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7-1 秋の風


 金木犀の香りが、湿り気を含んだ早朝の風に乗って流れてくる。

 その何ともいえない甘い香りは、秋の訪れを知らせてくれた。

 弥一は少しだけ立ち止まって、ふっと小さく息を吐く。

 それからすぐに、再び早足で歩き進んだ。


 去年の秋ならば、この香りを楽しみながらゆっくりと歩いていた。

 しかし今はなるべく早く帰りたいという気持ちが強い。

 何故ならば、あの古いアパートに自分の帰りを待つ者がいるからだ。


「ただいま」


 小声で言いながら、ドアを開ける。

 部屋の中は薄暗く、当然返事は無い。

 狭い5畳の部屋の真ん中には布団が敷かれていた。天音が敷いてくれたのだろう。

 最近は、こういった小さなことや、食器を洗ったり、軽く掃除をする程度なら毎日してくれるようになった。

 それに感謝しつつ、シンクで軽く手を洗い、うがいと歯磨きをして部屋着に着替える。

 布団に潜る前に、半分ほど開いている襖を見やった。

 そこには天音が背中を向けて、規則正しい寝息を立てている。

 起こすつもりは無かったのだが、気配を感じたのか、天音は寝返りをうって薄目を開けた。


「……おかえり」


 か細い声で一言呟いたあと、再び目を閉じる。それが嬉しくて、弥一は微笑んだ。


「うん、ただいま。……おやすみ」


 ずっと一緒にいられる訳ではないのだから、嬉しいと思ってはいけないのかもしれない。

 それでも弥一は、ぐっとその気持ちを噛み締めて、電気も付けずに布団へ潜った。


 それから4時間程度眠っただろうか。

 高くなった陽の光で、ぼんやりと目が覚めた。

 重い頭を持ち上げ、微かに怠い身体を起こす。毛布が離れれば、寒気を感じて身震いをした。

 陽が昇ったというのに、まだ気温が低いのだろうか。

 部屋を見渡せば、天音が起きてスマホをいじっていた。

 これは弥一が最近買い与えたものだ。


「もう起きたのか。まだ寝てろ」

「そうしようかな……」


 いつもなら、夢を見るのが嫌で強引に起きるのだが、今日は天音が隣にいるので安心して眠られると思った。

 何故だかわからないが、天音が隣にいると夢を見ることが無い。

 安心感があるのだろうか。

 そんな事を思いながら、弥一は再び深い眠りに落ちた。


 次に目が覚めたのは昼を過ぎてからだった。

 頭の中で鐘が煩く鳴っているような感覚で、重たい瞼を開いたのだ。

 ぐったりと起き上がれば、頭が割れるように痛いのだということがわかった。

 先程起きた時より体は更に怠く、酷い悪寒が襲ってくる。

 思わず頭を抱えた所で、天音が声をかけた。


「どうした、弥一」


 少し驚いたような、上擦った声だった。

 大きな目を更に丸くして、弥一のすぐ隣に座る。


「……いや……なんか、具合悪いみたい」

「熱があるな」


 額に触れた天音の手が冷たく感じた。それだけ体が熱いということだろう。

 

「薬箱に、風邪薬入ってると思う」


 そう言われて、天音が薬箱と水を弥一の元へ持って来た。

 中には市販の風邪薬が入っていたので、それを取り出す。が、薬は一日分しか残っていなかった。


(まあ一日ゆっくりすれば熱も下がるよな)


 そう思いながら、弥一は薬を飲み込んで再び布団に潜った。

 じっと見つめてくる天音に、少し笑ってみせる。


「ただの風邪だから心配しなくても大丈夫だよ」

「……別に心配している訳じゃない」


 素っ気ない態度をとりつつも、天音は不安げに眉を寄せて、弥一の顔を見つめている。

 そんな表情を見ながら、弥一は再び目を閉じた。


「大丈夫……ちょっと寝たら……また何か美味しい物作るから……」


 途切れ途切れに言葉を繋げて、また眠りに落ちる。

 その様子を天音は黙って見つめていた。


「……そういう心配をしているんじゃない」


 静かな部屋の中で天音は小さく呟いた。

 

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