8-2 営業スマイル
「バイト行って来るね」
朝、いつも通りに弥一がバイトへ出掛けた。
それを見送って、姿が見えなくなった所で天音も着替えてアパートを出た。
目立つ金髪はキャスケットの中に入れて、黒いコンタクトをし、地味な服を着て、大きな眼鏡をかける。
全て、尾行のために買い揃えたものだ。
バスに乗り込む弥一に見つからないように人に紛れて座る。
バイト先は予め調べておいたが、もしかしたら途中で弥一の意中の相手に出会うかもしれない。そう思って、通勤からつけていく事にしたのだ。
しばらく様子を見ていると、徐ろに弥一が立ち上がった。
(気になる相手が来たのか?)
混み合うバスの中で人の間から弥一の周りを見やる。
近くには女子高生が数人と、OL、ワンピースを着た若い女が立っていた。
この内の誰かか……。そう思って凝視していると、弥一がワンピースの女に声をかける。
(あの女がそうか)
セミロングの黒髪、水色の長いワンピースに紺色のニットカーディガンを身に着けている。
中々の美人だ。弥一が惚れるのも頷ける。
女は弥一が座っていた席を勧められると、そこに座って会釈した。
それから大きなお腹を擦り……
(なんだ、あの腹は!妊婦じゃねえか!)
何のことはない。弥一はただ妊婦に席を譲っただけであった。
それからは特に誰かと会うわけでもなく、弥一はぼんやりと外を眺めるばかりで面白い事は何もなかった。
それからバスを降りて、バイト先のカフェ向かう途中も荷物を運ぶ老婆を手伝ったり、落ちた子供の靴を拾ってやったりと人助けばかりし、ようやくバイト先のカフェに到着する。
いつもこんなことをしているのか、と天音は呆れと困惑を隠せずにいた。
朝の時間帯は、弥一とパートの女がいる事を確認したが、特別何かがあるというようには見えなかった。
モーニングが終わってランチが始まると店は忙しくなり、若いバイトの女が加わったが会話どころではないようだ。
(何かあるとすれば、あの女か)
弥一より年下に見えるその女は、明るくて可愛らしく、客にも人気があるようだ。
茶色の髪をふわふわと揺らし、忙しくても笑顔で対応する姿は、性格も良さそうに見えた。
きっとお人好しの弥一に釣り合うだろう。
ランチが終わり、店が暇になるとパートの女が上がっていった。
残ったバイトと楽しそうに喋る弥一は、いつも天音に見せる表情とは違っているように見える。
(ちょっと見に行ってみるか……)
その楽しそうな様子が、妙に気になったのだ。
黒のコンタクトをしているから、弥一はこちらに気付かないだろう。そんな自信があった。
アンティーク調の扉を開けると、カランと鐘の音が鳴った。
先程までお喋りを楽しんでいた二人が天音を見る。
バイトの女が「いらっしゃいませ」と愛らしい笑みを浮かべて近寄ってきた。
近くで見ると、より可愛らしく女性的のように思えた。
「お好きな席へどうぞ」
言われて、天音は店の隅にある席へ座った。
カウンターだと、すぐにバレる可能性があるからだ。
隅っこではあるが、弥一とバイトの姿はよく見える。
カウンターの中で喋る二人の会話も少しだが聞こえた。
メニューを眺めつつ、耳を欹てる。
「俺が持っていくよ」
一言、そう聞こえたと思うと、弥一が水を持ってきた。
「御注文が決まりましたら、お呼びください」
にっこりと人当たりの良い笑顔を浮かべて、水とおしぼりをテーブルに置き、お辞儀をして、去っていく。
こんなふうに笑う男だっただろうか。
先程話していた時も、同じような人当たりの良い笑顔だった。
このバイトが余程楽しいのだろうか。
妙な違和感をおぼえつつ、メニュー表を見ながら、適当な物を注文しようと女の方に目線を合わせる。
弥一だと声でバレる可能性があるからだ。
「本日のケーキセット……を、お願いします」
「かしこまりました。ドリンクはいかがなさいますか?」
「紅茶で」
「はい。では少々お待ち下さい」
慣れない敬語を使って注文を済ませる。
ちらりと視線を上げると、女の名札が目に入った。
名前は山下というらしい。
山下は砂糖菓子のような髪を靡かせて、厨房へ注文を伝え終わると、グラスを拭いている弥一の隣に立った。
天音の他に客がいないせいか、自然と二人の会話が再開される。
「弥一くんって彼女いないの?」
「え?あー、うん。まあね」
言葉を濁す弥一に、山下はくすっと笑って小首を傾げてみせた。
「意外だなぁ。弥一くん優しいしモテそうだから、絶対いると思ってた」
「あはは。モテたことなんてないし、全然だよ」
話の流れと山下の仕草で、なんとなく察しはついた。
恐らくこの女は弥一に惚れている。
だが、当の本人である弥一は全くそのことに気付いている様子がない。
それがわざとなのか、本当に気付いていないだけなのかはわからないが、気付いていないのだとしたら、あまりにも鈍感すぎる。
思わず溜め息が出そうになるのを抑えて、再び二人を見つめる。
「でも、わたしは弥一くんのこと好きかも」
突然の告白だ。
客がいるのに何を言っているのだろう。
少し困惑する天音をよそに弥一は動揺する様子もなく「ありがとう」などと返していた。
「……またはぐらかす!」
山下がぷうっと頬を膨らませている。
恐らく、このやりとりは一度や二度ではないのだろう。
山下はずっと弥一にアプローチしては気付かれずに流されているのだ。
「そうだ!弥一くん、今日こそ一緒にご飯行こうよ!行きたいイタリア料理のお店があるの」
「ごめん、このあとはすぐに帰らないといけないんだ」
「……そっかぁ。じゃあまた誘うねっ」
そう言って山下が健気に笑う。
対して、天音は小さく舌打ちをした。
鈍感もここまで来ると苛立ちを覚える。
食事くらい行ってやればいい。
夕飯は作り置きでもしておいて、デートを楽しんでくれば良いのだ。
今日帰ってきたら、それとなく言っておこう。
そんな事を考えながら、注文したケーキを待ちつつ二人の会話に再び耳を傾けた。
何が好きで、何処に行って、何を食べた。
なんの変哲もない話を楽しそうにしている。
時折二人の様子を見れば、弥一は天音が見たことないような顔で笑っていた。
弥一が幸せになった暁には、あんな顔で毎日過ごすのだろうか。
愛しい人と一緒になって、家庭を築き、普通のつまらないような、楽しい毎日を送る。
そんな未来を想像して、天音は妙に胸が苦しくなった。
(馬鹿馬鹿しい)
自分とは関係無い話だ。
弥一がそういう風になる頃には、もう天界に戻っている。
弥一の記憶からも、自分は消えているのだ。
(とにかく今は、あの女とくっつける)
そうすれば、天界に帰れる。
天界に帰れば、この胸の苦しみも無くなるはずだ。
二人の談笑を聞き流しながら、天音はじっとコップの中の水を見つめた。