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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

バースデーは百合色シャンパンで

作者: 芝井流歌

 

 スマートフォンのアラームがけたたましく鳴っている……。上下へばりついている瞼をやっとこさ開き、眩しいディスプレイの停止ボタンをつっついた。

 4時。世間様のほとんどはまだ眠りの最中であろう時刻だ。あたしだってまだ眠っていたい。しかしそうも言ってられない。大あくびをしながらのそのそ身を起こした。

「あれ……?」

 昨夜23時、一緒にベッドに入ったはずの恋人の姿がない……。おかしい。泊まりにきたはずの茉莉花まりかが隣にいない……。

 一応、掛け布団に手を差し入れてみる。めくってみる。ベッドと壁の間に落ちていないか覗いてみる。ないとは思うが、蹴り飛ばしていないかベッドの下も覗いてみる。いない。

 まだ陽の当たらない室内に目をこらしても姿はない。確かに昨夜は一緒に寝たはずなのに……あたしは寝ぼけているのだろうか?

 5月27日、あたしの誕生日。目が覚めて1番に会いたいからという理由で、去年も昨夜も泊まっていってくれた茉莉花。今日はその日だ。一応日付を確認する。スマホのディスプレイには、確かに5月27日と表示されている……。

 首を傾げてもいられない。とりあえず支度をしなくては。今日はパン屋でバイトの日だ。平日はその後9時から学校へ。放課後は居酒屋でのバイトも控えている。幸いにも今年の誕生日は土曜日なので学校は休みだ。

 専門学校はお金がかかる。うちは貧乏なので親には頼れず、あたしは学費と家賃、生活費やその他諸々を自分で稼がねばならない。毎日めまぐるしいが、パン屋も居酒屋もまかない付きなので有り難いことこの上ない。

 こめかみをぽりぽりしながら、よっこらしょっと立ち上がった。改めて見渡しても茉莉花の姿はない。生まれつきの赤毛が指の間でさらさらと踊った。

 バカ茉莉花め。あたしがバイト休めなかったからって、いじけてこっそり帰ったわけ? こっちだって休みたいのはやまやまだっつーの。なにが悲しくて、二十歳の誕生日の朝っぱらからバイトに行かなきゃならないのよ……。

 それでも、朝番に入れば焼き立てパンがもらえる。貧乏学生にはこれ以上にない嬉しい条件に負けてしまうのだ……。

 バカ茉莉花のお仕置きは後で考えるとして、ひとまず支度をしなくては……。

 1Kのボロアパートなので、洗面台は便器とバスタブの間。両サイドに飛び散らない程度の水圧でバシャバシャと顔を洗った。

 電気ケトルのスイッチを入れ、桜模様のマグカップにスティックコーヒーを入れる。食器棚でお留守番のラベンダー模様のマグカップが、今日はちょっと寂しそうに見えた……。寂しいのはこっちだっつーの、バカ……。

 猫舌のあたしは、カップにお湯を注いでからメイクを始める。ローテーブルに鏡をセットし、プチプラながらも優秀なコスメたちを並べた。

 下地とファンデ、アイライナーを終え、今度はマスカラを手に取る。半目でマスカラをまつ毛に通した瞬間、鏡の中の風景に違和感を覚えた。

「ん?」

 部屋にあるはずのない物が映っている……。

 半目だからだろうか? 有り得ない物を見たような気がする。

 ……いやいや、きっと気のせいだ。もしくは見間違いだ。あたしは上瞼に集中し直した。

「……くぅん」

 背後で犬の鳴き声……のような音がした。思わずマスカラの毛先が左目にぶっ刺さった。

「いっ……たぁ……!」

 角膜反射で両瞼がギュッと閉じた。痛い。普通に痛い。ついでに、乾ききっていないので下瞼にもしっかり上下対称のまつ毛が描かれたと思われる……。

「くぅん」

 また、犬の鳴き声……のような音がした。

 涙がにじむ左目を残し、恐る恐る右目で鏡を覗くと……。

「い、犬っ?」

 あたしの肩越しに、茶色い子犬がいた。チワワが、チワワが、チワワがこっちを向いている。まん丸な大きなくりくりお目々で、真っ直ぐこちらを伺っている……!

「なにっ? なに、なにっ? え、え? 本物っ?」

 何度も瞬きをして、二度三度鏡を覗く。マスカラをぶっ刺したから錯覚が見えているのだろうか? いやいや、刺す前から見えていた……。

 依然としてチワワはあたしを凝視している。あちらは瞬きひとつせず凝視している。片時も逸らさず凝視している。

 まさか、まさかまさかとは思うけど、この子犬はもしかして、もしかして茉莉花からあたしへの誕生日プレゼント……?

 だとするとバカ茉莉花のやつ、あたしが朝起きてびっくりするだろうとサプライズのつもりで置いていった?

 ……やりかねない。あのバカのことだから、あたしが喜びそうなことは、後先考えず実行することがあるし……。

 だからって……。

「どうしろっつーのよ、あのバカっ!」

 勢いよく振り返ると、チワワはビクッと首をすくめた。改めて目が合う。本物だ。本物のチワワの子犬だ。

 ペット可の物件が増えているご時世だが、このアパートがもちろん可のわけがない。下階のテレビの音だって、隣の笑い声だって聞こえるほどのぺらぺら物件なのだ。動物の鳴き声など筒抜けになること間違いなしだ。そんな物件でどうやって子犬を飼えと?

「く、くぅん……」

 怯えて鼻を鳴らしている。若干、目も潤んでいるように見える。よく見ると首輪の代わりのつもりか、茉莉花ご愛用の銀のバングルが付けられていた。間違いない、あいつの仕業だ。

 ……まぁ、この子犬に罪はない。こっちだって鼻を鳴らしたいところだが、バイトに行く前にこの子犬をどうするか考えねば……。

「んもぅ……」

 いや、考えるまでもない。あいつを呼び戻して預かってもらわなければ。あいつんちはお城のような豪邸だし、子犬の1匹や2匹、いや20匹くらい飼えるだろう。

 サプライズだろうがプレゼントだろうが、ここでは飼えないのだから引き取ってもらうしかない。あたしはスマホのリダイヤルから、茉莉花の番号をタップした。

 すぐにプルルルル、と耳音で呼び出し音が鳴り出す。……と同時に、ジャカジャカとやかましい音楽が部屋中に響いた。

 その曲には聞き覚えがある。茉莉花のスマホの着信音だ。もしかしてあいつ、スマホを忘れて帰った? あたしとチワワは、同時にその音源に向いた。

 ベッドの下が光っている。寝ぼけ眼で覗いた時には気付かなかったが、確かにあのデコデコにデコられているスマホは茉莉花の物だ。あたしは片方パンダ目のまま、それを拾い上げようと手を延ばした。

「わんっ」

 小さく鳴いたチワワが、あたしより先にお手つきした。タイミングといい手つきといい、まるでカルタか百人一首か。

 チワワはスマホに片手……いや、片足を乗っけたまま、何かを訴えているかのような目つきであたしを見上げている……。あたしはあっけにとられながらも、ひとまず通話のキャンセルボタンをタップした。

「……わんっ」

「……な、なに? 触んなって言いたいわけ?」

「わんっ」

 気のせいだとは思うのだが、最後の「わん」は、こっくりと頷いた……。いや、絶対気のせいだとは思うのだが、かなりはっきりとしっかりと頷いていた……。ように見えた……。

「ってゆーか、どうすんのよー」

 スマホを忘れて帰ったということは、すなわち茉莉花と連絡が取れないということだ。

 なんてこった。バイトは5時からだ。今から超特急で支度したとしても、一度茉莉花んちにチワワを返しに行く時間なんてない。

 第一どうやって連れて行くのだ。リードもない。キャリーケースもない。そもそも始発がない。リードもキャリーケースも始発もあったところで、朝5時前からピンポンピンポンできるはずもないが……。

 かといって、バイトから帰ってくるまで4時間ちょいもある。その間、このチワワを残し外出できるわけもない。ご飯は? トイレは? ペットなど飼ったことのないあたしはパニクる一方で……。

「わんっ」

「うるさいっ、ちょっと静かにしてて!」

 あたしはくるりと背中を向けた。熱い視線を感じたまま、あたしは妹の夏音かのんの電話番号を探した。

 こうなったら妹に留守番……いや、犬番をしてもらうしかない。姉妹といえど非常識な時間だが、許せ妹よ。

 焦りでもたつく手元。やっと辿り着いた夏音の電話番号。発信ボタンに触れようとした瞬間、にゅっと延びてきたふさふさの棒にはばまれた。

「……え?」

 画面は連絡先一覧に戻っていた。いつの間にか膝元に来ていたチワワと目が合う。ふさふさの棒はつまり、チワワのか細い前足だった……。

「なに……すんの? え? なに、なに?」

「わんっ」

 当たり前だが、チワワは相変わらずわんしか言わない。そりゃそうだ、犬なのだ。なのにどういうわけか、あたしの行動を妨げたように思える。人間の行動を察知して、電話をかけさせまいと阻止したように思える……。

「あは、あはは……まさかねぇ。分かったから、遊んでほしいの分かったからあっち行っといで? 今遊び相手呼んであげるからねー」

 その人間じみた行動はかわいい。もしかしたらおりこうわんこなのかもしれない。バカ茉莉花よりもかしこいのかもしれない。あたしはちょっとだけ愛着の沸いたチワワの頭を一撫でし、もう一度妹の連絡先を呼び出した。

「わんっ、わんわんっ」

 せわしなく吠え出すチワワ。なんなのよっ、とそちらを向くと、チワワの足元にはどうやって持ってきたのかデコデコスマホが落ちていた。前足でそれをぐいぐいとあたしに押しつけてくる……。

「な、なにっ?」

 さっきから何度言っているだろう。驚きの連続だから仕方がないが、デコスマホに視線を落としたら今度こそ驚きがマックスになった……。

『夏音だけは勘弁してー』

 ……そう、ディスプレイに映っている……。

 正確にはメッセージアプリのテキストフィールドだ。それも、あたしと茉莉花のトーク画面……。

 あたしが読んだのを確認したチワワは、肉球の先を器用に使って送信ボタンを押した。1秒遅れてあたしのスマホがピロンと鳴る。恐る恐る開いたメッセージは、隣のデコスマホと一語一句同じ文章が反映されていた。

「ど、どういうことっ?」

 時間がない。飼えないのにプレゼントの子犬がいる。出かけられない。頼みの綱の妹への電話は、チワワによって憚れた。そして、そのチワワからメッセージが届いた……!

「わんっ」

 得意気に見上げてくるチワワ。逆にあたしは開いた口が塞がらない。

 茉莉花んちは確かにとんでもない金持ちだ。だからって、スマホを扱えるチワワっていくらなの? いくらで買ってきたの? 何百万とかで買えるものなの?

「わんわんっ」

 驚愕のあまり、思考が別の方向に飛んでいたあたしに、またもチワワがデコスマホをぐいぐいと押しつけてきた。

『ぼくもびっくりした。夜中目が覚めたらこうなってた』

 デコスマホに打ち込まれたメッセージが、またもピロンと届いた。あたしの視線は2台のスマホ、それとチワワのまん丸お目々の間でランダムに行ったり来たり。

 そんなあたしを見上げていたチワワは、何かを思いついたようにハッとなった。そして前足の先でいそいそと入力を始めた。

『あ、第一声で言ってくんなかったーとか怒られるから先に言っとくよ。誕生日おめでとう、汐音!』

「……は?」

『怒ってる? 怒んないでよね、先に言ったぞ?』

 30センチも離れていない距離から、次々とメッセージが届く。事態を把握したようなしてないような、認めてしまって大丈夫なのかと自分の分析力を疑う……。

 あたしの反応を伺っていたチワワの表情が、どんどん怯えを含んできた。どことなく面影が、あいつと重なる……。

「びっくりしてんだっつーの……。あんた、もしかして茉莉花なわけ……?」

 わんの代わりにこくこくと頷くチワワ。そうは言われても……受け入れがたい現実に、頭を抱えた。

「う、嘘でしょっ? サプライズでしょ? どこかに隠しカメラがあって、あたしのこと後で笑うつもりなんでしょ? それとも……」

「くぅん……」

 チワワの尻尾が垂れていく。眉毛はないけど、眉毛があったらきっとハの字になっているであろう寂しそうな顔になった。

『ぼくもそうだったらよかったって思うよ。せっかくの汐音の誕生日なのに、これじゃ一緒にケーキも食べれないや』

 新しいメッセージは切なさがたっぷりだった。未だ信じがたい状況だが、あたしもいくらか冷静さを取り戻してきた。

「いつから? いつからチワワなの? 寝る前までは茉莉花だったじゃない。ほんとはずっと前からチワワだったわけ?」

 チワワは大きく首を横に振った。バングルがシャンシャンと鳴る。だんだん慣れてきたのか、文字入力が早くなってきた。ちょっとかわいい。

『いや、初めてだよ。さっきも言ったけど、夜中目が覚めた時にはもうこの姿だったんだ。暗いしよく見えなかったから、多分犬か猫だろうってことだけは分かった。チワワだって分かったのは、汐音が鏡出した時だよ』

 なるほど……と頷きそうになって思いとどまる。そもそもだ、そもそもなぜ人間が子犬になってしまったのかという最大の疑問が解決していない。

 おかげさまでとっても目が覚めた。頭も冴えた。あたしは鏡の前に座り直し、冷めかけたコーヒーを一口含んだ。いつも通り苦かった。

「……で、どうすんの?」

 チワワは、茉莉花は、困ったように首を傾け、『どうするって言われてもなぁ……』とメッセしてきた。

「会話はスマホでなんとかなるとして、一生このままチワワライフ送るわけにいかないでしょ? 大学はどうすんのよ。数日はあたしんち泊まってるってことにしていいけど、あんたんちのお母さん心配症だから何言われるか……」

『ぼくだって汐音がぐーぐー寝てる間に色々考えたよ? でも犬になった原因が分からない限り、戻り方も分かんないじゃん。もう一晩寝て、起きたらいつの間にか戻ってましたー! 的な展開になるとも限らないし』

 今度は呆れ顔でため息をついているキャラクターのスタンプ付き。中身は茉莉花なので当然なのだが、見た目がキュートな子犬ちゃんなので、スタンプとのギャップにキュンっとしてしまった。メッセ受信通知音は続く。

『だからさ、ちょっと試してみようよ。チューしてみて?』

 チワワはあたしの腿に前足を乗せ、つんと鼻を突き出してきた。かわいくて吹き出しそうになるのをこらえ、「どこに?」と尋ねた。

「だってさ、これは鼻でしょ? キスって本来、口にするものじゃない」

「……わんっ」

「やってみろって? ……分かったわよ」

 あたしは少量ペットボトルほどの重さしかないチワワを抱き上げ、とりあえず唇らしきラインにチュッと口づけた。しばらく見つめ合う。……が、何も変化はない。そのうちチワワが後ろ足をばたばたしだしたので、デコスマホの前に下ろしてやった。

『おかしいなぁ。きっと心がこもってないんだよー! いいか? おとぎ話では昔から、王子様のキスでお姫様がだな』

 チワワはそこまで打って、送信ボタンの代わりに削除ボタンを連打した。あたしのジト目に気付いたらしい。

「とりあえずバイト行ってくるから、あんたはベッドでもう一回寝てみてよ。おとぎ話でもラノベでも夢オチってのはセオリーでしょ?」

 冷静になればなるほど、茉莉花が犬化したことよりもバイトに遅刻してしまう焦りが濃くなってきたあたしは、目をひんむくチワワに背を向け、マスカラのやり直しに勤しむことにした。

「く、くぅんくぅん」

「……」

「くぅんくぅん」

「うっさいわね。時間ないんだから、しっしっ。いい子で待ってないと、ドッグフード買ってきてあげないわよ?」

「きゅぅぅぅぅん……」

 その後もくんくんと鼻を鳴らし続けるチワワ。それどころではないあたしは鏡と睨めっこ。メイクを手早く終わらせ、時計をチラ見しつつクローゼットから本日の洋服を引っ張り出した。

 チワワも時計を見て焦り出している様子。跳ねるように駆け寄ってきて、あたしの足元でぐるぐる回っている。

「よしっ、じゃあ行ってくるからちゃんと寝てるのよ? 9時前には帰って来るからね?」

 トートバッグに片腕を通しながらよしよしすると、チワワはぷるぷると首を横に振り、またもスマホを滑らせてきた。

『おいていくのかよー! 起きて戻ってなかったらどうすんだよー!』

 送信ボタンを押そうとしているが、あたしが見えなかったふりをしてバッグへスマホを差し入れると、「わんっ!」と吠えてジーパンの裾に噛みついてきた。

「ちょっと放しなさいよっ。急いでんのよ、こっちは」

「ぐるるぅ……」

「威嚇したってダメ! おとなしくしてないと閉め出すわよ? いいの?」

「……きゅぅぅぅん」

 しぶしぶ口を開けたチワワ。しょんぼり尻尾を垂らしてうるうるしている。

「あたしだっておいていきたくはないわよ。ただの子犬だったらね? でも茉莉花ならいいこでお留守番できるでしょ?」

 しゃがんで顔を近付けると、チワワはもう一度「きゅぅん」と鳴き、あたしの鼻にしっとりした鼻先をくっつけてきた。

「いいこいいこ。じゃあ行ってくるね」

 バイバイ、と手を振って玄関へと向かうと、チワワはとてとて後追いしてきた。だがもう鼻を鳴らすことはなく、ただじっとつぶらなお目々で見上げているだけだった。

 扉を閉め鍵をかけてそっと中の様子に耳をそばだてた。小さな爪がフローリングに当たるかつかつという音が遠ざかっていく。諦めてベッドへ行くのだろう。あたしは大きなため息をひとつして、陽が明け始めた街中へと急いだ。

 バイトは調理補助だ。オーナーが手作りする横で、コロッケやウインナーを挟んだり、フルーツなどを乗せていくだけの単純作業。不器用なあたしでも、もくもくとできるので有り難い。

 出来上がったパンたちを商品棚に並べ終えれば、開店時間まで待ってましたの朝食タイム! 好きなパンを1人2つまで選ぶことが許されている。

 どれもおいしいので選びがたいが、子犬は何パンなら食べれるのかな……と、いつも以上に悩んでいたら「汐音ちゃん、そんなにお腹空いてるなら、今日は3つ食べていいよ?」とオーナーに笑われた。

 苦笑いしながらも遠慮なくいただく。生地はともかく、ウインナーロールなら一番食べれそうかな、と1つお持ち帰り。あとの2つはぺろりと休憩室でいただいた。

 開店は8時。レジ打ちの間も、品出しの間も、通勤前の常連さんに行ってらっしゃいしている間も、常に涙目のわんこが脳裏を過ぎる。

 何してるかな? ベッドで寝たのかな? 元の茉莉花に戻っているかな……。おきざりにした負い目が時間と共に増幅していく……。

 平日は8時30分きっかりにあがってダッシュで学校へ向かっている。「今日は土曜日だよ? それともデートかい?」と茶化すオーナーに笑顔でお先に失礼しますをして、ダッシュでアパートへリターンした。

「ただいまぁ」

 息を弾ませて扉を開いたが、お出迎えの姿はない。いじけてふて寝しているのか、元に戻って家に帰ったか……。まぁ後者はさすがにないかな、と思いながらも急いで靴を脱ぎ捨てた。

 そっとベッドに近付く。ど真ん中で丸くなって眠っていたのは、チビっこいわんころだった。ふーっと肩が下がる。同時にトートバッグがずり下がっていった。

 それでも、まん丸お目々を閉じて幸せそうに眠っている姿が愛おしくて、起こさないようにそっと隣に腰掛けた。小さな身体が上下している。無防備な肉球もお耳も温かい。吠えてくれさえしなきゃ、ここでこのまま一緒に暮らすのもいいかな……なんて笑みがこぼれた。

 と和んでいる最中、ジャカジャカとやかましい音楽が響いた。茉莉花のデコスマホだ。あたしも相当驚いたが、人間よりも遥かに耳がいいのであろうチワワは文字通り飛び起きた。

「きゅ……」

「ただいま。出なくていいの? ……って、無理か」

 あたしが笑っていると、寝ぼけ眼のチワワは膝に乗ってきた。温かい。茉莉花の体温よりも温かくて気持ちいい。喉元をぐりぐりしてやると、猫じゃないんだぞ? と言わんばかりにぷるぷる首を振られた。

 着信音が鳴り止んでからデコスマホをチワワの手元に置いてみた。ディスプレイには『不在着信 かあさん』と表示されている。チワワはそれにはなんの反応も示さず、今朝のようにメッセージアプリを開いて『おかえりー!』とにこにこスタンプ付きで送信してきた。

「やっぱ、ただ寝るだけじゃダメだったかぁ」

『残念だけどそうみたいだね』

「とりあえずご飯にする? 食べれるか分かんないけど、ウインナーロールもらってきたよ。あと……牛乳なら飲めるかなぁ」

『いいねぇ! さすが汐音!』

 ぱたぱた揺れる尻尾もかわいい。抱っこしたまま台所へ行き、「ちょっと待っててね」と冷蔵庫の前で下ろした。

 ふと黒汐音がにょっきり顔を出してきた。

 ずっとチワワのままなら、茉莉花の浮気ぐせからも不安からも嫉妬からも開放されるじゃない? なら、戻る方法なんて考えなくても……。

「わんっ」

 ドキッとして、深皿に注いだ牛乳をこぼしてしまった。ヨコシマなことを考えていたからだ。慌てて布巾で拭き取り、改めて牛乳パックを取り出した。

「……ん?」

 牛乳パックの隣に入れておいたはずのシャンパンが減っていた。口を開けていなかったはずのシャンパンが。今夜あたしに飲ませたいからと茉莉花が持ってきてくれたシャンパンが……。

「……茉莉花ぁ?」

 あたしは今度はビンを手に取った。半分ほど中身の減ったシャンパンのビンを。

 チワワがギクッと首をすくめた。やっぱり……というか、犯人は1人しかいないのだけど。あたしがジト目で見下ろすと、チワワは気まずそうに目を逸らした。

「あんた、あたしにくれた物を勝手に飲んだわけぇ? 1人でぇ? 犬のくせにぃ?」

 高速でぷるぷる首を振るチワワ。

「じゃあ誰だっつーのよ。昨日の夜持ってきたのに、他に誰が飲んだってゆーわけぇ?」

 チワワの顔が固まる。あたしに問い詰められている時の茉莉花とそっくりだ。いや、中身は同じなのだから、当たり前のようなそうじゃないような……どうでもいいけど。

 考えてみれば、体長20センチもない子犬が、どう頑張ってもジャンプしてビンまで届くわけがない。猫ほどのジャンプ力があったとしても、冷蔵庫を開ける力があるわけがない。百歩譲って開けられたとしても、さすがにコルクまでは……。

「もしかして……昨日、寝る前に飲んだ?」

 あたしはかがんでチワワのまん丸お目々を覗き込む。初めは目を泳がせていたチワワだったが、観念したのか、上目使いをしながらゆっくり頷いた。

 茉莉花は9月生まれだ。世の中、未成年でも平気で飲酒する輩もいるが、やっぱりあたしだけ飲むのも忍びないから、9月になったら一緒に飲もうねと昨夜約束したばかりなのに……!

「ふーん? あたしが寝ついてから飲んだわけね? いいわ、釈明のお時間をあげる」

 怯えるチワワの胴体を片手で掴み上げ、アプリが開いたままのデコスマホの前に下ろすと、仁王立ちで見下ろすあたしの顔色をちらちら伺いながら、恐る恐る一文字ずつ打ち込んた。

『怒らないで聞いてくれる?』

「……」

『えっとね、汐音が寝付いた後、11時だったからぼくはまだ眠くなくてね、なかなか寝付けなくてね』

「……んで、飲んだの?」

 チワワは送信ボタンをタップし、こっくりと頷いた。

「はーん。自業自得じゃないの? 天罰じゃないの? よりによってあたしの誕生日に約束破った罰よ。きっとそうだと思わない?」

『ごめんなさい』

 伏せをしているようにしか見えないが、本人的には土下座のつもりなのだろう。あたしはその姿をしばらく黙って見下ろしていた。

「いいこと思いついちゃった」

 チワワがビクッと見上げてきた。目が合う。ニヤッと笑ってやった。あたしは再びむんずと片手でチワワを掴み上げ、片手にシャンパンを持って浴室へ向かった。

「そんなに飲みたかったのなら、浴びるほど飲ませてあげるわよ」

 嫌な予感を察したようで、チワワがじたばたともがき出した。きゃんきゃん鳴き出す。あたしは構わずバスタブに放り込み、お目出度く頭からシャンパンをぶっかけてやった。

「きゃうーん!」

 小さな身体をぶるぶると勢いよく振るので、シャンパンをかけ終えたあたしにもシャンパンしぶきが飛び散ってきた。あたしは思わず目をつぶり背を向けた。ぶるぶるの音がしなくなったので、「ったくもう!」と振り向いたあたしが見たものは……。

「へっくしょんっ!」

 ……全裸の、茉莉花だった……。

「あ、あはは……。ほんとに元に戻るなんてね……。あはははは」

「笑いごとじゃないぞ! 酷いじゃないかぁ。へっくしょんっ!」

 抗議の目を向けてきた茉莉花だったが、生まれたままの自分の姿に気付いたらしく、「うわぁ!」とバスタブに丸まった。

「なによ、さっきまでもずっと裸だったくせに。あ、ちゃんとシャワー浴びてから出てきてよね? 部屋がベタベタになっちゃうから」

「わ、分かったからバスタオルは用意しといて?」

「えー? 聞こえなーい」

 恋人のくせに、いつになったら隠すのをやめるのやら……。

 早く出てけよぉと恨めしげな視線に、あたしはなんだか急にバカバカしくなって「はいはい」と扉を閉めかけた。

 だが、ふと振り返る。

「茉莉花ぁ、あたしに何か言うことなぁい?」

「……ごめんなさい?」

「……バカ茉莉花」

 わざと勢いよくバタンと締めてやった。そのまま扉にもたれかかる。あちらも様子を伺っているようだったが、やがてシャワーの音がしてきた。

「おめでとう、じゃないの?」

 おきっぱなしのデコスマホと、ローテーブルにぽつんと佇むウインナーロール……。

 妙な朝だったけど、これはこれで茉莉花との楽しい思い出になった……のかな?

 でも、誕生日はまだ始まったばかり。

「あとで、ちゃんと言ってよね? バカ茉莉花」

 つぶやくとシャワーの音に混じって、茉莉花のくしゃみが聞こえた。




  ー完ー

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