ガン飛ばれさたので睨み返したら、相手は公爵様でした。これはまずい。
パーティーが開催される王城へ向かって、私は姉クリスタルと馬車に乗っていた。
「今日までよく頑張ってきたわ、アンジェ」
ふわりと微笑む姉は、淑女の鑑と言われるほど一つ一つの作法や立ち居振る舞いが洗練されている。
そんなクリスタ姉様からすれば、私は異端だったに違いない。
なぜなら私アンジェリカ・レリオーズは転生者で、前世は元ヤンだったから。
日本という国でレディースの頭を張っていた私は、喧嘩最強とも言われていた。
そんな私が! まさかこんな世界に転生するとは夢にも思わなかったわけだ。
幼い頃、割と早くに前世を思い出した私は、自分がドレスを着ているのが違和感でしかなかった。大好きな特攻服はないのか、せめてズボンをはかせてくれと嘆いた日々があった。
それが許されないことで、私がドレスを着るのが当たり前なのだとわかると諦めた。せめてもの救いは、アンジェリカの容姿はドレスが似合っていたということ。
アンジェリカの赤髪は、非常に鮮明でカッコいい色味をしているので、ドレスを着ても甘くなり過ぎずむしろ様になる。何よりも少しつり目な青色の瞳に、整っている顔立ちなのがポイント高い。
前世から可愛らしいなんて言葉とは無縁だったし、今でも若干拒否反応が出るのだが、この容姿のおかげでドレスを着ても綺麗が先行されて可愛らしいにはならない。
慣れとは恐ろしいもので、今となってはパーティーにふさわしいきらびやかなドレスを着せられても何とも思わない。ズボンをはきたいと気持ちが消えたわけではないけど。
「ありがとうございます、姉様」
「アンジェには色々と教えてきたわね」
「……はい」
しんみりとする姉様に頷く。
クリスタ姉様は私と違って少し薄めの赤毛、というよりはマゼンタ色の綺麗な発色をしている。薄紫色の瞳も中々に魅力的だなと思う。
正直言って、私がヤンキーではなく貴族らしく振る舞えるようになったのはクリスタ姉様のスパルタ指導のおかげだった。
前世の私には怖いものなんてなかった。だから平気でいろんな場所や格上の相手にも特攻していた。アンジェリカとして生まれ変わっても、そのマインドは変わらない。そう思っていたのに。
姉であるクリスタルは、私でさえ怖いと思う。
前世では兄弟がいなかった私は、姉とはどういうものか知らなかったけど、まさかこんなにも恐ろしくて、愛おしくて、でもやっぱり怖いものだとは思わなかった。
幼い頃淑女教育をさぼろうとした日、クリスタ姉様に見つかって凍えるほど冷たい目線と声を向けられた時は、震えあがるほど怖かった。
正直、おしとやかな姉を舐めていた部分があったけど、クリスタ姉様は間違いなく強かった。美人って睨むと怖いんだと改めて認識させられた瞬間でもあった。
力関係が明確になってからは、私は淑女教育から逃げられなくなった。何せ指導者がクリスタ姉様だったので。おかげさまで口調は貴族らしくなったし、振る舞い方もましにはなった。
姉様が感傷に浸っているのは、今日私を社交界デビューさせられるからだと思う。
「アンジェ。レリオーズ侯爵家の一員であることを忘れないで。たくさん知識を詰め込ませたし、立ち居振る舞いも教えたわ。それでも、今日何よりも大切にしないといけないのは相手に下に見られないことよ」
クリスタ姉様は私の瞳を捉えて真剣に伝えた。
「下に、ですか?」
「えぇ。何事も最初が肝心でしょう。アンジェは外に全く出なかったから、社交界では引きこもりと噂されているの。でも、他に社交界デビューまで顔を出していない令嬢方はいるから気にする必要はないのだけれど」
「引きこもりか」
社交界デビューする前からも、ご令嬢方と交流する機会は何度もあるしするべきだ。
しかし、私の場合は家族……主にクリスタ姉様から交流することを止められていたのだ。決して引きこもっていたわけではない。
「くだらない噂ですね」
「えぇ。憶測で物を語ることが大好きな人が多いのが社交界ですもの。だからこそ、その噂を吹き飛ばすくらい堂々としていなさい。アンジェは堂々とするのは得意でしょう」
「そうですね」
即答すれば、クリスタ姉様はふっと微笑む。
実際堂々とするのは得意だ。そこは前世が役に立つ。
(下に見られるなってことは、ようは舐められるなってことだよな)
社交界は未知数な所があるけれど、姉様の言う通りにしていれば何も怖くないしそもそも怯えてもない。
舐められない為には、威圧するのも手段だよな。よし、頑張ろう。そう気合いを密かに入れれば、姉様は先程と違って圧のある笑みを私に向けた。
「あと、どんな時も優雅にね」
「……はい」
念を押す一言は、さすが姉様と言える。
クリスタ姉様の凄いところは、〝元ヤン〟という概念を知らないにもかかわらず、私にある元ヤンの習性をどことなく察知して理解しているということだ。だから今も、私が何かやらかすと思って釘を刺したのだと思う。
クリスタ姉様の一言で背筋を伸ばしていると、王城に到着した。
馬車の外を眺めてみれば、周囲には既にたくさんの令嬢方であふれかえっていた。
「凄いな……」
こんなにいるとは思いもしなかったので、姉様の〝下に見られるな〟という言葉の意図がわかった気がする。
私と姉様もそこに交ざりながら、パーティー会場へと向かった。
今日のパーティーは、年に一回開催されるデビュタントがメインのパーティーだ。
国中の十八歳の令嬢が集まり、社交界デビューを果たす会となっている。もちろん、参加者はそれだけでなく、他の貴族達も集まる場所だ。
「今日はなかったけれど、アンジェにはエスコートの練習もさせないとよね……」
まだ何かあるんですか姉様。もう私は十分ですよ。
そう面と向かって言えたらどんなに良かったことか。真剣な表情をしている辺り、エスコートの練習は貴族女性にとって恐らく大切なことなんだろう。
「クリスタル、アンジェリカ。そろそろ挨拶の時間だよ」
「わかりましたわ、お父様」
私達を呼びに来た父様と母様と共に、国王陛下に謁見しに向かう。
「アンジェ。失礼のないようにね」
「はい」
さすがの私でも、国王陛下の謁見がいかに重要で、下手をしてはいけないということくらいわかっている。私の最適解の動きとしては、とにかく喋らないということだ。もちろん淑女教育で口調は直してきたけど、中身のある話ができるかと言えば首を横に振ることになる。
(……よかった、無事終わった)
何事もなく謁見を済ませると、各所に挨拶に向かう両親と分かれた。私は、まずはクリスタ姉様のご友人方に挨拶をすることになった。
「クリスタル様。お久しぶりですわ」
「クリスタル様。本日のお召し物もとても素敵ですわ」
「クリスタル様、よろしければ今度お茶会に来てくださいませ」
おぉ、クリスタ姉様はこんなにも人気なのか。それにしても、一気に話しかけるのはどうかと思うけど。姉様の耳は二つしかないんだから。
「皆様ありがとうございます。お誘いはもしよろしかったら招待状を後でいただけるかしら?」
「は、はい!」
どうやら心配はいらなかったみたいで、クリスタ姉様は全員に丁寧な対応をしていく。私は顔には出さなかったけど、内心「姉様すげぇ」と思っていた。
「皆様、よろしければ私の妹を紹介させてくださらない?」
「もちろんですわ」
「クリスタル様の妹君……」
ひそひそと聞こえる声が気になるものの、クリスタ姉様に視線を向けられた私は頑張って貴族らしい綺麗な笑みを作った。
「皆様初めまして。妹のアンジェリカ・レリオーズと申します。今年十八になりましたので、今回デビュタントとして参加させていただいております。よろしくお願いします」
クリスタ姉様に教わったカーテシーを披露しながら、個人的には無駄のない挨拶を済ませた。
「まぁ、とっても素敵ね」
「クリスタル様の妹君って引きこもりじゃなかったのね」
「とてもしっかりしていらっしゃるように見えるけど」
「噂はうわさなんじゃないかしら?」
あれで聞こえていないつもりなのだろうか。本人を目の前にしてこそこそと話す姿は気分が悪いけれど、決してそれは顔に出していけないと教わったので笑顔でい続けた。
「皆様、妹をよろしくお願いします」
「もちろんですわ」
「私の方こそ」
「よろしくお願いいたします」
ひそひそと言っていた令嬢でもクリスタ姉様への敬意はあるようで、にこにこと返してくれた。本当に好意的に見られているかはわからないけど。
なるほど、これが社交界か。
クリスタ姉様の言葉を思い出した私は、改めて背筋を伸ばして堂々とあり続けた。
その後も、同い年の令嬢方に挨拶をして知り合いになったり、たまたま遭遇した両親の挨拶に顔を出したりと、順調にデビュタントをこなしていた。
「よくできているわよ、アンジェ」
「ありがとうございます」
今日の私はどうやら調子がいいようで、まだ一度たりともボロが出ていない。
穏やかな気持ちで挨拶を続けていると、どこからか視線を感じ始めた。
(なんだ、この気配……)
誰かにじっと見られている気がする。理由はわからないけど、とにかく視線の主を探そう。
姉様が軽食を口にしている隣で、私は周囲を見渡し始めた。
(あそこか……!)
見つけた瞬間、私は男性とバッチリ目が合った。
(……なんだあれ。なんであんなガン飛ばしてくるんだ?)
視線の主は、少し離れた場所からこっちを睨んでいた。その相手は私なのかと疑ってしまうくらい強い視線だったけど、周囲をもう一度確認してもそれらしき人物はいなかった。
(姉様は舐められるなって言ってた。……ガン飛ばされたら、睨み返すのは基本だろ。ここで目を背けたらひよったと思われる)
私は負けるかという気持ちで、睨み返した。
(睨むってことは、私のことが気に食わないんだろうけど、それなら直接言えよな。女じゃなくて男なんだから)
相手はいかにもガタイの良い男性で、圧のある雰囲気があった。
(もしかしてビビらそうとしてんのか? ……理由はわかんないけど)
色々考えながらも、明確に頭の中にあったのは目を逸らしたら負けと言うことだった。
「何しているの、アンジェリカ」
クリスタ姉様の声に、私は瞬時に目を伏せた。証拠隠滅のためだ。
(まずい、クリスタ姉様が私を愛称で呼ばない時は怒ってる時だ……!)
隣にいたのだから、睨んでいるのも絶対にバレた。そうわかっていても、ごまかしてしまう。
「な、何も」
「そうかしら? 私にはアンジェリカが誰かを睨んでいるように見えたけど」
丁寧な口調だけど、声色は冷ややかなものだった。私は観念して理由を話そうと顔を上げる。
「あれは誰かじゃなくて――」
いない。そこには睨んできたはずの男は立っておらず、周囲を見渡しても見つからなかった。
「……いない。姉様、確かにあそこにいたんですけど」
「いいわ、後で聞きますから」
(あ、終わった)
圧の強い笑みを向けられると、私は一人心の中で合掌するのだった。
パーティーも終わりを迎え、ぞろぞろと貴族が馬車に乗り始めた。
私はと言うと、馬車に乗ってクリスタ姉様と向き合っていた。姉様の無言の圧が強すぎて、私は永遠に足元を見ていたけど。
「ねぇアンジェリカ」
「はいっ」
名前を呼ばれたので、ばっと顔を上げて反応する。姉様はじっと私の方を見つめている。
「人を睨むことは品のあることかしら?」
「いえ。ありません」
ブンブンと勢いよく首を振る。
睨み返してから馬車に来る途中、私は一人で反省をしていた。何があったとしても、喧嘩を買ってしまったのは自分なのだ。
「そうよね? ……わかっているならいいわ」
「はい……」
淡々とされたお説教は、クリスタ姉様の気持ちが見えないからなお怖い。相手の顔色を窺うだなんて前世ではやって来なかったこと。それでも、クリスタ姉様相手にはしないといけない。下手をすると地雷を踏むからだ。
しばしの沈黙が流れる中、私は声を出さないのが正解だと判断した。
「……ふぅ。いいわ。今日のアンジェは、それ以外は完璧だったもの。褒めないとね」
「姉様……」
「お疲れ様、アンジェ。これからも頑張るのよ」
「……はいっ」
クリスタ姉様のお説教は愛があるとわかるから、素直に聞き入れられる。私はようやく、作り笑顔から解放されて、心からの微笑みを浮かべることができるのだった。
確かに睨み返したのは淑女らしくなかった。それでも、私はあの男がどう見ても喧嘩を売っているようにしか思わなかったのだ。目線を外したらもういなかったのは気になったけど。
(……結局あれは私の負けか)
ほんの少しだけしょんぼりとしながら、馬車に揺られるのだった。
社交界デビューをしたからには、ありとあらゆるパーティーやお茶会に参加をして顔を売らないといけない。デビュタントだけで終わりではない上に、毎日のように参加しないといけないのはなかなかにキツイ。
「こんなにも忙しいのは、社交界シーズンの今だけよ。アンジェ、よく頑張ったわね。今日で最後よ。もう少しの辛抱だから頑張って」
「……頑張ります」
クリスタ姉様が何度も応援してくれるので、どうにか頑張りたいとやる気だけはあふれてくる。せっかく地獄の日々をこなして学んだのだ。その成果を発揮してこそ、学んだ意味があるというものだ。
そうポジティブに考えながら、今日もパーティーへと向かっていた。
「最終日だからと言って気を抜かずに。品よくね」
「はい、姉様」
デビュタント以降知り合いができた私は、クリスタ姉様とは離れて一人で各所に挨拶をしたり談笑したりしていた。クリスタ姉様による授業のおかげで、話の内容がわからないということはなかった。
最近はどんな歌劇を鑑賞した、どこどこのブティックが流行っているなどという話はつまらないとは思っても重要な情報でもあるので、しっかり記憶に残した。
「アンジェリカ様のご趣味は何かしら?」
「乗馬ですわ。晴れた日によく乗っているんです」
「まぁ、素敵ですね」
「私も乗馬を嗜んでいるんです。アンジェリカ様と、今度ご一緒したいですわ」
きっと、彼女の言う乗馬と私の言う乗馬は違うんだろうな。
彼女の言う乗馬とは、恐らくゆっくりと馬に乗ること。
私が言う乗馬とは、かっ飛ばして駆け抜ける乗馬のことなので、だいぶ異なる。
それでも実現したらしたで、楽しそうなので、笑顔で受け取っておく。
「ありがとうございます。是非ともご一緒しましょう」
本気でそう思っていても。社交辞令になってしまうのが少し残念な所だ。
令嬢方との会話を終えると、クリスタ姉様を探そうと周囲を見渡し始める。
すると、一人の男性が視界に入った。
(……あいつは、この前のガン飛ばし野郎)
忘れもしない、あの銀髪と良いガタイは。その上鋭い眼差しは再び私に向けられた。
(またこっち見てくんのか……)
一瞬、睨み返してやるという気持ちが浮かんだ。
しかし、クリスタ姉様の「睨むことは品のあることかしら」という言葉が頭を過ったので、私は彼から視線を外した。
(無視だ、無視。ああいう変な奴は気にしちゃ駄目だ)
男性から目を離してクリスタ姉様を探しに移動しようとすれば、こちらに近付いてくる足音が聞こえた。
(……えっ)
予想外にも男性は私の目の前にやって来ていた。驚きながらも、彼の顔を凝視する。
(なんだ、直接文句でもいいに来たのか)
そう身構えながらも、挨拶をしようと彼の目を睨まずに真っすぐ見つめる。
「ごきげんよう」
にこやかにそう伝えても、相変わらず相手は睨んだままだった。何とも気分の悪い相手だが、ここで睨み返してはいけないし悪態をついてもいけない。
今日の私は品よくするんだ。
一人勝手に意気込んで、名乗ろうとした瞬間だった。
「いい度胸をしていますね」
(……前言撤回。睨んでいいか? 喧嘩売ってるだろこいつ)
心の中が荒れ始めるものの、どうにか歯を食いしばって笑顔を浮かべた。
「あら、光栄ですわ」
かかってこいよと言いたかったけれど、この場にいかにふさわしくないかはわかっていたので、どうにか呑み込んだ。
「お名前は」
(喧嘩を売った相手だもんな、知りたいよな。……売られた理由はわかんないけど)
睨みつけられたまま名前を聞かれる。問われた以上、答えないのも失礼だろう。自分から名を名乗れと言いたい気持ちを抑えて、ガン飛ばし野郎の目を見た。
「アンジェリカ・レリオーズです」
「……レリオーズ嬢。ギデオン・アーヴィングです」
なるほど、ギデオン・アーヴィングか。覚えた。
もしかして睨み返すよう煽られている可能性まで考えるほどの睨みっぷりだけど、その挑発には決して乗らない。
さぁ、何を言い出すんだと見つめていれば、ギデオン・アーヴィングは目を逸らした。
「……またお会いしましょう」
そう一言言い残すと、ギデオン・アーヴィングは足早にその場を去っていった。
(……な、何だったんだ⁉)
私には困惑だけが残されており、それは帰りの馬車に乗っても続いていた。
「アンジェ。今日は男性と話していたわね」
「えっ」
「見ていたわよ。……もしかしてこの間デビュタントで睨み返した相手は同じ人?」
「は、はい。同じです」
まさかあの一幕を見られていたとは。私の背中に嫌な汗が流れ始める。
「……偉かったわ。よく耐えたわね」
「あ……が、頑張りました」
「よく逃げずに、会話を試みたわね。素晴らしかったわ」
姉様は私を何だと思っているんだろう。私はあの程度じゃびくともしませんよ。
「それにしても……アーヴィング様がアンジェに話しかけるだなんて」
「姉様、お知り合いですか?」
「直接は知らないけど……ねぇ、アンジェリカ。まさかだけどアーヴィングという名前にピンと来ていないように見えるのだけど?」
突如向けられたクリスタ姉様の冷気に、私は挙動不審になる。
「……そ、そんなことは」
「それじゃあ、アーヴィング様がどんな方か言えるわね?」
「それは……」
自信がないので、声が小さくなっていく。どんな方か言えるか。申し訳ないが何も知らない、というよりは姉様の口ぶりからは私は覚えていないというのが正しいのだろう。
「あれだけ貴族名鑑で名前を覚えるよう勉強したわよね?」
「ご、ごめんなさい」
「……全く。いい? アーヴィング様は我が国の三大公爵家の一つよ。アーヴィング公爵家当主を継がれたギデオン様は、若くして才覚を発揮している優秀なお方よ」
「こ、公爵……」
知らなかった。ガン飛ばし野郎――アーヴィング公爵様が自分よりも身分の高い人だったなんて。これはまずい人に目をつけられたようだ。
「ど、どんな人なんですか」
「私も噂程度しか知らないけど、基本的に良くない噂しか聞かないの。冷徹公爵と呼ばれていて、仕事ができない部下や使用人はすぐに追い出してしまうような方だそうよ。それに、極度の人嫌いとも聞いたことがあるわ」
「……それはまた、随分凄い方ですね」
私は噂を信じるタイプではないけれど、冷徹公爵だなんて異名を持った相手の喧嘩を買おうとしていたのは改めて反省するべきだと悟った。
(私一人が犠牲になる喧嘩ならいいけど、今はレリオーズ侯爵家に迷惑がかかる。それはだめだ)
二度も睨まれてしまった理由はわからなかったけど、「いい度胸していますね」と煽られた理由はもっとわからなかった。
「とにかくアンジェ。今後もパーティーでご一緒するかもしれないから、失礼のないようにね」
「肝に銘じます」
三度目はないと思いたかったけど「またお会いしましょう」というアーヴィング公爵様の言葉が、私の頭の中に残り続けるのだった。
◆◆◆
生まれつき目付きが悪かった。
どうやら自分の顔は人を怖がらせるようで、よく人からは恐れられてきた。
新しく使用人を雇えば、圧を恐れて自ら辞表を出して去っていき、令嬢方は寄り付かない始末。そのため見合いも上手くいったことはなく、婚約を申し込まれることはなかった。
いつの間にかアーヴィング公爵は冷徹公爵だという噂を広められて、俺にはどうすることもできなくなっていた。
(……火消しの仕方もわからない)
誰かと話したくても基本的にこの顔のせいで避けられてしまう。おまけに公爵となると、余計に近寄りがたいのだろう。遠巻きにされることもあって、社交界は基本的に苦手だった。
今回の王家主催のパーティーも同じだ。デビュタントがメインならば、俺が顔を出す必要はないのに、親しくしている第一王子であるヒューバート殿下が顔を見せろとうるさいので、参加せざるを得なかった。
殿下への挨拶だけ済ませてすぐに帰ろうと急いでいれば、美しい赤い髪が視界に入った。あんなにも綺麗な赤髪がいるのかと見とれていれば、令嬢と目が合った。
あぁ、また怖がられて逃げられるのか。そう勝手に落ち込もうとしたが、令嬢は違った。こちらを真っすぐに見つめ返してくれたのだ。
……誰かに真っすぐ見られるのはいつ以来だろうか。
その視線が純粋に嬉しくて、目に力が入ってしまう。恐れている様子など一切なく、じっとこちらを見てくれる眼差しは、新鮮で温かいものだった。
隣にいた令嬢に話しかけられるとすぐに目を逸らされてしまったが、見つめ返してくれるだけで十分だった。
「ギデオン、ここにいたか」
「殿下」
「ホールはにぎやかだから、奥の個室で話そう」
「はい」
まだ彼女のことを見ていたいという名残惜しさはあったものの、これ以上は相手の邪魔にもなるだろうと切り替えて殿下について行った。
個室に到着すると、向かい合わせで座る。
「ギデオン。社交界に顔を出すのは久しぶりだろう」
「そうですね」
「元気にしていたか?」
「はい。特に変わりありません」
「そうか」
ふっと微笑む殿下だが、すぐに表情が重くなった。
「……ギデオン。お前婚約者に想定している相手はいるか?」
「想定している相手ですか。……そう尋ねられる理由をお聞きしても?」
「あぁ。隣国……ベルーナからの申し出でな。友好のためにも姫をこちらに輿入れさせたいという話だ。ただ、俺には既に婚約者がいるし、弟にもいる。双方側妃を持つつもりはないんだ」
「それで私、ということですか」
「あぁ……」
隣国の中でもベルーナは小国で、我が国ファレル王国とは権威関係が明確だった。軍事力も国力も圧倒的にこちらが上であるため、さらなる友好関係を築きたいというのが向こうの考えのようだ。
「ただ。これはあくまでも付属に過ぎないし、うちは断れる立場だ。だからギデオンに好ましい相手がいるのか聞きたかったんだが、どうだ?」
俺に婚約者がいないことは殿下もよく知っていることだったので、俺はすぐに問題ないと頷こうとした。
「好ましい、相手……」
その瞬間、赤髪の彼女の姿が思い出された。名前も知らない、彼女のことが。
「なんだ、いるのか⁉」
俺が言葉に詰まったことに反応した殿下は、バッと身を乗り出した。
「あっ、いや」
「今の間は何かある間だろう?」
物凄い目力で尋ねてくる殿下。ここにも俺の目を気にしない人がいるが、この人は気にしなさすぎだと思う。
「何も……ない、わけではないのですが」
「ギデオン……! ついにお前にもいい相手が見つかったんだな」
「殿下、早とちりし過ぎです。まだ名前も知らない相手なのに」
「何だそれは! 一目ぼれか? ロマンチックだな」
興奮が抑えられない殿下に動揺が生まれるものの、一目ぼれと言う言葉に引っ掛かりを覚える。
(……一目ぼれ。確かに赤髪には惹かれたが)
それよりも印象に残っているのは、あの真っすぐとした眼差しだ。
「一目ぼれ、とは違う気がしますが」
「違ってもいい。相手がいるんだな? それならこの話は断る」
「……はい」
「よし。……それにしてもギデオンが遂に異性に興味を抱くとは」
自分の事のように喜ぶ殿下に、不思議と俺も嬉しくなる。
「だが、名前も知らないとなると大変だな。今すぐ戻ったところでもうパーティーはお開きだからな……」
そうか、会場に戻ってももう彼女と会えることはないのか。
もうこれで最後になってしまうとなると、それは嫌だった。もう一度会いたい、そう強く気持ちが湧き上がってくる。
「見つけます。……見つけ出して、今度こそ話したいです」
「……頑張れ、ギデオン。応援してるぞ」
「ありがとうございます」
殿下の応援を受け取りながら、俺も屋敷へと戻るのだった。
翌日、俺は珍しく連日社交場に顔を出していた。
王家以外が主催のパーティーには、怖がられることもあって参加しないのだが、今回は別だ。
どうしても、もう一度彼女に会いたくてパーティーに参加して見つけることにした。
残念なことに、簡単には彼女は見つからなかった。連日、意味もなくパーティーに参加するだけとなっており、心なしか周囲の視線も痛かった。
社交界シーズン最終日、もうこれでだめなら諦めるしかないと思って入れば、ようやく彼女を見つけることができた。
……いた、あの赤髪は彼女だ。
見つけられて嬉しくなると、彼女のことをじっと見つめてしまう。
(……また目が合った)
どこかで、目が合ったのは気のせいかもしれないと思ってしまう自分がいたので、もう一度目が合ったのは非常に嬉しいことだった。しかし、彼女は目を逸らしてその場を離れようとしてしまう。
(……駄目だ、行かないでくれ)
名前が知りたい、その一心で俺は急いで彼女に近付いた。
彼女の目の前まで来た。しかし緊張で、何から話していいかわからなくなってしまう。
どうしようかと焦っていれば、彼女は可憐に微笑んだ。
「ごきげんよう」
柔らかな笑みと声は、初めて向けられたものだった。嬉しさのあまり心が浮つきそうになるものの、どうにか気を引き締める。
見つめるだけじゃなくて、微笑みかけてくれることに俺は敬意を払いたかった。
「いい度胸をしてますね」
何年も女性とまともに会話をしたことがなかったので、何を声に出せばいいかわからなかった。褒め言葉と適しているかはわからないが、咄嗟に出た言葉だった。
自分の発した言葉に不安になっていれば、彼女はさらに笑みを深めてくれた。
「あら、光栄ですわ」
その笑みのおかげで、失言ではなかったのだろうと安堵する。そして勢いに任せて目的を達成しようとした。
「お名前は」
「アンジェリカ・レリオーズです」
「……レリオーズ嬢。ギデオン・アーヴィングです」
レリオーズ侯爵家の令嬢だとわかると、自分も名を名乗った。
相変わらずじっと見続けてくれる。サファイアのように青く澄んだ美しい瞳は、驚くほど視線を逸らさなかった。とうとう恥ずかしさが込み上げてしまい、目を逸らしてしまう。
「……またお会いしましょう」
そう伝えると、俺は逃げるようにその場を後にした。
一足先にパーティーを抜けて屋敷へと戻ると、なぜか屋敷にはヒューバート殿下が来訪していた。
「ギデオン! お前の心を射止めた令嬢には会えたか?」
「……はい。何とかお会いすることができました」
「それはよかったな……!」
殿下を迎え入れると、殿下はどんなことがあったのか聞き始めた。レリオーズ嬢と話せたことが嬉しかったこともあり、殿下にありのままの出来事を話した。
最初は微笑ましく聞いていた殿下だが、どこか困惑した表情を浮かべる。
「……ギデオン。お前〝いい度胸をしている〟って言ったのか」
「はい。……自分でもこの顔は怖いだろうと思いますので。それでも関係なしに見つめてくださることに、敬意を払いたくて伝えました」
詳細を話せば、殿下は複雑な表情になった。
「ギデオン、だとしたらその思いは伝わってないぞ。〝いい度胸している〟という言葉は、あまり褒め言葉では使わない」
「……そう、なんですか?」
「あぁ。それどころか、皮肉になる可能性がある」
「そんなつもりは……!」
まさか、自分の意図しない意味の言葉だっただなんて。
浮ついていた心は一気に砕け散り、衝撃を受けた俺は放心状態になってしまう。
(……これは、嫌われてしまっただろうか)
きっと光栄だと言ったのも、ああ言うしかなかったからだったのかとわかると、俺の心はどんどん沈んでしまった。
これでもう終わりなのかと思ったけれど、これで終わりにしたくはなかった。
「殿下。すみません、やらなくてはいけないことができました」
「みたいだな。……大丈夫だギデオン。一度の失言なら、きっと許してもらえる」
「ありがとうございます」
殿下を見送ると、俺はレリオーズ侯爵家宛てに手紙を書き始めた。
受け入れてもらえるかはわからなかったけど、傷つけてしまったのなら謝罪をするべきだ。そう思うと、俺はすぐに動き出した。
◆◆◆
ガン飛ばし野郎がアーヴィング公爵だと発覚した三日後、なぜか公爵様はレリオーズ侯爵家を訪れていた。
父様か、姉様に用事があるのだろうかと考えたのも束の間で、要件はまさかの私に対する謝罪だった。
そして今、私は応接室でアーヴィング公爵様と向き合っている。
侍女によって紅茶が運びこまれる。随分と侍女は震えた手で、机の上にティーカップを置いた。大丈夫かと心配しながらも、彼女の退出まで見届けた。
誰もいなくなると、アーヴィング公爵様はすぐに頭を下げた。
「申し訳ありません」
「……あ、あの」
自分より高位な人が頭を下げるのは、恐らくいけないことだろうとわかっていたので、私は動揺してしまう。それでもアーヴィング公爵様は続けた。
「いい度胸というのは、皮肉ではなくて、その。度胸があることに敬意を払いたかったんです」
「あっ、そっちなんですね……」
「そっち……といいますと」
やばい、声に出してしまった。心の中で反応したつもりだったのだが、発してしまった以上説明しなくては。
「えっと……実はなぜ睨まれていたのか、教えてくれるのかと思っていたので」
「……そちらも申し訳ありません。私の目は、生まれつきこれなので……睨んでいるつもりはないんです」
どこか覇気のない様子で目を伏せる公爵様。確かに、睨むにしては殺気がなかった気がする。じっと目を見てみれば、あの時と同じ睨まれたと感じた目だった。
「ただ見ているだけなのですが、睨んでいるという誤解を生みやすく……今回はそれに加えて失言もしてしまいました。お気を悪くされるのも当然かと」
ただ見ていただけ。
この事実がわかると、私の方が悪いことをしていたのが発覚した。その瞬間、今度は私が勢いよく頭を下げる。
「謝るのは私の方です!」
「え?」
「睨まれていると思って、私は睨み返してしまいました。公爵様相手に大変申し訳ございません」
「……睨んでいたんですか?」
おっと、これはバレていなかったパターンのようだ。
そうだとしても、悪いことをしたら謝罪をするのは基本のこと。私は自分の非をすぐに認めた。
「はい。睨んでました。大変申し訳ございません」
「あ、頭をお上げください。……誤解させてしまった私に非があるので」
「そんなことはないかと」
「いえ、私が……」
私が勝手に喧嘩を売られていると勘違いをした挙げ句、威嚇し返したのだ。
(……あれ? だとしたらどっちが悪いんだ?)
公爵様が自分に非があると言い続けるので、どちらが悪いのかわからなくなってしまった。
「それなら両方悪くなかったということでは駄目ですか?」
「……それで、よいのですか?」
公爵様が不安げな声色でこちらを見つめる。
ああ、やっぱりこの人の目つきの悪さは元々なんだ。今も睨まれてる気がするから。
「私は公爵様が悪くないと思います。公爵様が私を悪くないと思うのなら、相殺でもよいのかなと」
「……そう、ですね。では、そうしましょう」
どこかぎこちない様子の公爵様だけど、彼のまとう空気が一気に和らいだように感じた。
それにしてもわざわざ謝罪に来てくれるとは思わなかった。
どこか不安げな姿も、目つきを気にしている様子からも、彼が冷徹とは随分思えない。
極度の人嫌いというか、自分の目を気にして避けているだけなんじゃないのか。
(……噂は噂に過ぎないんだろうな)
誤解を解きに来た公爵には、そんな印象を受けた。
「レリオーズ嬢に、一つお聞きしたいことがあって」
「はい」
「レリオーズ嬢は、この目が怖くないのでしょうか」
改めて公爵様の目を見るものの、怖いとは全く思わなかった。
「……怖くはないですね。むしろ羨ましいと思います」
「羨ましい、ですか?」
「はい。怖がられやすい顔立ちって、それだけで相手に侮られないので」
素直に答えると、公爵様はぽかんとした顔になっていた。
(……しまった。本音で答え過ぎた)
レリオーズ侯爵家という自宅にいるからか、どうしても気が抜けて淑女らしさが抜け落ちてしまう。
ただ、羨ましいと思ったのは事実だ。
人から舐められないのは、社交界で考えれば得でしかない。私ももう少しキツイつり目だったら良かったのにと思ったことが何度もあった。
「……そんなことを言われたのは初めてです」
「そうなのですか?」
「はい。……今までは怖がられてきて、人が寄り付かなかったもので」
なるほど、自分の魅力に気が付く機会がなかったということか。
それはなんというかもったいないなと思ってしまった。
「怖がられるって、何も悪いことだけではないと思います。圧が凄ければ、相手に舐められ――こほん。下に見られることはないと思うので。もちろん、公爵という肩書があればそもそも下に見てくる方はいらっしゃらないかもしれませんが」
この論は公爵という肩書があれば関係ないかもしれないが、悪いことばかりではないと知ってほしかった。
「……とても素敵な考え方ですね」
「……良いように考えるようにはしています」
褒められるほどのことではないと思いつつも、公爵様が嬉しそうにしているのは気分が良かった。
「レリオーズ嬢はとても素敵な方だと思います。今もこうして、目を見てくださるので」
「人と目を見て話すのは当然のことですよ」
そう当然のことを言ったつもりだったが、公爵様は嬉しそうに口元を緩めた。すると、真剣そうな面持ちでじっと私の目を見た。
「レリオーズ嬢。私に貴女の一日をいただけませんか?」
「一日……ですか?」
「はい」
突然の申し出にキョトンとしてしまう。
私を誘って何がしたかったかわからなかったけど、男がこんな真剣な顔で頼むんだ。断る理由はない。
「私でいいのなら、喜んで」
「ありがとうございます……!」
こんなことを言うのも失礼だが、とても鋭い目つきの人とは思えないほどの喜びようだった。
(……なるほどな。喜んでる時でも目つきは変わらないのか。これは相当苦労してきただろうな)
私も偏見というのはそう簡単に変えられるものではない。特に見た目から醸し出される雰囲気は、話してみないと解消しないはずだ。公爵様の場合、その話す機会が少なかったのであんな噂が流れ続けているのだろうと勝手に推測した。
一日を渡すことになったので、お互いに都合のいい日がないか調整した。
「では、二日後。またお迎えに上がります」
「はい、お待ちしております」
父と一緒に公爵様を見送った。何も知らない父は、公爵様の表情に緊張していた。
「……アンジェ。謝罪と聞いたが何があったんだ」
「なんというか……誤解でした」
「そうか。それなら良かった」
安堵のため息を吐く父様。
どうやらアーヴィング公爵ともあろう方が、自分の娘に謝罪なんて一体何があったのかと不安に思っていたらしい。
「他には何もないだろう?」
「あぁ……何か一日がほしいと言われましたけど」
「何だって?」
「え?」
父様が物凄く驚愕した顔で私を見て来るので、私もそれに少しだけ驚いてしまった。
「い、一日がほしい。そう言われたんだな……?」
「はい。間違いないですよ。私、記憶力には自信がありますから」
特に誰に何を言われたかはよく覚えている。……勉強になるとあまり力が発揮されないけど。
「ア、アンジェ。その誘いがどういう意味だかわかってるのか」
「何ですか、もしかして受けてはまずい勧誘でした?」
「やっぱりわかってなかった……!」
私が真剣に問い返すものの、父様は頭を抱え始めた。
一体何だって言うんだ。
「クリスタ……! クリスタはいないか……!」
おまけにクリスタ姉様を呼びに行く始末。もしかして悪いことをしたかと冷や汗が流れるものの、私はただ公爵様と喋っただけなので後ろめたくていけないことは何もない。こういう時こそ、堂々としてなくては。
……そう、思っていたのが五分前の私だった。
「アンジェ。それは立派なお誘いよ」
「お誘い……それって何かまずいんですか」
「別にまずくはないわ。ただ明確なのは、アーヴィング公爵様はアンジェのことが気になっているということよ。異性としてね」
「……異性として?」
クリスタ姉様は淡々と紅茶を口に運びながら説明してくれたが、その内容が私からするとぶっ飛んだもので理解が追い付かなかった。
「えっと……どうしてお誘いが異性として気になるからなんですか。普通に友人としてという考えもあるんじゃ」
「その考えを否定するわけではないけれど、年頃の男女なら友情よりも恋情が優先されると思うわ。何よりもお互いに結婚適齢期ですもの」
「……なるほど」
まさかお誘いがデートだったとは思いもしなかった。
もしかして軽く受けるべきではない誘いだったのかもしれない。
悪いことはしなかったと思っていたが、結局無責任なことをしてしまったので後悔が生まれた。
(今からでも断るべきか? でもあんだけ真剣な瞳してたし……断るにも理由が)
どうしようかと悩んでいれば、クリスタ姉様はティーカップをテーブルに置いた。
「アンジェ。いい機会だから言うけれど、貴女はいずれこのレリオーズ侯爵家を出ないといけないわ」
「私追い出されるんですか」
「それは違うわ。この家を継ぐのは長女である私だから、アンジェはいずれどこかの家に嫁がないといけない。お父様が候補を決めてはいるけれど、私はアンジェの意思も尊重すべきだと思っているわ」
社交界デビューをしたばかりの私に、どこかに嫁ぐだなんて考えは全くなかった。しかしデビューと結婚適齢期の始まりは同じ。私はもう結婚について向き合わないといけないようだ。
「アンジェ。アーヴィング公爵様はもちろんお相手として非の打ち所がないほど素晴らしい方よ。だから明後日は婚約者の一人として、考えながら一日を過ごしてごらんなさい。少なくとも、向こうはそのつもりでお誘いされたんですから」
なるほど。婿としてふさわしいかどうか見極めてこいって話か。
でもうちの方が家格が下となると、私が嫁としてふさわしいかの話になるかもしれない。
「一つ伝えておくけれど。もし一日を過ごしてみて、貴女にその気がないのならアーヴィング公爵様から婚約を申し込まれても断れるだけの力がレリオーズ侯爵家にはあるわ」
「……それなら気が楽です」
「えぇ。だからと言って失礼な態度をとってよいというわけではないわよ?」
「は、はい」
にこりと微笑むクリスタ姉様の圧は相変わらずだ。
「ただ、身分を気にして卑下する必要は一切ないということ。……簡単に言えば、楽しんでらっしゃいということね」
「わかりました」
身分を気にしすぎないでいいとなれば、やっぱり婿としての見極めをするべきだろうな。
何をするかは全く想像つかないけど、姉様が楽しめと言うならそうしよう。
二日後の朝。
ゆっくり寝ようと思っていたら、専属侍女達に叩き起こされた。
「何を寝ていらっしゃるんですお嬢様! ささ、早く起きてください!」
「まだ寝ててもいいだろ……」
公爵様が来るのは四時間後だぞ? 少なくともあと一時間は寝ていたい。
そう思っていたのに、侍女達に布団を引っぺがされていく。
「いけません! 今日は時間をかけて着飾らなくては‼」
「男性とお出かけなさるなら、今日は世界一美しくするのが私達の役目」
「もっとよもっと、お相手を射止められるほどにしましょう‼」
私に仕える三人の専属侍女が代わる代わる声を上げて準備を整えていく。
三対一で勝てるわけもなく、私はあっという間に起こされ、着替えさせられ、顔と髪を整えられた。
嵐のような侍女達だ。
「とってもお素敵ですわお嬢様……!」
「これならお相手様もきっと射止められますよ」
どうして私が相手を射止める前提になっているかは知らないが、私は朝に弱く反論する力もなかったのでそういうことにしておいた。
少し経つと、アーヴィング公爵様は宣言通り馬車で迎えに来てくれた。
家族に見送られながら、私は馬車に乗り込んだ。
「今日の装いはとても素敵ですね」
「ありがとうございます。公爵様も、よくお似合いかと」
昨日クリスタ姉様に叩き込まれた、男性にエスコートされる練習や立ち居振る舞いを思い出しながら返していく。
(褒められたらまず返さないとな)
公爵様は褒め言葉が嬉しかったのか、口元をきゅっとさせた。
馬車が動き出すと、私は外を眺めながら目的を尋ねた。
「今日は何をするんですか?」
「良いお店を予約していますので、お食事を。もし他のことが良ければ」
「食べることは好きなので、とても楽しみです」
「それはよかった」
公爵様は相変わらず目つきこそ鋭いものの、声色や所作、今感じる雰囲気は間違いなく品格者だった。
(単純に勉強になるな)
無意識に公爵様をじっと観察していれば、公爵様の頬がほんのりと頬を赤くなり始めた。そしてゆっくり目を逸らされた。
「レ、レリオーズ嬢。その、あまり人に見られ慣れてないので」
「あっ、すみません」
これは配慮が足りなかったなと思いながら、慌てて目をつむる。
きっと目線に慣れていないんだろう。
「……レリオーズ嬢。目は開けていただいて大丈夫です」
「そうですか」
「はい。目が合うのに慣れていないだけなので」
「それなら」
ぱっちりと目を開けながら、視線は下の方に向けておいた。
「申し訳ないです。私の身勝手で」
「いえ。慣れないことは少しずつ慣れるべきですから。……少しずつなら見ても大丈夫でしょうか」
「はい。よろしくお願いします」
いい機会なので、少しでも公爵様の誰にも見られないという当たり前を崩したいなと思った。
ちょうど許可をもらったところで、レストランに到着した。
馬車が止まると、先に公爵様が下りた。続けて下りようとすると、公爵様から手を差し出される。
(……これは昨日勉強したところだ!)
エスコートの一つで、男性から手を差し出されたらその手を取る。優しく重ねるだけでいいとクリスタ姉様に言われたのを思い出しながら、その言葉通りに手を置いた。
「では、行きましょう」
「はい」
まるでこちらを見ていそうな声色なのに、ちらっと見上げてみれば公爵様はお店の方を見ていた。慣れていないのもわかるし、照れているのも感じる。
(……なんか面白いな)
年上で大人の余裕があるように見えて、どこか初々しさもあるように見える公爵様。そのちぐはぐさに興味が強まっていった。
さすがはアーヴィング公爵様なのか、ただのレストランではなく明らかに高級そうな上に個室へ案内された。
食事が運ばれてくるまでの間、私は一つ気になることを尋ねた。
「どうして今日誘ってくださったんですか?」
「レリオーズ嬢ともう少し話したくて」
「それは……純粋に嬉しいです」
公爵様の目線は私の手元に向いていることを確認しつつ、私も同じように手元を見るよう心掛けた。
「レリオーズ嬢。私はあまり遠回しに言うことができないので、直接聞いてしまうのですが……年上は婚約者として選択肢に入るでしょうか」
声色が少し震えているのがわかった。
正直に言おう。年上か年下かはあまり興味がない。それよりも、臆せずはっきりと聞きたいことを聞いてくれる男の方が好みだ。
ただ、この価値観が貴族らしいかはわからなかったので、隠すことにした。
「入りますよ」
「そうですか……!」
随分と嬉しそうな声が聞こえた。
ちらりと目線を上げれば、公爵様はまだ私の手元を見ていた。
話を広げようとすれば、すぐに食事が運ばれてきた。
「凄く美味しいです」
「お口に合ってよかった」
公爵様は目線を固定していたようなので、私も目線は手元に固定した。それでも少しなら見て良いと言われたので、チラリと目線を上げる。
(伏目になると、鋭さは半減するんだな)
ほんのりと優しい雰囲気が見えるなと思いながら食事を終えれば、その後のエスコートも非常にスマートだった。段々緊張が抜けて来たのか、私の方を見るようになってくれた。
「それでは今日はこれで。レリオーズ侯爵邸にもどりましょうか」
「……はい」
もう終わりなのか。そう素直に感じてしまった。
てっきり一日を渡したつもりだったので、日が暮れるまでは一緒にいられると思ったが違ったようだ。
こうして私は屋敷へと送り届けられた。
「レリオーズ嬢。また、お誘いしてもよいでしょうか」
「はい。いつでもお待ちしております」
公爵様の乗った馬車を見送ると、私は屋敷の中に入った。そこにはクリスタ姉様が立っており、私を迎えてくれた。
「おかえりなさい、アンジェ」
「ただいま戻りました」
「お疲れ様。……どうだったかしら?」
どう、というのは恐らく婿としてはどのように見えるのかという話だろう。
「そうですね……私の目には魅力的な方に映りました」
「そう」
クリスタ姉様の笑みを見る限り、求めていた答えのようだ。
結婚とかはまだ実感が湧かないままだし、恋愛はよくわからない。
だけど一つ明確なのは、もう一度公爵様――ギデオン・アーヴィング様に会いたいということだった。
ここまでお読みいただき誠にありがとうございます。二人の恋模様の続きを書こうと、連載版を開始いたしました。こちらも合わせてよろしくお願いいたします。