかけたら良いのか、何ができるのか。何も、分からない。頭が真っ白になって、ただ情けなく彼女が泣く様子を見るばかり。


 考えろと心の中でそう叫ぶが、何も思い浮かばず、空間にはすすり声が響き渡るだけだ。


 すると突然、どたばたと二階から駆け下りる音が聞こえてきた。


 何事かと思い、振り向くとオールバックでメガネの利発そうな男が鬼気迫る顔でそこに立っていた。


「どうした!何があった!?」


 春先楓の父、春先慶である。


「クロの呼吸が、止まっちゃったんです!」


 俺の言葉を聞いた慶さんは察した顔になった。


「すぐに車を出す!準備してくれ!」


 慶さんは、大慌てで店の隣にある駐車場へ向かう。


「春先、立てるか?」


 俺はしゃがみ、春先の視線を合わせながら肩に触れる。


 すると、春先はゆっくりと無言で立ち上がった。


「中山君、迷惑かけてごめんね。」


 少し落ち着きを取り戻したのか、何とか言葉を絞り出すことができてきた。


「迷惑だなんて、そんな……。」


「クロも、ごめんね。私が動揺している場合じゃないよね。」


 春先は、クロの頭をよしよしと撫でる。


 彼女の酷く痛ましげで、心が伝ってくるようだった。


 そして、俺たちはそのまま車へ乗り込み動物病院へと向かう。


☆☆☆☆☆


 動物病院の待合室の一角の椅子で、俺はふさぎ込んでいた。


 俺は彼女が苦しんでいる時、声をかけることすらできなかった。俺は、そこにいたのに。声をかけられなくても、彼女の肩を抱いて励ますことだってできたというのに。


 自分は、変わった。彼女へ思いを伝えることができて変わることができた筈だとそう思っていた。


 でも、いざ本当の大事に至って、俺は何も変わっていなかったのだと実感した。


 現在、春先楓は死んでしまったクロの側にいる。

 

 俺の隣には、変わりに慶さんが座っていた。

 

「中山君、いろいろと付き合わせてしまって、悪かったね。」


「こちらこそ、何もできずに全部任せてしまって申し訳ないです……。」


「いや、気にすることは無いさ。高校生なら、それが普通だよ。」


「春先、じゃなくて、か、楓はクロのこと、大好きだったんですね。」


 初めて名前を呼んだため、少し言葉に詰まる。


「そうだな。私が羨ましいぐらいに、クロのことを好いていた。それがより顕著になったのは、二年前からか。」


「二年前?」


「ああ、楓が高校に入学したての頃ぐらいだった。私の妻が亡くなったんだ。」


「……え?」


 俺は衝撃で空いた口が塞がらなくなる。


「高校へ入学仕立てってことは、俺が花屋に通い始める少し前からってことですか?」


「ああ、そうだ。今まで隠していてすまなかったな。春先は、君に変な気を遣わせたくなかったそうだ。」


「そんな、ことが……。でも、なんで今それを……?」

 

 今まで隠していたというのに、クロが死んだタイミングで打ち明けるのは少し不自然だ。


「中山君は、クロが死んだときの動揺ぶりに、少し困惑しているんじゃないかと思ってね。」


「い、いえ、楓は中学生の時からクロのこと大好きでしたし……。」


「君は、知らないかもしれない。妻が死んでから楓が家にいる時は、大抵クロの側にいた。」


「それまでは、違ったということですか?」


「もちろん、それまでもクロにべったりではあったが、今ほどでなかったんだ。楓は妻が死んだことで、クロへ依存するようになった。」


「依存……。」


 彼女はあの時、心の底から振り絞るような声で苦しみながら嗚咽していた。俺はペットも家族の内だと思っており、あの時はほとんど違和感を覚えなかった。だが、確かにあの悲しみ方を振り返ってみれば依存していたと取れなくもない。


「カエデが、私の妻を亡くしてからの悲しみようは、とても言葉では言いあらせないようなものだった。ひどく取り乱して、しばらく学校にすら通えなかったんだ。クロはそんな楓を見かねてか、必ず側について回るようになった。まるで、見守るように、励ますように。とても、優しくて賢い子だ。クロがいてくれたおかげもあってか、楓は何とか立ち直ることができた。しかし、私は一安心すると同時に心配だった。クロは既に年老いていたんだ。もしクロが死んで心の拠り所を失ってしまえば、またカエデはふさぎ込んでしまうのではないかと。やはり、その不安は現実になってしまった。」


 楓にはそんな過去があったのも知ら無いまま、呑気に彼女の元へ通っていた自分が憎らしくなる。

 自分ばかりが、内に抱え込んでいるものだと思っていた。しかし、そんな自分の悩みが軽く思えてしまうほど、彼女は重いものを抱えていたのだ。


「楓は、大丈夫なんですか……?」


「大丈夫にして見せるさ。本来ならばあの時だって、私が励ましてやらなければいけないものを、クロに肩代わりさせてしまった。」


「でも、慶さんだって同じように苦しんでいたから、仕方が無かったんじゃ無いでしょうか……。」


「それは言い訳でしかない。自分の気持ちより子供の事を優先するのが、親の役目だからな。今日は、話を聞いてくれてありがとう。少し、心が軽くなったよ。」


「あ、いえ……。」


「私は、中山君を応援しているよ。楓が元気になったら、また花屋に来てくれ。」

 

 そういって、慶さんは笑いかけてくれた。

 彼は、俺が楓に好意を持っているということに、気が付いているようだ。


 俺は迷っていた。

 自分はこれからどうするべきなのか。このまま彼に託してしまって良いのだろうか。


(ここで挽回しないと……。)


 俺は焦燥感を感じる。彼女の側にいたいなら、それ相応の行為を見せるべきだ。

 

 しかし、俺の足は硬く彼女の元へ向かなかった。さらに彼女を傷付けてしまうのではないかという恐れが足を竦ませたのだ。


 そしてこの時、俺の中に迷いが生まれていた。


 俺は彼女と関係を築く権利はあるのか?


 ここまでヘタレでどうしようもない人間が彼女の側にいても、逆に負担をかけてしまうだけになってしまうかもしれない。


(それに彼女と俺じゃ、釣り合わない)


 変わりたい、彼女の側にいても胸を張っていられるような存在に……。


(俺じゃ、ダメだ……。)


 俺は席を立ちあがった。


 その時だった。空耳だろうか。耳元で猫の鳴き声が聞こえた。


 驚いて周囲を見渡すが、もちろん猫などいない。


「どうしたんだ?」


「い、いえ。もう、行きます。」


 きっと幻聴だ。そんなことはありえない。


「じゃあ、気を付けてな。」


 慶さんにすべてを投げ出すことへの後ろめたさを感じながら、家に向かった。



 ☆☆☆☆☆

 


 自室に籠り、カーテンを閉め切った薄暗い部屋の中で、閉じこもっていた。


 ベッドの隅で三角座りになりながら、懺悔し続けている。


 何故、俺は帰ってしまったんだろう。結局嫌なことから目を背けて残るものは後悔だけだというのに。


「同じことを何回もッ!」


 頭を抱える。


 俺は、自暴自棄になっていた。


 いっそのこと、このまま死んでしまえたらとすら思った。


 しかし、人はどれだけ追い詰められていたとしても、欲求には抗えない。例にも漏れず、俺はうとうとと眠りの世界へと誘われていた。


 夢を見る。


 夢の中には黒猫が出てきた。猫といっても二つの尾を持ち、後ろ足二本で地面を立っていた。

 俺はそこが夢だとは思えなかった。臨場感やリアリティがあり、何より意識がはっきりしていたからだ。


 俺は困惑しながら二尾の黒猫を眺めていた。

 すると、そいつはこういった。


「彼女の側にいたいか?」


と。


 彼女とは誰のことなのか言われるまでもなく俺は分かった。


 俺は声に出して、はいと答えようとするも口が存在していないかのように開かない。

 俺は、頷くことで反応を返す。


「そうか……」


 二尾の黒猫は何とも言い難い表情だった。


 安堵しているような、悩んでいるような、申し訳ないようなそんな顔だ。


 その時、なんとなくクロが夢として出てきてくれたんじゃないかと思った。クロの二尾の尻尾にも見当たりがある。


「しっかりと考えると良い。どちらを選ぶかは、自由だ。」


 クロは何を言いたいのか、分からなかった。わからないと聞き返そうとしても、口が付いていないので聞き返すことすら叶わない。


 そして、俺はそのまま目が覚めてしまった。


 目を開けるとまず最初に思ったのが、異様なほど視線が低いということ。そして、視界が可笑しいということ。


(どうなってんだ?)


 俺は、視線を体へと移す。


 とても黒かった。しかも体中から毛が生えている。まさに動物のように。


(うわっ!)

「にゃー!」


 驚いて声を上げると、自分の声帯から聞いたこともないような高い鳴き声が響き渡る。

 俺は、さらに驚きが積み重なった。

 体毛に加えこの視線の低さ、そして極めつけはにゃーんという鳴き声。


 俺はベッドを跳躍し鏡へと移し出される自身の姿を確認した。自身の跳躍力に驚きながらもいったん保留にする。


 鏡に映るのは、くりくりとしたつぶらな黄色い瞳、某運送業者に見られるあの体のシルエット、可愛い肉球のお手てちゃん。


 どうやら俺は体が黒猫へと変わってしまったようだ。


 「にゃーあ!」

 (マジかよ!)


 俺は猫に変わったと知るや否や、自室の窓から外へ飛び出した。


 恐らく夢で見たクロが原因だろう。それ以外に考えられる原因が思い浮かばない。


 かわいらしい肉球に、チャーミングな尻尾。何度見てもこれが自分のものだとは信じられずにいる。


 大きさにしては考えられないような跳躍力を持ち、嗅覚も鋭い。まるで超人へと生まれ変わったようだ。


(このまま、楓の元へ行けってことなのか……?)


 クロは何を伝えたかったのか。何故俺を猫にしたのか。


 彼女の元へ行けば何か分かるかもしれないとそう思った。しかしそれはあくまで建前だ。俺が彼女の元へ行ったのは、何よりも彼女に会いたかったから。

 

 いつもよりも彼女の家が、遠いような気がした。もちろんこれは比喩表現ではなく、自分の体が小さくなったことによるものだろう。

 もどかしさが助長され、心臓が高鳴っている。というか心臓の鼓動の速度が、ありえないぐらいに爆速だ。体が小型化されたことによって、代謝がよくなったからだろうか。


 障害物を潜り抜け、車道をなるたけ避けるように移動して、ようやく彼女が住まう花屋へとたどり着いた。


 幸い、二階の窓は開いているらしかった。

 俺は猫の身体能力を駆使しながら、パルクールで二階のベランダへとよじ登る。


 しかし、一度頭が冷静になり、ベランダの中で足を踏みとどまった。

 今自分のやろうとしていることは、不法侵入。そして、美少女の部屋に忍びこもうという犯罪行為だ。


 俺は思い出す。彼女へと伝え損ねてきた日々。そしてようやく伝えられたにも関わらず、彼女を裏切るような自分の行い。全て迷い行動しなかったことによる報いだった。

 やって後悔するより、やらずに後悔することの方が俺は辛い。

 しかし、最低限の礼儀というものがあるだろう。


 俺は、窓を叩く事にした。


 コンコン


「誰――?」


 楓はまだ起きているようだった。もしかしたら、苦しみに悶えていたのかもしれない。


 彼女は恐る恐るカーテンを開ける。

 すると充血していた目を大きく見開き、驚く。


「クロ、なの?」


 彼女は半信半疑な表情で、未だに目の前の光景が信じられずにいるようだ。


 俺は彼女と相対して、複雑な感情に飲み込まれる。彼女と会うことができた喜びと深い罪の意識を感じた。自分はクロではない。中身はヘタレの屑人間なのだ。


 彼女は俺の姿を観察しているうちに表情が、訝しげなものへと変わる。


「あなた、クロじゃないよね?」


 やはり所詮は張りぼてだった。そして、彼女のクロに対する愛情を見くびっていた。


「当たり前、か……。」


 彼女は失望した表情に変わる。

 そして、再び俺の姿を見つめ首を傾げた。


「でも、どこの子なんだろう?とりあえず、こっちにおいでよ。」


 しかし、クロじゃないと分かってもなお彼女は、俺を家の中へと招き入れた。


 俺は言われるがまま、部屋の中へ入った。部屋の中は石鹸の良いにおいがする。


「抱いても良いかな?」


 彼女は優しく問いかけてくる。


 頷きそうになったが、俺は必死にこらえた。猫が言葉を理解できるわけがない。


 とりあえず声を出して返事をしてみる。


「にゃー」


「良いってことなのかな?」


 彼女は俺の体を抱き上げる。


 「よし、よし。大丈夫だからね。すぐに飼い主さんのこと見つけてあげるから。」


 どうやら彼女は俺のことを迷子の子だと思っているらしい。確かに、客観的に見れば俺は人間のことを恐れず抵抗しない人慣れしている猫だ。


 彼女はベットに腰掛け抱き抱える俺の頭をなでてきた。

 

 優しくなでられると泣いてしまいたくなってくる。これほのどの愛に触れたのはいつ以来か。

 彼女のぬくもりは、荒んだ心を溶かすようだ。クロはいつもこんな彼女の胸の中にいたのかと羨ましくなる。


(ずっと、このままでいたい……。)


 俺はそんな願望を抱いてしまう。

 彼女の側にいて、彼女に甘えて、彼女に愛されて。

 心を誘惑が支配する。


「なんだか、苦しんでいたのが嘘みたい。」


 彼女は俺に笑いかけてくる。


「君は飼い主さんとはぐれて寂しい?」


「にゃー」

 

 もちろんニャーとしか返事はできない。しかしなぜか彼女には伝わったようで、


「そうでも、無いんだ。」


 彼女は苦笑した。


 「クロも私がいなくなって寂しがっていると思ったけど、むしろ一番寂しがっているのは私のほうなのかもね。」


 そして、彼女は窓から浮かび上がる月夜を眺めた。

 

 「楽しかった思い出も、悲しかった思い出も、ずっとクロと乗り越えてきた。」


 彼女は、涙は瞳に涙を浮かべていた。


 彼女の哀しさのすべてを分かってあげられることはできない。猫になっても結局俺は、何も――


「君がいたら明日から、また前を向いて歩けるかな?」


 彼女は心の拠り所を求めていた。彼女が求めてくれるのなら側にいたいという俺の願いは叶う。


 だが、それは彼女にとっても、俺にとっても良くない答えだった。


 同じことの繰り返し、結局依存して悲しむ彼女の顔が見える。それに俺は弱さから逃げて、流されることになってしまう。両者ともに健全とは言えない状況だ。


 それでも、俺は流されてしまいたかった。目をそらして、彼女と一緒に落ちてしまいたかった。


 このまま変わらないで良い。ずっと彼女の側にいることができればそれで……。


 暫く一緒にいるうち、彼女の目はとろんとしていた。そんな彼女の様子を見ていると眠気が襲ってくる。


 夢のはざまでふと、俺は田中の顔を思い出した。彼は必死になって、恋愛弁舌を解いてくれて俺の悩みを自分ことのように考えてくれた。変わろうとする俺を応援してくれた。

 慶さんの顔を思い出した。彼は、自分がクロの代わりに励ますことができず後悔していた。そのせいで、彼女がクロへの依存を強めてしまったのだ。もし、また俺が彼女と一緒にいれば、間違いなく依存させてしまう。


 俺の行為は彼らのことを裏切ることに他ならなかった。


(本当にこれで良いのか?)

 

 一度抱いてしまった疑問はどんどんと膨れ上がってくる。


 変わることに恐怖し怠惰でいようとする自分の弱さ。


 ここにいれば、彼女の側にいることはできる。しかし本当の意味で、彼女と心が通じ合っていると言えるのだろうか?


 変わりたいとあれだけ願っていたくせに、結局道半ばであきらめ状況に甘んじてしまおうとしている。

 これでは、だめだ、きっとだめだ。

 もう少しだけ、と心が不貞腐れている。でも、だめなんだ。


 変わらなきゃだめなんだ!


 そう思った途端、はっと目を覚ます。


 ピピピピピ!


 俺はベットで眠っていた。目覚ましの音がやかましい。


「夢、だったのか?」


 昨日の夜記憶がはっきりしない。俺は確かに猫になっていたと思うのだが……。


「異常なほどにリアルな、夢ってことか。」


 俺は今まで夢落ちが嫌いだった。いつも良いところで現実に引き戻され虚しさを残していくだけ。

 でも、今は少し違う。


「今日だけは、ありがとうな。」


 迷いは、無かった。


 俺は花屋へと向かう。


 俺は気がついたら走っていた。夢で見た時と同じように彼女へ少しでも早く会いたくて堪らない。


 花屋のドアを開ける。

 

 すると消えてしまいそうな程、幻想的で少し風が吹くとふわふわ飛んでいってしまいそうな彼女(ひと)がいた。


「春先――」


「あ、中山さん……。」

 

 少し気まずい空気が漂っている。

 俺は、しっかり彼女の目を見つめた。

 遠回しな言い方はもうしない。

 

「俺、伝えたいことがあるんだ。大丈夫、かな?」


「……私、夢を見ていたんです。」


「夢……?」


「はい、黒猫ちゃんが私を癒してくれる夢で、いろんな思い詰まっていることを大丈夫だよって言ってくれたような気がしました。今考えるともしかしたら、クロが夢に出てきてくれたのかも。」


 俺は驚いた。彼女がそれ知っているということは、昨日の夢は本当に有った出来事だということなのだろうか。

 

「私、気付いたんです。ずっとクロに心配かけていたんだなって。だから、前に進まなきゃって自然とそう思ったんです。」


 彼女は強かった。俺の心配をよそに前を向いて歩き始める準備を始めていたのだ。


「私は、大丈夫です。」


 ニコリと笑う楓は美しく、今まで見どの楓よりも強かに見えた。


「――っ」


 俺は口を開こうとするも少し噛んでしまう。言うべきことは、分かっている筈だ。後は声に出して届けるだけ。たったそれだけのことを、また俺は……。

 

 その時、何かに肩をポンと押された気がした。


 俺はハッとする。


 そして彼女の顔を見た。

 少し頬を蒸気させながら、俺の言葉を待っている。

 

 そこで、俺は改めて覚悟を決めた。


「春先、いや、楓、好きだ。」


「……はい。」



 

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