8-4 月が綺麗
カレーの良い香りがする。
スパイスとバターとトマト。いつも作っている物とは違う、ちょっと手の込んだバターチキンカレーだ。
ちゃぶ台の上には人参と水菜のサラダが置かれている。
カレーの匂いと、サラダの甘酸っぱい爽やかな香り。そして窓からは少し冷たい秋風が吹き込んでいた。
カレーが出来上がるのを待ちながら、天音は窓の外を眺める。
弥一に恋人を作るという作戦は失敗した。
それなのに、心の奥底では何故か安心した自分がいる。
無意識にこの計画は強引で無謀だと思っていたのかもしれない。
窓から見える満月を眺めて、天音は軽い溜息をついた。
先はまだ長い。
それでも、前ほど嫌な気がしないのは、今日の満月が大きくて綺麗だからだろう。
こんなものが見られる人間界は、意外と悪くないと思い始めたのだ。
「天音、ご飯出来たぞ」
そう言って、弥一がカレーの盛られた皿を並べる。
天音は満月から視線を外さずに、後ろにいる弥一に声をかけた。
「弥一、今日は月が綺麗だな」
「えっ」
素っ頓狂な声と同時にスプーンが落ちる音が聞こえた。
振り返ると弥一が慌ててスプーンを拾ってから、台所へ洗いに行って、再び戻ってきた。
落ち着かない様子で、そわそわしながら目をキョロキョロさせている。
「急になんだよ」
「何がだ。今日は満月だから、綺麗だと言っただけだ」
「満月……?ああ、月か」
満月と聞いて、弥一がようやく落ち着く。
それから天音の隣に座り、同じように窓の外を見上げると、「ああ、綺麗だな」と笑ったあと、静かに呟いた。
「……死んでもいい、かもね」
天音に聞こえないような、小さな声。
案の定聞こえていなかったようで、天音は首を傾げた。
「なんだ?」
「何でもない。ほら、カレー冷めちゃうから食べよう」
誤魔化すように、弥一がカレーを食べ始めたので、天音は追及しないことにした。
それからはいつも通り、他愛もない話をして、風呂に入り、歯を磨いて、部屋の電気が消え、布団の中に入る。
「おやすみ」
押し入れの中にいる天音に声をかければ「ああ」という返事が返ってきた。
目を瞑って、しばらくすると天音の寝息が聞こえてくる。
弥一は相変わらず目が冴えてしまって、眠れずにいた。
カーテンの隙間から漏れる月の光をぼんやりと眺めながら眠気が訪れるのを待つが、その気配はない。
仕方なく、身体を起こしてみる。
温かい物でも飲もうと思ったのだ。
しかし、ふと押し入れで眠る天音に視線が行った。
月の光が淡く天音を照らしている。
白い肌は一層白く見え、絹糸のような金髪はきらきらと輝いて見えた。
(黙ってると御伽噺に出てくる天女様みたいだな)
その異質で繊細な美しさは人形のようでもあった。
だからだろうか、思わず弥一は天音の頬にかかる髪に、手を伸ばした。
瞬間、天音の瞼が開く。
「あ……ごめん」
伸ばしかけた手を引っ込める。
眠たそうに天音が眉根を寄せ、ゆっくりと身を起こした。
「どうした、また眠れないのか」
「まあ……うん」
「そうか。仕方のない奴だ」
そう言うと、天音は押し入れから降りた。
枕を掴み、弥一の枕の隣に置いて、布団の中に潜り込む。
それを不思議そうにぼんやりと眺めていた弥一に向って、天音は手を広げた。
「ほら、早くしろ」
「……え?なに?」
「一緒に寝てやるって言ってんだよ」
一瞬、何を言われたかわからなかったが、理解すると同時に顔が熱くなる。
まさか一緒に寝てくれるとは思わなかったからだ。
「何言ってるんだよ!子供じゃないんだから、そんな事しなくても……」
「黙れ。さっさと寝ろ」
言いかけた弥一を、半ば強引に天音が手をひく。
そのまま柔らかい胸の中に収められると、強く抱き締められた。
(あ、これってあの時と同じだ)
風邪を引いたときも、抱き締めてくれた。
そのまますぐに眠ってしまったのを、天音は覚えていたから、今もこうしてくれたのだろう。
しかし、今は平常である。
あのときは安心感で眠ってしまったが、今は安心感というよりは、恥ずかしさのほうが勝っている。
「……天音」
声をかけるが返事はない。
代わりに規則正しい呼吸音が耳に届いた。
どうやら完全に眠っているようだ。
軽く溜息をついて、仕方なく弥一も目を閉じる。
しばらくは、恥ずかしさやら何やらで胸の鼓動が煩く脈打っていたのだが、次第に睡魔が襲ってきていつの間にか眠ってしまった。
無意識に天音を抱きしめ返して、深い眠りに落ちた頃、弥一はまた夢を見た。
それはただの夢だったのか、予知夢だったのか、はたまた願望夢だったのかもしれない。
そこには当然のように天音がいて、彼女を抱き寄せているのは自分。
今のアパートよりも広い部屋で、大きな窓からは暖かな陽の光が射し込んでいる。
そして、ソファに座る天音の腕の中には赤ん坊がいた。
どうして赤ん坊を抱いているのかはわからない。
だが、その子はまるで天使みたいに可愛らしくて、愛しくて、堪らずに弥一は二人を抱き締めた。
この時間が、この瞬間が、ずっと続けばいいのに。
そう思った。
「弥一」
呼ばれて、弥一の目が覚めた。
ここがいつものアパートの部屋だと認識したのは、外から鳥の囀りが聞こえたときだった。
声の方向を見上げれば、天音の赤い瞳が美しく揺れている。
「弥一、どうしたんだ」
何を心配されているのかわからなかった。
天音の細い指が頬に触れると、目から涙が流れていた事にようやく気付いた。
何故、泣いていたのだろう。
悲しく感じることなんて、なかったはずだ。
「また悪い夢を見たのか」
その問いに弥一は首を傾げる。
「いや、悪い夢ではない気がする……何だっけ」
思い出せない。とても幸せな気持ちになった気がするのに、このたった一瞬のうちに内容を忘れてしまったのだ。
とてつもない多幸感と、充実感で満たされていたことだけは覚えている。
(予知夢では無さそうだな……)
内容は覚えていないが、現実にはならないだろう。
そんな気がしたのだ。