4-6 帰宅
予定していたより、一日早く仕事が終わった。
陽がゆっくりと傾き始めている外を眺めながら、弥一は帰りの電車に揺られていた。
土産を買うか悩んだが、結局買ってしまった。
帰りのスーパーで夕食ついでに安価の菓子を買えば良いものを、駅の構内でわざわざ土産用の高いお菓子を買ったのだ。
(俺もちょっと食べたかったし、たまには良いよね)
などと言い訳をしてみるが、結局は天音の為に買ったのだ。
帰宅ラッシュでざわめく駅を抜け、近くのスーパーに寄って、食材を眺める。
早く帰って来れたのだから、何か美味しい物でも作ろう。
挽肉と卵と野菜、トマト缶、それからデザート用に生クリームとフルーツを買った。
煮込みハンバーグと、ついでにプリンでも作ってやろうと思ったのだ。
「よお、白浜弥一」
レジの列で順番を待っていると、後ろから声をかけられた。
白衣下のミニスカートから伸びる生脚が眩しい女。
……女なのかはわからないが、その口調は恐らくドッペルゲンガーだろう。
「ドッペルゲンガー?」
「おう、そうだ。これから晩飯の用意か?いいねえ、飯を作ってくれる飼い主様は。俺もマトモな飯が食いてーなー」
そう言っているドッペルゲンガーの手にはカップラーメンが二つ握られている。
恐らくそれが彼の夕飯なのだろう。
「……うち来る?」
「え、マジで!?ウワーッ、言ってみるもんだなぁ!」
「はは……。せっかくだから新堂さんも呼びなよ」
「マスター?ああ、あれは良いんだよ。偏食が激しいんだ」
案外冷たいのだな、とも思ったが、ドッペルゲンガーは悪魔だ。
新堂に大して肩入れもしていないのだろう。
一見、仲が良さそうに見えるが想い合っている訳ではない。
弥一と天音と同じだ。
妙に早く進むレジの列はすぐに弥一の番になり、会計が素早く終わった。
「今日の店員やたら早いな」
ドッペルゲンガーが呟く。
呟いてから、何か察したような顔をして弥一を見た。
「寄り道せずに早く帰れって事かもな。行こうぜ、白浜弥一」
ドッペルゲンガーに促されるまま、足早でアパートへ向かう。
道中、偶然とは思えないタイミングで信号が全て青に変わる。
困惑する弥一の隣で、ドッペルゲンガーが含み笑いをした。
「こりゃあ、マジで何かあるかもなぁ」
「何かって、天音に……?」
「だろうな。荷物持ってやるから走れよ」
言われるままに、目の前の石段を駆け上がる。駆け上がった先では見慣れた古いアパートが夕日に赤く染められていた。
一見なんの変哲もない、いつもの光景。
それなのに、妙に心がざわついてアパートまで一気に走り抜けた。
錆びた階段を登り、自部屋の冷たいドアノブを回す。
靴を脱ぐよりも先に、狭い部屋を覗き込んだ。
電気もついていない、赤い光が射し込む部屋の真ん中で、天音の細い金の髪が照らされている。
微動だにせず、うつ伏せで横たわる天音の顔は見えない。
いつもなら、顔を上げて「遅い」とぼやくはずなのに。
「天音」
近寄って声をかけるが、瞼が開く気配は無い。
「おい、天音」
今度は少し大きい声を出す。
それでも天音の反応はない。
肩に手を添えて揺すると、肌が冷たくて体が妙に軽いのがわかった。
「あ〜、そりゃあ消えかけてるな。ほら、足なんかもう薄くなってる」
何時の間にか後ろに居たドッペルゲンガーが、弥一と天音を見下ろす。
言われて見た天音の足は、薄く透けていた。
「どうして……」
焦る弥一に、ドッペルゲンガーは首を傾げた。
「力使ってから対して回復できてなかったんだろ。っていうか、なんで放っておいたんだ?」
今度は弥一が、首を傾げた。
その様子にドッペルゲンガーは察したように頷く。
「ああ、知らなかったのか。どうする?助ける方法知りたい?」
「当たり前だろ!?」
「本当にそれでいいのか?」
ドッペルゲンガーの言っていることがわからず、顔を顰める。
そんな弥一の表情を見て、ドッペルゲンガーが軽快に笑った。
「別にいなくて良いじゃん、そいつ。願い事なんて無いんだろ?だったら消しちゃおうぜ。それに元々消される予定だったんだから、居なくなったって誰も困らないし」
「……どうしてそんな事言うの」
「迷惑してんだろ?生活費だって二人分かかる。だから遠征のバイトに行った。しかもそのバイト……」
「違う」
言葉を遮る。
その否定に、ドッペルゲンガーは口を閉じた。
「こいつがいないと、困るんだ」
「へえ。街焼いてお前を殺そうとしたやつなのに?」
「確かにこいつは平気で人を殺そうとするし、我儘で狡賢くて素直じゃない。それでも俺の願い事だけは叶えようとしてくれる」
「お前のためじゃない。天界は下界と違って住みやすいから早く帰りたいだけだろ」
「理由なんてどうでもいい。でも今はまだ、こいつが必要なんだ。だから、助ける方法を教えて欲しい」
お願い。
そう言って弥一が頭を下げると、ドッペルゲンガーはすぐに「いいぜ」と答えた。
相変わらず、考えていることがわからない。
「まあ助けられるかはわからんが。俺の憶測だから、失敗しても恨むなよ」
「わかった」
「多分、こいつは天界を出てからずっと体力を消耗していたんだと思う。天界の奴等はさ、長くても一月程度しか下界に居られないのよ」
体力を消耗していた天音は、本来ならばすぐに消えていた。
それが今まで生きていて、炎を出す等の神の力を使えていたのは恐らく弥一のおかげだ、とドッペルゲンガーは語った。
「俺、何もしてないけど」
「街焼こうとする前に、お前の力吸ったんだろ?」
「……なんで知ってるの?」
「俺はなんでも知ってるんだぜ。まあ今のは当てずっぽうだけど」
とにかく、とドッペルゲンガーが話を続ける。
「同じことすりゃあ良いんだよ」
「同じこと?」
「キスだよ。チュウ、接吻」
ドッペルゲンガーから弥一が目を逸らす。
嫌そうに顔を顰めて、ぎゅっと唇を固く結んだ。
「キス以外の方法は?」
「ここまで消えかけてると、口から力を摂取した方が良い。つーか、何嫌がってんだよ。こいつ顔だけは良いんだからキスくらい何てことないだろ」
「そういう事じゃなくて……」
「恥ずかしいのか?よし、わかった。俺は外に出てるから、さっさと済ませろよ」
そう言うと、ドッペルゲンガーは足早に部屋から出ていってしまった。
……恥ずかしい訳ではない。キスという行為自体に抵抗があるのだ。
しかし他に方法は無い。
(なるべく、何も考えないようにしよう)
天音の細い肩を抱く。
頭を持ち上げ、端正な顔に近付き、薄ピンク色の唇に触れる。
躊躇いがちに唇を重ねれば、柔らかくて、ほのかに良い香りがした。
それに、なんだか甘い。
普通の男なら、きっと理性を捨てて貪り付いてしまうだろう。
そんな魅力があるのは、人間じゃないからだろうか。
何も考えないようにしようと思ったのに、意に反して様々な思考が浮かぶ。
そろそろ唇を離そうとした所で、天音の長い睫毛が微かに揺れた。
「天音」
呼び掛けに、眉毛がピクリと動く。
それからゆっくりと瞼が開いた。
「や……いち……」
掠れた声が名前を呼んだ。
美しい紅色の瞳は弥一をはっきりと写し、力の無かった手が、服を掴む。
「お前、どう……して……」
「願い事、まだ決まってないからね」
天音が薄く笑う。
紅色の瞳を細めて、軽く唇を吊り上げた。
「馬鹿だな、お前は」
そう言って、天音は弥一の肩口に頭を預けた。
弥一からほのかに香ってきたのは、ボディソープのような甘い匂い。
それは天音の知らない匂いだった。