1-8 オムライス
後ろに空いていた大穴が、いつの間にか塞がっている。
キッチンの汚れ一つ一つまで、全てが何事も無かったかのように元に戻され、ちゃぶ台だけが虚しく転がっていた。
そのちゃぶ台も、男が元の位置に置き直して空になったマグカップを静かに置いた。
「部屋の修復は完了した。じゃあな」
「待ってください」
玄関へ向かう男を引き止める。
納得もしていないし、聞きたい事もあるのに、このまま男を帰すわけにはいかなかった。
「なんだ?言っておくが、三つ以上の願いは叶えないぞ」
「そんな事より、あなた達一体何なんですか?」
「それはそいつに聞け。俺は忙しいんだよ」
男が顎をしゃくる。
促されて後ろを振り返れば、女が釈然としない表情で男を睨んでいた。
男の命令に口答えはしないが、やはり思う所はあるらしい。
「俺は別に何かして欲しくて助けたわけじゃ……」
再び男がいる方向へ向き直ると男は居らず、代わりに泡の粒がぱちぱちと弾けているだけであった。
ああ、これはこの女を押し付けられたな。
直感的にそう思った。
女も同じことを思ったのだろう。小さく舌打ちすると、弥一を鋭い眼光で睨んだ。
正確には睨んだわけではないのだろうが、猛禽のような瞳に見つめられると睨んでいるとしか思えないのだ。
「ああ、そうだ。きみ、名前は?」
「天音。お前は……弥一だったな」
「うん。怪我は大丈夫?」
「あ?ああ。どうやら、部屋と一緒に治してくれたらしい」
言いながら、天音が服をまくって見せた。
思わず目を逸してしまったが、大丈夫だと言いたかったらしい。
薄目で見た天音の体には傷一つついておらず、滑らかで綺麗な素肌だ。
それが妙に艶かしく思えて、弥一には目を逸らしたまま、「そう」と答えるのが精一杯だった。
天音が不思議そうに首を傾げる。
「何してんだ。……まあ良い。お前の願い事の件だが──」
言いかけた所で、ぐうと腹の虫が鳴いた。恐らく天音だろう。
驚いたように目を丸くして、腹を見つめている。
「何か作るよ。それから話そう」
天音が素直に頷く。
「腹が減るのは久し振りだ」
小さく呟いたのを弥一は聞き逃さなかった。
空腹を知らない程、良い暮らしをしていたのだろうか。
ココアも知らなかったくらいなのだから、もしかしたら、とんでもなく良い物を食べて暮らしていたのかもしれない。
だとしたら、今から作る物が口に合うかどうかわからない。
冷蔵庫に入っていた卵とウインナー、野菜の切れ端を取り出してから、弥一は軽い不安に襲われた。
程なくしてから出来上がったのはオムライス。
真っ赤なケチャップライスの上に黄金色に蕩けた卵を乗せ、皿の端に茹でたブロッコリーを添えた。
ココアですら難色を示した顔をしていたのに、これを食べるだろうか。
そう思いながら天音の前に皿を置くと、やはり首を傾げた。
「オムライス、食べたことある?」
「ない」
「だよなぁ」
予想通りだった。
スプーンを渡してやるが、やはり不思議そうに見つめている。
嫌な予感がする。
「スプーン、使ったことある?」
「ない」
「そっかぁ……」
これから色々と難航しそうだ。