玄関先にいる、死んだ虫
玄関先にいるゴキブリ
今日もまた、玄関前の白塗りにされた壁に虫が張り付いていた。虫の種類は季節によって変わる。ゴキブリ、てんとう虫、カミキリムシ、ガガンボ、どれも目に良い姿をしていないのはわかるだろう。
自分から彼らを殺すなんてことをするつもりはないが、出来るなら何か超自然的な力が働いて、壁に張り付くしか脳のない汚い妖精たちに引導を渡してもらいたいものだ。虫に知覚されないように体をみみずのようにうねらせて鍵を差し込む。
扉を開ける時にも注意が必要で、穏やかに、空気を撫でてあやすように開けなければならない。彼らは少し強く扉を開けるだけで、羽を羽ばたかせて住居へと入り込んでくるのだ。扉をそっと閉めて、背後を見つめる。
これで今日の重大な仕事は終わりだ。
[玄関先にいる、死んだ虫]
『スマートフォンのあの、フィルムつけなきゃいけないのあるじゃないですか。あれってめちゃくちゃ面倒臭いの分かります? ほら、あれ、白いぶつぶつしたのがミスったらできちゃうじゃないですか。気泡ですね、あれ。前に通販で頼んだんですよ、まあまあ高いの、多分二千円超えてたんじゃないかな。まあ、それが届いてスマホにつけるじゃないですか。そしたら、全くサイズが合ってなかったんですよ。驚いちゃって購入した時のスクショ見たら、あはは、凄い間抜けなんですけどね、そもそもの機種が違ったんです。あっ、大分違う話になっちゃいましたね、すみません。番宣の時間ってまだ残ってますか?』
『身西くん、もう残ってないよ! ほらあと10秒! パパッと宣伝しちゃいな!』
『あっはい、あの! 僕が今度主演を務めることになった棒グラフ探偵〜恋、悲、そして殺意〜が来週月曜日から放送されるので、良ければ見てほしいです!』
『はい、以上、身西克也さんでした。皆さん、良い週末を』
最近はこんなどうでもいい番組ばかりがテレビで流れてる。家に帰って疲れているのに、見る番組がこんなのしか流れていないんだ。まあ、何も見ないで真っ暗な画面を放置するよりはマシだけど。
『こんばんは、午後10時から始まる新感覚ニュース番組、ユアセレブレーションの時間です』
アレよりかニュース番組の方が面白いかもしれない。放送される事件には魅力的なものもあるからね。謎めいたものには底知れない魅力がある。クリスタルスカルの伝説だって、解き明かされるまでは魅力的だった。
『本日はゲストとして、身西克也さんにお越しいただきました。今が旬の若手スリム俳優さんです!』
『あ、どうも、ニュース番組は初めてですね。身西克也です。慣れないですが、まあ出来る限り頑張ります』
『あら〜、身西さんってばお言葉のアクセントもお素敵なのねぇ。孫がファンでね、嬉しい限りよ〜』
『高田会さん、ニュース番組なので、少し落ち着いてくださいよ。お孫さんもあなたの痴態は見たくないんじゃないですか?』
『失礼ね、あんたこそ頬が出っぱってるじゃない! この、深海魚! 出目金野郎!』
『話をずらさないで下さい、そんなに言われたらこっちだって黙っていませんよ? AD、とっととこのババアを姥捨山まで捨ててこい!』
『あの、姥捨山といえば何ですけど、家の近所を長時間十人のお婆さんが彷徨っていたっていう事件が前にありましてね。これって今度僕が出演させていただく棒グラフ探偵のプロットにも少し関わってくるんですけどね』
『ニュース画面に早く差し替えろ! ADの頭をカメラの角に5回ぶつけとけ!』
ほんとにこっちの方が面白くなるとは思わなかった。あとでまとめてyoutuuuにアップしとこ。こういうのって早い者勝ちだからね。冷蔵庫からコーラを出して直で飲みながらテレビを見る。ADの体の上部が活け作りのタコみたいになってるな、死ぬんじゃないか?
ゴンゴンとやかましくドアが叩かれる。こんな時間に一体誰だ? テレビでは老婆がアナウンサーに喉から食べられている。ドアの方はほっとこう。
『ADが死んでますよ中山アナ! 僕死体とは一緒の番組に出たくないです、共演NGなんですよ、死体』
『ADは人間じゃないから死体じゃないだろ』
『じゃあいいですけど』
『カメラに血がついてます。これじゃ番組無理ですよ』
『撮影担当の頭をカメラの中に入れろ! 目がレンズの代わりになるはずだ』
鉄が歪む、嫌な音がした。撮影担当が鋼鉄の四角形に凹凸のある顔面を叩きつけられ、目玉の神経が瞼の上から露出している。ぴくんと漏れた白い線が痙攣し、生命が揺れ続ける。インターホンが鳴った。ソファから立ち上がって通話ボタンを押すと、首から下を剃刀の刃の部分で作られた特殊な服で覆った男が見えた。
『剃刀は貴方のお宅にございますか?』
喉元に声が何度も擦って出てきたかのような掠れた声だった。
「無いですよ、帰らないと通報しますよ」
『じゃあドアを開けて中に入りますね』
「帰らないんですか?」
『貴方の鼻骨が丁度剃刀の形をしているので、貴方は私に嘘をついたことになるんです。嘘をついた人の家には入ることにしているんですよ』
剃刀には、髪と肌色の薄く切られたものが粘度を持って纏わりついている。テレビからは何かの破裂音が聞こえる。ドアは刃物で切りつけられる。
よく見ると、男は剃刀で出来た服の下にベージュの作業着を着ていて、手には角材も入りそうな細長い革製のケースを抱えていた。薄く壊れそうな刃はスッと革に線をつけ、風に吹かれてケースが開く。中には柄の長い金属製の剣が入っていた。
「それって剃刀じゃないですよね。信念が曲がってますよ」
『剃刀の刃を溶かして作ったので、剃刀です』
「溶かすって、剃刀を溶かしたんですか?」
『剃刀の刃を溶かしました』
「愛情がある人はそんなことしませんよ」
『歪んだ愛情もあります』
「そうですね」
『じゃあ、入りますね』
廊下を伝って衝突音が耳に入る。インターホンからは威嚇するように火花が散る様子が見えた。
『皆さん、一回落ち着きましょう。このまま警察が来るまで殺し合うつもりですか?』
『グラフ探偵のパイロット版流しましょうよ』
『裏方の奴ら全員死んでるぞ!』
『アナウンサーが無傷だ! 数で囲め!』
キッチンから包丁を取り出して玄関前に立つ。厚い壁を通り抜け、光る剣先が薄暗い玄関前に立った。バターを熱したナイフで切るように、滑らかにドアは形を崩す。剃刀が空いた穴から飛び出して指先を浅く切った。
『グラフ探偵、貴方はこの事件の全容が解けたと仰いましたね? では、今、ここでお聞かせ願いたい。なに、渋ることはないでしょう、何せ全容が解けたんだ』
『田島さん、簡単な事です。貴方の人格を数値化し、未来を予測したこのグラフを見てください。殺人97%、無罪0%、残り3%は愛です。これが指し示す答えは勿論……お分かりでしょう!!』
『わ、わたし、私は! あいつを殺すつもりなんてなかったんだ!』
『フッ……田島さん、続きは拘置所で….』
ドアの残骸を蹴り、男がそれに当たってよろめく。包丁を額に向かって投げたが、長く聳え立つ剣に弾かれた。柄の両端にあった男の手は器用に入れ替えられ、斜めに剣は動き出す。ドアストッパーに引っ掛かり、白いかけらを撒き散らして追ってくる。服の布を縫うように裂いた剣は、壁にぶつかって突き刺さった。
男は服についた剃刀を手に取って投げ、私の首をそのまま掴んで床に倒した。空いた手で男の首を掴んで力任せに押すと、靴棚に向かって男の頭は傾く。服についた剃刀が、腹を何度も切りつけている。男の頭が棚にぶつかってバウンドし、戻ってきた。焦点の合わない目をぎらつかせ、男の耳元を何度も殴りつける。硬い頭蓋骨が砕け、支えがなくなった皮膚が弛んで空気に触った。男は動かなくなって玄関先にぐったりと寝転んだ。
玄関先にいた虫が、死んでいるのが見えた。
「はい、以上が身西克也さん主演のオムニバスホラードラマ、『玄関先にいる、死んだゴキブリ』の一編になります」
「随分エキセントリックですね、身西さん、監督も兼任されてるとのことですが、何かこのストーリーを生み出すような経験があったんですか?」
「ああ、経験ですか、まあこれは創作ですからね。ちょっとした閃きで書いた物語なんで、経験なんてありませんよ」
身西克也はそう言うと、滑った刃が目立つ剃刀をそっと背広の後ろに仕込ませた。