6-13 理由
落ちた、と認識してから海に沈むまで一瞬だった。
先程まで氷山が浮いていた海の水は全身を突き刺すような痛みを伴い、天音が這い上がる為の体力を消耗させていく。
藻掻けば藻掻くほど身体は沈み、塩辛い水が喉を通る。
(これだから海は嫌いだ……)
そんな事を考えながら、薄っすらと灯りが見える海の上へ手を伸ばす。届くはずも無い。這い上がる力も無い。
海水で痛む瞳を閉じ、藻掻くのを止めた。
あの時と同じように、また海の中で死ぬのか。
遠くなる意識の中で上に伸ばした腕が何かに掴まれる。
そのまま引っ張られ、気付けば水面に顔を出していた。
咳き込みながらも、自分を引き上げた人物を見る。
「大丈夫か!?」
弥一だ。
珍しく焦った顔をして、髪から海水を滴らせたその姿が妙に面白くて、天音は少し笑ってみせた。
「何をしてるんだ、お前は」
「でも、泳げないお前をこのまま放っておく事なんて出来ないよ」
言い終わる頃には、天音は気を失っていた。
……助ける事ができたが、この状態はまずい。
ここから這い上がる事も出来ないし、船の上には雨宮がいる。
今なら簡単に二人を始末する事ができるだろう。
案の定、船の上から雨宮が顔を出した。
「二人して馬鹿ね!そのまま一緒に死んで!」
そう言って手を振り上げた瞬間、海がうねり始めた。
このまま波に飲まれる……そう思ったとき、うねっていた波が二人の周りで大きな円を描いたあと、大きな水の塊となって二人を包んだ。
水の中はほのかに暖かくて、息ができる。
意味がわからず困惑していると、塊は二人を包んだまま、船の上まで移動した。
「どういうことなの……。早く死んでよ!」
雨宮も混乱しながら、二人に向かって氷の矢を放ってくる。
しかし、水の中には届かずに吸収されてしまう。
「もうやめろ。一体何をしているんだ」
びくり、と雨宮が体を揺らす。
振り返った先には、いずるがいた。
藍色の薄い羽織を翻し、難しそうな顔をして腕を組んでいるその姿は、強い威圧感がある。
「いずる、さま……どうしてここに……」
「それはこっちが聞きたい。誰の命令で動いている?」
「……言えません」
いずるは険しい表情で雨宮を睨みつけている。それに対して雨宮は縮こまり、決して視線を合わせようとはしなかった。
「とにかく、天界に帰るぞ。話はあっちでじっくり聞かせてもらう」
「待ってください」
天界へ戻ろうとする二人を、弥一が止めた。
「聞きたいことがあるんです。雨宮さん、どうしてこんな事したんですか?」
雨宮が舌打ちをする。
弥一に振り向きもせず、低い声で雨宮は言った。
「私の方が優れているのに、そいつがいずる様の下にいるからよ」
えっ、といずるが呟く。
それから雨宮はいずるを見上げ、弥一の時とは全く違う声のトーンで嘆いた。
「皆黙ってますけど、いずる様は水を扱う天女なら誰だって憧れます!なのに、どうして水も使えないあいつがあなたの下で働いてるんですか!?」
「それはだな、俺の部署が天界でも一番下っ端だから押し付けられただけで……虚しいから説明させないでくれ」
いずるがションボリと項垂れる。
それでも雨宮は続けた。
「私、そっちを志願したんです!!それなのに、天音がいるからって……そんなのおかしいでしょ!!なんなのよ!!」
「俺が聞きてぇよ……」
一体何を見せられているのだろう。
弥一は自分から聞いたものの、それがただの私怨で、船の客全員が危険にさらされた事に怒りとも哀しみとも言えない微妙な気持ちが沸いていた。
そんな弥一のやり場のない気持ちを察したのか、天音が軽く小突く。
「雲の上の奴等なんて皆あんなもんだ」
「そうなんだ……」
「あいつらにとって人間なんて物はただの暇潰しなんだよ」
天音が呆れ気味に言う。
そういえば、天音も簡単に街を燃やそうとしていた。
思っているほど、神様という存在は人間の事など考えていないのだろうか。
神というのは遠く近い存在で、自分達と同じ感覚を持っていると、無意識に思っていた。
天音と暮らしているから、余計にその気持ちが強くなったのかもしれない。
「でも、お前は俺を……」
言いかけて、弥一は口を噤んだ。
確認するまでもない、天音にとっては人間などどうでもいい存在なのだ。
そこには自分も含まれる。
だから、その先を言うことを止めた。
お前は俺を助けてくれたじゃないか。
本当は、そう言いたかった。
しかし、きっと天音はこう返すだろう。
「お前のためじゃない」と。
いつもなら聞き流せる。
だが、今の弥一には、その言葉を聞くのが怖かったのだ。