6-14 英雄
「白浜弥一、すまなかったな」
俯いていた弥一が顔を上げると、困り顔のいずるが目の前に立っていた。
そんないずるに、弥一は深々と頭を下げる。
「助けてくれて、ありがとうございました」
「お前も、船の客を守ってくれてありがとな」
弥一の肩を掴み、いずるは顔を上げるように促した。
「神様っていうのはさ、色んな奴がいるんだよ。今回の騒動を暇潰しと取る者もいれば、気にも留めない奴もいる」
大半は気にしない神ばかりだ。
いずるはそう言った。
「いずるさんは、どうして俺と天音を助けてくれたんですか?」
「……人に干渉するのは良くないとわかってはいるんだがな」
照れ隠しのように、いずるが髪を触っている。どうやら彼は神様にしてはお人好しらしい。
「それに、お前は今回も天音を助けてくれた。そんな奴を見殺しになんてできないよ」
「あれは咄嗟で……」
「お前も素直じゃないな」
溜息交じりにいずるが笑う。
それがどういう意味か、弥一は理解できずに首を傾げた。
「まあいいや。雨宮は上に連れて帰る」
過度に下界へ干渉したとして他の神に訴えかけてみる、といずるは言っているが、たかだか船一つ沈めようとした所で大して問題にはならないだろう。
知りたいのは、誰がこんな事を命令したのか、だ。
「何かわかったら連絡する。お前らは残りのクルージングを楽しめよ」
ひらひらと手を振って、いずるは弥一に背を向けた。
同時にどこかから漂ってきた大量の泡が、いずると雨宮を包んで二人を消した。
静かになった船上に、波の音が響く。
「部屋に戻ろうか、天音」
「そうだな。シャワー浴びて寝るか」
海水を吸った服がベタつく。
その感触に天音が顔を顰めて、ゆるゆると歩き始めた。
船内はまるで何事もなかったかのように静かだ。
誰ともすれ違うことも無く部屋に戻り、鍵を締める。
「あれだけ騒ぎになってたのに、なんでこんなに静かなんだろう」
「あいつが何かしたんだろ」
あいつ、とはいずるの事だ。
何か、とは恐らく客の記憶を消したのだろう。
全てなかったことにしたのだ。
「そっか。良かった」
「良かっただと?本当にそう思うか?」
「どういうこと?」
「お前は命懸けで船を救ったヒーローだ。讃えられるべきなんじゃないのか」
「なんだ、そんなこと」
あっけらかんと弥一が一蹴する。
その反応に天音は眉を顰めて、腕を組んだ。
「お前は人を救ってヒーローになりたかったんじゃないのか」
「人を救いたいっていうのは合ってるけど、注目を浴びたい訳じゃないよ」
「……命の危険だってあったんだぞ」
「俺の命なんて、どうでも良いんだ」
耳を疑った。
それなら弥一は、名誉や称賛も自分の命すらいらないというのか。
ただ自分以外の人間が幸せに暮らしていれば良いなどど、まるで空想の神様のような事を思っているのだろうか。
「馬鹿なのか、お前」
「そうかもね」
苦笑いしながら、弥一はべたつく服を脱いでシャワー室へ入っていった。
……この男の考えている事がわからなくなってきた。
天音が小さく俯く。
こんな奴、幸せにする事なんてできないんじゃないのか。
そうは思ったが、もう二つも願い事を叶えた。
後戻りもやり直しもできないのだ。
微かに聞こえてくるシャワーの音を聞きながら、天音は深い溜め息をついた。
───────────
シャワーを浴び終わり、ベッドに入った途端に眠りに落ちてしまった。
ふかふかのベッドは寝心地が良く、夢を見る間もなく朝までぐっすりだったようだ。
窓から差し込む朝日に天音は目を細めた。
そこから見える海は穏やかで、白い雲を浮かべている。
いつもより早い時間に目が覚めてしまい、二度寝をする気にもなれず、天音は大きく伸びをした。
「おはよう」
そんな様子を眺めていたのか、弥一から声がかかる。
コーヒー片手にソファへ座り、天音と同じように海を眺めていたらしい。
「早いな。ちゃんと眠れたのか?」
「眠れたよ。朝食の時間まだだし、お茶でも飲む?」
弥一がいれてくれた緑茶を飲み、朝のニュース番組を見ながら時間を潰す。
クルージング旅行も今日で終わりだ。昼には帰港して、あの狭いアパートに戻る。
こことは比べ物にならない、みすぼらしい場所だが、今はそれが妙に恋しい。
明日から弥一はまたバイトに行って、いつもと変わらない日々を送る。
昨日の事がニュースにでもなれば、きっと船を救った英雄にでもなれただろうに。
そんな事を他愛も無い朝のテレビ番組を眺めながら思う。
テレビの中では、スポーツ選手が何かで優勝をしたそうで、キャスターからインタビューを受けていた。
次のニュースは、老人を救った少年の話だ。
『彼は中学生です。素晴らしい勇気ですね』
ニュースキャスターのナレーションをバックに少年が謙虚な笑顔を浮かべている。
きっとこの少年も先程のスポーツ選手も、嬉しい気持ちと誇らしい気持ちと、ちょっとした優越感があるはずだ。
大抵の人間はそこに自己顕示欲も追加される。
「……」
ぼんやりと画面を見つめたまま、天音は黙っていた。
それから隣りにいる弥一を見やる。
「どうかした?」
「いや」
なんでもないと首を振って、カップの中のお茶を飲んだ。
誰にだって少なからず英雄願望はある。
自分の命がどうでも良いだなんて、きっと適当なこと言ったのだ。
もう一度聞いてみようか。
何故、あんなことを言ったのかと。
「見ろよ天音。朝食はブュッフェだって。すごいなぁ」
口を開きかけた瞬間、弥一がパンフレットを見せてきた。
昨日の事など無かったかのように振る舞うその姿は、天音の口を閉じさせた。
「……ぶゅっふぇってなんだ」
「ああ、ブュッフェっていうのは……」
天音は話を蒸し返すことをやめた。
この男がこれでいいと言うのなら、もう少し様子を見よう。
そう思ったのだ。