1-4 雪の中
数日経った頃には、幽霊の言葉などすっかり忘れていた。
それよりも、クリスマスのケーキを売る方が忙しかったからだ。
商店街の中にある、カフェ付きの小さなケーキ屋に次々と客が押し寄せてくる。
ケーキを売り切った頃には、外はすっかり暗くなっていた。
帰路につくと、薄い雪がゆっくりと降り始めた。
白く染まり始めたアスファルトに足跡を残し、時折吹いてくる冷たい風に背筋を震わせながら、点滅する街灯の下を渡り歩いていく。
早く帰ってストーブにあたりたい。そんな気持ちが弥一の歩みを早くさせた。
──だから、点滅していた街灯が次々に消えていくことに、弥一は気付かなかった。
アパートの近くまで辿り着いた頃には気持ちに余裕が出てきた。だからなのか、ここでも街灯が点滅している事にようやく気付き、何気なく立ち止まって、上を見上げる。
「今日は点滅してる街灯が多いな……。雪だからかな」
独り言を呟く。
音が雪に吸収されたような静けさの中では、その独り言も闇の中に消えていくような錯覚があった。
またサクサクと歩きはじめれば、ふと、点滅している街灯の下に見慣れない物がある事に気付いた。
それは物というよりは、人のようなシルエット。
思わず、駆け出してそれに近寄った。
こんな寒い夜に、街灯の下で人が倒れているのなら大変な事だと思ったからだ。
近寄って目の前に立ってみると、それが人の、しかも女の形をしているということがよくわかった。
「……大丈夫ですか?」
一瞬、声を掛けることに躊躇った。
それがあまりにも、綺麗な造形をしていたからだ。
街灯の光に反射して煌めく金の髪、閉じた瞳から伸びる長い睫毛、絹のように滑らかで白い肌。
ほっそりとした華奢な手足は、冷たい雪の上に放り出され、その肌を守るための服は薄い布だけ。
だから、もしかしたら、人ではなくて人形なのではないかと思ったのだ。
恐る恐る肩に触れると、冷たいが柔らかな肌の質感を感じた。
同時に、人だと確信して、もう一度声をかけた。
「あのっ!声、聞こえますか?!」
今度は大きめに声を張り上げて、肩を強く掴んだ。
女の眉が、ぴくりと反応する。
救急車を呼ぶべきだろうか。
スマホを取り出した瞬間、後ろから声がかかった。
「どうしました?何かありましたか?」
振り返るとそこには、二人の警察官が乗ったパトカーが停まっていた。
思わず安堵して、顔が綻ぶ。
警察なら、きっとなんとかしてくれるだろう。
「人が倒れていて……すみません、病院まで乗せていってくれませんか?」
「なんですって!?それで、その人はどこに?」
「え?あの、ここに……」
そう言って、街灯下に倒れている女を指差す。
しかし、警察官は二人とも怪訝そうに顔を見合わせるだけで、一向に車から降りてくる気配がない。
「……あなた酔ってます?駄目だよ、クリスマスだからって飲み過ぎたら」
「え、いや、」
「ちょっと荷物見せてもらっていい?」
助けを求めたつもりが、何故か職務質問を受ける羽目になってしまった。
当たり前だが怪しい物など出て来る訳がない。後ろで倒れている女に目をくれる事も無く、警察は口頭注意をして去って行った。
……どうやら、この女が見えているのは弥一だけらしい。
触れる事はできたが、もしかしたら幻覚かもしれないし、幽霊なのかもしれない。
自然と後退りをすると、女の手がズボンの裾を掴んだ。
「お前……私が、みえる、のか……」
閉じられていた瞼が薄っすらと開く。
街灯の薄暗い明かりでもはっきりとわかるほどの、鮮やかな紅い瞳。
その美しい色合いに、弥一はつい魅入った。
しかし、すぐにその瞳は閉じられ、裾を掴んでいた手は力無く地面に落ちた。
その手を取ると、仄かに人の肌の暖かさを感じる。
幻覚ではない、幽霊にもないこの感覚は、どう考えても生きた人間だ。
瞬間、このまま見捨ててはいけないと思った。
背負っていたリュックを前に掛け、女の腕を引っ張って背負う。
確かな重さと柔らかさを感じるが、酷く冷たい。恐らく、ずっとここに横たわっていたのだろう。
早く連れて帰って温かくしてやらなければいけない。
名も得体も知らない女を背負って、弥一は再び帰路を急いだ。