6-15 はちみつシフォンケーキ
船を降りた帰り、ついでに夕飯の買い出しを済ませる。
いつものスーパーで、特売になっていた茄子と豚肉を購入して狭いアパートに帰ってきた。
「狭い部屋だな。あの船のクローゼットの方が広かったんじゃないのか」
天音が悪態をつく。
相変わらず酷い言い草だが、その顔は安心したように綻んでいた。
扇風機をつけ、冷凍庫からアイスを出して涼み始めるその姿に弥一は少しだけ笑ってしまった。
「何がおかしいんだ」
「いや、なんか馴染んだなーって思ってさ」
ずっと一人で暮らしていた。
誰かと住む事なんて考えた事も無かったのに、今では他人が我が物顔で扇風機に当たっている。
しかも、人間ではない。
「馴染んだかどうかはわからないが、小腹が減った。なにか作れ」
「ええ……ブュッフェで結構食べてたのに……」
何かあったかな、と弥一が戸棚を開ける。
ホットケーキの素と、はちみつがあったので簡単なはちみつケーキを作ることにした。
卵やサラダ油といった材料を混ぜ合わせ、型に入れてレンジにかければ柔らかいシフォンケーキもどきが出来上がる。
それにバニラアイスを添えた。
「やっぱり、お前の作った物のほうが美味い」
一口食べてから、天音が小さく言った。
聞き間違いかと思った弥一が確認する。
「美味しい?」
「美味いって言ってるだろ」
嬉しくて、弥一は思わず目一杯に口の端を吊り上げた。
そんな様子を見ていた天音が怪しむように睨む。
「なんだ、ニヤついて気持ち悪いぞ」
「だって、お前があんまり素直に褒めるから」
腹が減っている時以外でこんなに素直になった事があっただろうか。
恐らく殆ど無い。
怪訝そうにしながらも、食べ進めていく天音を眺めながら、弥一も自分のケーキを頬張った。
カフェで食べたショートケーキに比べると、あまりにも質素だ。
それでも、天音はそれより美味いと言ったのだ。
そんなに嬉しいことがあるだろうか。
「美味かった」
すっかり空になった皿を見つめている天音が、弥一を見やる。
すかさず、弥一は残りのケーキをラップで包んだ。
「残りは晩御飯のあとだからな」
足りない、とおかわりを催促してくると思ったのだが、天音は「そうじゃない」と首を振った。
「ひとつ、わかったことがある」
「なんだよ、急に」
「お前の作った物を食べると、満たされる」
「当たり前だろ。大体、朝あんなに食べてたのに……」
「違う。腹じゃない」
今まで勘違いをしていた、と天音が切り出す。
腹が減っているのではない。
正確には天女としての力が減って、腹が減ったと錯覚を起こしていたのだ。
弥一の夜通し練習に付き合わされた後、どんなに食べても満たされなかったのはそのせいだったのだろう。
「試しにお前の口から直接吸ってみたら力が湧いてきた」
「湧いてきたんじゃなくて吸い取っただけだろ……」
その後、弥一に力を貸して、また力を消耗した。
しかし、このケーキを食べた事により、また力が湧いてきたのだ。
「前に私が消えかけたのも、お前が作った物を食べなかった期間が長かったからだと思う」
この人間の世界にいるだけで、力を消耗して最終的には消えてしまうというのに、ずっとそれが無かったのは弥一の料理のおかげだった。
「つまり、俺が作った物を食べていればお前は消える心配がないってこと?」
「そうなる。まあ、口から吸ったほうが飯を食うより多く摂取できるんだが」
「やめろよ……」
恋人でもないのに、何度もキスなんてできない。
それに、そんな事をすれば無駄に意識をしてしまうし別れが辛くなるだけだ。
不服そうにしている天音を尻目に、食べ終わった皿をシンクに片付けて、紅茶を淹れる準備をする。
ヤカンに火をかけてお湯が沸くのを待つ間、弥一は窓の外を眺めた。
雲ひとつない青が眩しい、夏の空だ。
「船、楽しかった?」
弥一がぼんやりと尋ねる。
たった一泊二日のクルージングではあったが、天音はその言葉に頷いた。
「美味いものも食えたしな。海も……まあ、嫌いじゃなくなった」
「良かった。じゃあ来年は海水浴にでも行こうか」
来年は。
そんな台詞が自然と出てきたし、天音もそれを何の疑問も無く受け入れた。
来年も一緒にいるかなんて、わからないのに。
「紅茶、冷たいの淹れたけど飲む?」
「砂糖入れて甘くしろ」
「はいはい」
当たり前のように、次の話をする。
天音の知らないこと、今日の晩御飯のこと。
明日の仕事の事。天気のこと。
これから先もずっと、こうして話していくのだと信じて疑わないような口ぶりだった。
天音はそれに答えていく。まるでそれが当然であるかのように。
だから二人は、自分の気持ちにも相手の想いにも気付かない。
隣にいるのが心地良いことにすら、気付こうとはしなかった。
これで書き溜めた分は終わりです。
次回から週一を目安に更新します。
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