7-4 回復
熱に侵されてとんでもない醜態を晒してしまった気がする。
未だ包まれている天音の腕の中で目を覚ました弥一は、そんなことを考えながら徐々に冷静さを取り戻していた。
冷静になりつつも、温かくて、柔らかくて、良い匂いがするここで、ずっとこうしていたいという気持ちが邪魔をする。
しかし、このままではいけないのだ。
「……天音」
声を上げると、微かに天音が動いた。
「起きたのか。具合はどうだ?」
綺麗な紅い瞳が揺らぐ。
至近距離で見つめると、それは更に美しいと思った。ずっと見つめていたい、見つめられていたいとすら思う。
その気持ちを断ち切るように、弥一は天音の体から離れた。
「もう大丈夫。ごめんな、変なことして」
「……別に。何か作るから寝てろ」
いつものように、天音がぶっきらぼうに答える。
台所へ向かう背中を弥一はぼんやりと眺めた。
何故、あんなにも側にいてほしいと執着してしまったのだろう。
今まで誰にも抱いたことの無い感情だ。
自分の中にこんな衝動があるなんて知らなかった。
きっと、具合が悪くて気が弱っていたせいだ。それに加えて、天音が急に優しくなったから、自分の中で何か勘違いをしてしまったに違いない。
色々と理由をつけて、弥一は自分を納得させた。
「飯できたぞ。食えるか?」
納得させたところで、天音がお粥を持って来た。
水分多めの白粥と、真ん中にほぐされた梅干がひとつ。
食欲はあまりないが、せっかく作ってくれたのだから一口くらいは食べようと、蓮華を手に取った。
悠々と上がる湯気を軽く吹いて、梅干しと粥を口の中に入れる。
梅干しの酸味と白粥についた少しの塩味、米の優しい甘味が口の中でまろやかに溶けていく。
一口だけのつもりだったが、もう一口、もう一口と蓮華を運ぶ手が止まらない。
一言で言うと美味しいのだ。
「美味しい」
「そうか」
天音も粥を口に運び、咀嚼する。
弥一のペースに合わせて、ゆっくりと時間をかけて粥を食べ進めていく。
結局弥一は、食欲がなかったのにいつの間にか平らげてしまった。
その食器を、天音が台所へ片付ける。
手早く洗い物を済ませて、また弥一の隣に座った。
どこにも行かないで欲しい、などと口走ってしまったから、天音は気を使っているのだろう。
「もう大丈夫だから、気にしなくていいよ」
「お前こそ気にするな。さっさと寝ろ」
そう言って、天音は布団を被せた。
突き放すような言い方だが、その目は優しげだ。
その眼差しが、言葉が、何より嬉しいと思う。と同時に胸の奥がちくりとする。
この痛みの正体は何なのか、考えても分からない。
きっと、風邪のせいだろう。
布団の中に潜るとすぐに眠気が襲ってきた。
うとうととする弥一の額に、天音の手が重なる。
「まだ熱いな」
ひんやりとした手が心地良い。
思わずその心地良さに浸っているとゆっくりと手が離れた。
それが名残惜しくて、つい手を掴んでしまった。
無意識だった。
驚いたように目を見開く天音に、慌てて弁解する。
「あ、ごめん……」
「どうした?」
気まずい。恥ずかしい。
もっとしてくれなんて、言えるわけがない。
先程、気にするなと言ったばかりなのに。
そう思っていると突然、玄関のチャイムが鳴った。
ピンポンという間抜けな音に、天音が立ち上がり、玄関のドアを開ける。
「よう、来てやったぜ」
ドッペルゲンガーだ。
その後ろには新堂がいる。
昼間に言っていた通り、見舞いに来たのだ。
「来なくて良いと言ったはずだ」
「まあそう言うなって。薬持ってきてやったぜ」
「お邪魔する」
顔を顰めている天音の横を、新堂が通り過ぎる。
続いてドッペルゲンガーが横に立ち、天音に耳打ちした。
「優しくしてやったか?」
「……どうでもいいだろう」
はいはい、とドッペルゲンガーが笑う。
それから持ってきたビニール袋を渡した。
中にはゼリー飲料や熱冷ましシート等といったものが入っている。
「白浜君、調子はどうかね」
「新堂さん、ドッペル、わざわざすみません」
「気にするな。それより熱が下がらないそうだな」
少し診てみよう。そう言って、新堂は持っていた革のスーツケースを開けた。
中には診療道具や薬品が並んでいる。
聴診器を手に取り、弥一の体に当てていく。
それから触診、喉奥を覗いたりと一通りの診察を行った。
「あいつ、医者なのか?」
「違うけど?」
「……??」
天音は困惑した。
信用していいのか、一気に怪しくなってきたのだ。
医者ではないのなら、この女は何をしているのだろう。
「うむ、たちの悪い風邪のようだ。安心したまえ」
「何でわかるんだよ」
「私は天才だからな」
答えになっていない。
呆れる天音を余所に新堂は軽く笑った。
「医師免許を持っていないだけだ。天才に免許など必要ない」
「あー、もうわかった。後で礼はするから帰れ」
「お大事に。もし何かあったら連絡したまえ」
すい、と流れるように新堂は自分の名刺を弥一の枕元に置いた。
「それでは失敬」
「ありがとうございました。今度また来てください。何か作るので」
「次は肉料理な!じゃあまた、白浜弥一」
嵐のような来訪者がいなくなり、部屋に静寂が訪れる。
二人分の足音が遠ざかり、聞こえなくなるまで天音は何も言わなかった。
何も言われずとも、何を考えているのかは分かった。
「あの人たち、ちょっと変だけど悪い人じゃないね」
「……そうだな。一応、感謝はしている」
「それじゃあ、次会ったときはちゃんとお礼しないとな」
「ああ」
静かな部屋で天音の返事だけが響く。
弥一は再び目を閉じた。
眠気はすぐにやってきて、意識が遠くなる。
眠りに落ちる間際、手を握られた気がしたがそれを確かめる気力はなかった。
次の日、体温計が平熱を表示しているのを見て、ほっと息をつく。
体調も申し分ない。大事を取って今日一日休めば、またバイトに行けるだろう。
「天音のおかげで助かったよ」
「別に。お前が動けなくなると私が困るから助けてやっただけだ」
冷たく言うと、天音は顔を背けた。
しかし、その表情には少しの照れと安堵の色がある。
相変わらず素直ではない天音に苦笑しつつ、弥一は台所に立った。
「朝ご飯作るね」
「……手伝ってやる」
二人で並んで、朝食を作る。
いつもどおりの簡単な朝食だ。
卵を溶いてスクランブルエッグを作り、袋入りの野菜を皿に盛り付けて、インスタントのスープを淹れる。最後に食パンを焼いて、ティーパックの紅茶を淹れて終わり。
たったそれだけ。
だから手伝う必要など無いのだが、それでも一緒に作ってくれた事が弥一は嬉しかった。
「お粥じゃなくて良かったのか」
「食欲あるから大丈夫だよ」
ちゃぶ台の上に作った物を並べて、まずはトーストを口に運ぶ。
続いて、サラダにスクランブルエッグと食べ進めていくと、天音が安堵したように口の端を吊り上げたあと、朝食を食べ始めた。
「美味しい?」
「いつもどおりだ」
そう言いつつも、目元が緩んでいるので美味しく思っているのだろう。
弥一はそれを微笑ましく思いながら、朝食を平らげていった。
食後の紅茶を飲んでいると、天音が見つめている事に気付いた。
何か言いたいことがあるようだ。
「どうかした?」
「聞きたいことがある」
「なに?」
天音の表情は変わらない。
だが、声がいつもより硬いように思えた。
聞きたいこと、というのは多分あまり良い事ではないのだろう。
「お前のことを知りたい」
意外だった。
今まで興味無さそうな顔をしていたし、人間のことなんてどうでも良さそうだったのに。
弥一が目を丸くして固まっていると、天音は目をそらした。
「言いたくないのなら良い」
「……いや、いいよ」
別に隠すつもりはない。
ただ、あまり気持ちのいい話ではないのだ。
少なくなった紅茶を淹れ直して、弥一はぽつりぽつりと昔話を始めた。
それは、もう10年以上前。
たった10歳の小さな子供だったころの話。
その頃の弥一は神様だった。