6-5 海
送迎のバスに揺られながら景色を眺めていると、遂に海が見えてきた。
乗客の一人が窓を開け、その風に乗って磯の匂いが車内に広がる。
その匂いに天音が顔を顰めた。
「海……」
「海に入る訳じゃないんだから、そんな顔するなよ」
気付けば腕をがっしりと掴まれていた。
以前、水が嫌いだと言っていた事を思い出す。
こんなに怯えるということは、海に余程良くない思い出があるのだろう。
腕をがっしりと掴んでいる天音の手を、やんわりと握ってやると驚いたように顔を上げた。
どうやら無意識に腕を掴んでいたらしい。
「大丈夫か?ほら、船見えて来たぞ」
そう言って指差した先には5階建ての大きな船が見えた。
パンフレットによれば「極上のひとときを過ごせる宿」をコンセプトに造られたのだそうだ。
波止場に着いて間近に見上げれば、その大きさと細やかな造形が際立つ。
乗務員に案内されるままタラップを昇り、船内に入るとそこは船というよりは高級ホテルのロビーのようだった。
アイボリーを基調とした空間は決して派手ではないが、格式高い雰囲気を醸し出している。
入口の前には短い階段があり、そこを上がって奥の客室へと案内された。
客室で船の設備や食事の時間の説明をし、乗務員は愛想良く去って行った。
「確かにお前の部屋の何倍も広いな」
開口一番にこれだ。しかしその通りなのだから何も言い返さない。
何せこの部屋は、この船で二番目に良い部屋なのだから。
柔らかなソファーに身体を沈め、横に寝そべってくつろいでいる天音を横目に、弥一はバルコニーへ出た。
穏やかな風に合わせて海が波打っている。
天気は快晴で、風も弱い。きっと快適な船旅になるだろう。
瞳を閉じ、静かな波音と遠くで鳴いている鴎の声に耳をすませた。
部屋から眺める景色も良いが、たまにはこうした場所も悪くない。
そんな事を思っていると、波の音に混ざって下から人の声が聞こえた。
「海は良いよなぁ」
聞き覚えのある、男の声だった。
閉じていた瞳を開けて辺りを見回すが、人の姿は見えない。
「よお、白浜弥一。下だよ」
言われて下を見る。下は海のはずだ。
「いずるさん!?何してるですか!」
波打つ水に頭を濡らしながら、顔だけ出しているその姿は神ではなく限りなく妖怪に近い。
海坊主、という言葉が出かかったが、それをぐっと呑み込む。
「とにかく、上がってきて下さい。誰かに見られたらどうするんですか!」
「心配するな。普通の人間に俺は見えん」
ザバザバと水を操り、濡れたままバルコニーに上がってくる。
びしょ濡れの着物から海水が流れ落ち、バルコニーは一気に水浸しになった。
「妖怪か?」
部屋の中から覗き込んできた天音が悪態をつく。
弥一の様子がおかしいと思って来てみれば、ずぶ濡れの怪しい者が立っていたのだから文句を言いたくなるのも無理はない。
「なんだよ、二人揃って無礼だぞ。せっかく忠告しに来てやったんだから、もっと敬え」
忠告、という言葉に弥一が眉を顰める。
天音も同じように顔を顰め、二人で顔を見合わせた。
「何かあったんですか?」
弥一が問う。
それに対していずるは大きく頷いた。
「このクルージング、妙だと思わないか」
「……天音が何かしたんじゃないんですか?」
天音が「は?」と声を上げる。
「私は何もしていない。単純にお前の運が良かっただけじゃないのか」
「お前、当たった時笑ってただろ」
「そりゃあ……当たれば、嬉しい……」
紛らわしい……。
いや、弥一の疑心が過ぎただけなのだ。
だが、そんな事を今更言うべきではない。
「白浜弥一の運が良かっただけかもしれない。が、実は上の方で天音を生かしている事に反対している奴が少数いる」
他の多数は興味の無い者と慈悲深い者の半々でわかれている。
その少数派が、最近怪しい動きをしている、といずるは話した。
「それじゃあ、やっぱり誰かが何かをしてくるって事ですか」
「ああ。このクルージング自体が仕組まれた可能性がある。何をしてくるかわからないし、警戒はしておけ」
そう言っていずるは濡れた着物を手の平で払った。
瞬間、滴っていた水が乾き、袖を翻した。
「まあでも、滅多にない事だ。楽しむと良い」
何処からともなく大粒の泡が流れてくる。
これはいずるが消える合図だ。
消えてしまう前に、弥一がいずるを呼び止めた。
「いずるさん、どうして神様は天音を消そうとするんですか?こいつ、天界でそんなに悪い事をしていたんですか?」
いずるの足元が泡になって消えていく。
弥一の問いに、いずるは少しだけ考える素振りした。
「そうだな。俺にもよくわからんが、嫉妬しているんじゃないか」
「嫉妬?」
「俺達は腹が減ることもなければ、寒さも暑さも感じない。まあ、はっきり言って上は極楽だ」
でもな、といずるが続ける。
「それが無性に虚しくなる時がある、らしい」
食べようと思えば美味いものなんていくらでもある。しかし、腹が減らなければ食べたいとも思わない。
暑さも寒さも無いから汗一つかかないし、震えることも無い。
だから温もりなんてものは必要ない。
人であったときには当然だったものが当然ではなくなる。
それは虚しくて、寂しいものだと思う者も少なからず居る。
「俺は何とも思わないけど、そうじゃない連中もいる。下界で案外楽しくやっている天音が、もしかしたら羨ましいのかもな」
そう言い残すと、いずるは泡になって消えてしまった。
爽快の青空に大粒の泡が舞う。
上の方で子ども達のはしゃぐ声が聞こえた。