9-2 番外編 とある平凡な男女の話(後)
幸せな毎日は子供たちが成人しても、新しい家族が出来ても、変わらなかった。
が、ある日突然、その日常は崩れた。
一つの臨時ニュースが凜花と見ていたテレビに映し出された。
【速報です。これから一ヶ月以内に、首都圏で大規模な地震が発生する模様です】
淡々と読み上げられた内容に、アナウンサーの声だけが響き、テロップが映し出される。
【緊急避難命令が発令されました】
そこに表示されたのは、この国の地図と、赤いバツ印が表示されたもの。
そのバツ印が付けられた場所に地震が起こるのだと、テレビのアナウンサーは機械的に説明をした。
一斉に混乱の渦になるかと思いきや、まるでそれをもっと前から予知していたかのように国は恐ろしくスムーズな対応を始めた。
移動に混乱が生じないよう、事前に指示があった複数の場所に人々は集められ、国が用意したバスやらヘリやらで避難は完了し、食料や水も住む場所さえ、何故か確保されている。
「一体、どういうことなんだ……」
智敦がようやく呟いたときには、既に避難は完了していた。
予告通りの大きな地震があったものの、予め避難が完了していた事で大きな被害は免れた。
それは、周りの人たちも同じようで、皆呆然としている。
集団で狸に化かされたような、そんな現実味がない中で、テレビは当然のようにいつもと同じ放送を始める。
奇妙な違和感を持ちつつも、いつの間にか誰もそのことに触れなくなった。
※※※※※※※※※
ぼんやりと、池に浮かぶウキを見つめる。
今や趣味の釣りを再開できる程に、生活は落ち着いていた。
地震から、もう三年も経っているから当然といえば当然だ。
そんな中で、智敦は昔見た映画の事を思い出した。
(あれは確かつまらないって笑い飛ばした映画だっけ)
突如何者かに支配された世界で、最初は登場人物たちが戸惑いや反乱を起こしていたものの、いつの間にかその支配に慣れて、昔の記憶を忘れていく。
最終的には主人公も……。そんな映画だった。
(俺も他の人達もあの映画のように色んなことを忘れている気がする)
現に、何不自由なく暮らしている今を当然のように受け入れている。
引っ越したマンションも中々良い所だし、近隣住民も良い人ばかりだ。
趣味の釣り仲間たちも、同じようなことを言っている。
それに……
(でも、凜花や子供や孫たちが幸せならそれでいい)
所詮、映画は映画だ。
奇妙な違和感を振り払い、釣り道具を纏めて智敦は自宅マンションへ帰ることにした。
「おかえりなさい、お父さん」
凜花は子供や孫が来ているときは智敦のことを「お父さん」と呼ぶ。
それがすっかり板についてしまい、二人だけの暮らしになっても変わらなかった。
「ただいま。あれ誰か来てる?」
「うふふ。皆お待ちかねよ」
食卓には5人分の食事が並べられている。
息子夫婦と、孫が来ていたのだ。
ニコニコと愛らしい笑みを浮かべて、孫が小さな手を広げた。
「おじいちゃん、おかえり!」
小さな体を抱き上げてやると、孫は声を上げて笑った。
その声に釣られたのか、台所から息子の敦が顔を出す。
「おかえり父さん」
物静かな息子、敦は若い頃の凜花によく似ている。
特に涼やかな目元はそっくりである。
性格は智敦に似て優しく、奥手だ。
だからなのか、敦の妻は活発で明るい。
そして週末には、一緒に孫を連れてよくここへ遊びに来てくれるのだ。
「お父さんも帰ってきたし、ご飯にしましょう」
息子夫婦と、孫と凜花と智敦。
家族5人で夕飯をとる。昔は当然の光景だったが、今では懐かしいとすら思う。
テレビを見ながら他愛もない話をして、美味しいご飯を食べる。
普通のことだが、それはたまらなく幸せだ。
年老いた今でも、こんなに幸せでいられるなんて子供たちに感謝しなければいけない。
テレビではニュースが流れている。
動物園でペンギンが人気だとか、何処ぞで強盗があっただとか、大した内容ではない。
だから、家族の誰も気にしていなかったのだが、ふと妙なニュースが流れた。
『次のニュースです。本日…………で、三十人の集団自殺が…………』
思わず、凜花も智敦も箸を止めてしまった。
三十人もの人が一斉に死ぬなんて、異常すぎる事件だ。
ニュースキャスターの言葉が続くと、自然と耳を傾けてしまう。
「エグいな」
口を開いたのは息子の敦だった。
それからスマホを取り出して、何やら調べている。
「ご飯中にスマホなんてやめてよ」
敦の妻が呆れたように声を出す。
それから敦は指を止めて、智敦にスマホの画面を見せた。
「父さん、集団自殺って多分この宗教だよ」
「宗教?」
「知らないの?ネットで前から話題になってたんだよ。ここの教祖が地震を予知したんだって」
「へぇ……」
「まぁ、信じてる奴もいるけど、大半はデマだって笑ってるよ」
そう言って敦は自分のスマホをポケットにしまった。
確かに、こんな話を信じろと言われても難しい。
しかし全く興味ない訳ではないのだろう、敦は何だか面白そうにしていた。
こういったオカルト的な物に興味があるのは、智敦の息子だからだ。
「敦は昔のお父さんみたいだねぇ」
そう言って凜花が笑う。
つられて智敦も笑うと、食卓は再び笑顔に包まれた。
夜中に、智敦はふと目が覚めた。
目が覚めたついでにトイレへ向かう途中、洗面所の鏡の前で凜花が立っているのが見えた。
「どうした?」
声を掛けると、物凄く驚いたように凜花が振り返った。
一瞬だけ、見たこともないような顔をしていた気がしたが、恐らく暗かったからそういうふうに見えただけだろう。
「智敦こそ……どうしたの」
「俺はトイレだけど。何かあったのかい?」
「いや、えーと、目が……ゴロゴロしてて」
「目薬、薬箱にあったと思うよ」
「お、おお……うん、そうだった。ありがとう」
歯切れの悪い返事だったが、特に気にせず、智敦は用を足すために洗面所を離れた。
凜花のおかしな行動は、そのたった一回だったが智敦は妙な胸騒ぎがしていたことを、死ぬ間際まで覚えていた。
凜花が体を壊したのは、それから5年ほど経ったころだった。
もう70を過ぎているのだ。今まで健康だったことがおかしいくらいだ。
孫も沢山できて、最近では智花の家族と同居の話も出ていた。
そろそろ引っ越そうかという矢先で倒れてしまったのだ。
「花梨ちゃん、凜花や俺と暮らせるの楽しみにしてたんだから早く治そうな」
「うん、そうだね」
花梨、というのは孫の名前だ。
病院のベッドの横で、智敦が入院用に持ってきた日用品の整理をしている。
「すぐ良くなるよ」
そう言って微笑んだ凜花が、家に帰れることはなかった。
※※※※※※※※※
凜花が亡くなってから、後を追うように智敦も倒れてしまった。
結局、同居は叶わず病院のベッドの上で智敦は昔の事を思い出していた。
楽しい人生だった。可もなく不可もなく、これ以上無いほどに幸せだったと心の底から思う。
きっと、もう長くはない。明日にでも死んでしまうだろう。
それでも後悔なんてものは一つもなかった。
(凜花、俺ももうすぐそっちに逝くよ)
そんなことを思いながら、目を閉じたとき。
聞き慣れた声がした。
「智敦」
霞む目をあける。
電気が落とされた病室で良くは見えないが、その声と姿は間違いなく凜花だった。
出会った頃と同じ、焦茶の長いストレートヘアと涼し気なシワ一つない目元。
何もかもが懐かしくて愛おしい。
「凜花……迎えに来てくれたのか」
その問いに、凜花の口元が笑う。
「違うよ、会いに来たんだ」
「どういうことだ……?俺は君と同じところには逝けないということか?」
「それも違うね。なあ、智敦。わたしは……いや、俺はさ人間じゃないんだよ。凜花っていうのも偽名なんだ」
智敦の言葉が止まった。
急にこんなことを言われれば、そうなるだろう。
しかし、少し考えてから智敦は昔読んだ本を思い出した。
「ああ、そうか、君は……俺に会う前に死んでいたんだね」
悲運の天才。
昔、そんな記事を昔読んだ。
天才学者が不老不死の薬を作ったから殺されてしまったという、フェイクニュースのような、都市伝説のような記事。
それは如何にも怪しいオカルト雑誌に載っていたのだ。
そこには学者の顔写真もあった。
名前は忘れてしまったが、出逢ったころの凜花と同じ顔で、同じくらいの歳だった。
初めて会ったとき、既視感があったのはこの雑誌のことを頭の片隅で覚えていたからだろう。
「ごめんな、今までで騙していたようなもんだ」
凜花と思われるそれがなんだか悲しげに笑ったのを見て、智敦は凜花の手を取ろうと腕を伸ばした。
それを見た凜花が智敦の手を取る。
いつもと変わらない、温かな手。
人間ではないと凜花は言ったが、そんなことどうでも良かった。
「君は俺の愛した凜花だよ。手もこんなに温かいじゃないか」
「……そうかい。そう言ってくれて嬉しいよ」
凜花が手を握り返す。
それから何か思い出すように目を閉じから小さく息を吐いた。
「俺が姿を借りたこの人間はさ、家族も友達も全部無くした可哀相なやつなんだよ。それに自己中心的で誰とも関わろうとしない。だから、俺が代わりに楽しい人生を演出してみたんだ」
本当に楽しかった。
そう言って、凜花は智敦の手をゆっくりと解いた。
もう出ていくつもりなのだろう。
だが、智敦は凜花にまだ伝えなければいけないことがある。
必死に手を伸ばそうとする智敦を、凜花は悲しげに見つめた。
「智敦、俺はあんたが好きだった。今でも好きだ。子供たちも孫も、みんな大好きで、すごく幸せだった。多分、今までで一番楽しかったと思う」
「……それは俺が言おうと思ってたんだけどな。君はいつもそうだ」
プロポーズのときだって、先手を打たれた。
口調が変わってもこういう所は変わらないのだろう。
申し訳無さそうに苦笑する凜花が、もう一つ言おうと思っていた事を口にする前に、智敦は声を出した。
「ありがとう、凜花。君といられて、俺は幸せだった」
凜花は何も言わずに俯いてしまった。
それから再びベッドの近くに来ると、顔を近付けて智敦の目を見つめた。
「……なあ、俺と一緒に来るかい。俺だったらあんたを若返らせてもっと長く生かしてやることが出来る」
縋るような瞳だった。
頷いてやりたかった。
それでも、智敦はゆっくりと首を振ると、凜花の頬に触れた。
「ありがとう。でも、このままで良いんだ。この人生は充分過ぎる程幸せだった。これ以上はバチが当たる」
「そう言うと思った」
「何人に断られたんだい。俺だけじゃないだろう」
凜花は「今までで一番楽しかった」と言っていた。
きっと、何度かこういう経験をしてきたのだろう。
「……あんたが初めてだよ」
「そうかな」
そう言うと、凜花が笑った。
智敦に背を向け、いよいよ病室のドアへ向かう。
これで本当に最後のお別れだ。
「凜花、一つだけ聞かせて欲しい」
ドアを開けた凜花の足取りが止まる。
「君の本当の名前は、なんというんだ」
振り返った凜花の顔を、ドアの隙間から漏れる非常灯が薄っすらと照らす。
青白いそれが妖しく照らす様は不気味で、一瞬、妖怪か悪魔のように思えた。
「ドッペルゲンガー。名前なんて無いよ」
そう答えると、ドッペルゲンガーは部屋から消えてしまった。
※※※※※※※
「ドッペルゲンガー、50年もどこに行っていたんだ」
新聞から顔すら上げずに問いかけてくるのは、自分と同じ顔の女。
いや、正確にはドッペルゲンガーがこの女を真似ているのだ。
「50年も経った?まあ何でも良いだろ。俺だってたまには人間の人生を謳歌したいの」
「それは私に対する嫌味か?」
「ひねくれてるねぇ、マスターは」
ふん、と女が鼻で笑う。
それから新聞から顔を上げ、まっすぐこちらを見た。
「遂に死ぬ方法を見つけた。手伝え」
「へえ、どうするの?」
「天界で、天女が一人追放されてこちらに落とされたらしい。そいつを探すぞ」
「天女ねぇ……願い事でも叶えてくれるのかい」
「さあな。しかし神の力なら私を殺すことができるはずだ。急ぐぞ」
そう言って女が椅子から立ち上がった。
白衣を翻し、焦茶のロングヘアーを靡かせる。履き潰した靴をカツカツと鳴らして部屋を出ていく背中を、ドッペルゲンガーは追いかけた。