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4-4 古い記憶


 生きていた頃の一番古い記憶は、暗くて狭い部屋の中で腹を空かせて横たわっていた事だった。

 布団と言うにはあまりにも粗末で薄い敷物と、申し訳程度に身体にかけられた紙のようなボロ布。

 人としての尊厳など一つもない、そもそも自分が人なのかすらわからない、そんな環境で私は10年程度生きたと思う。

 

「天音、お前の瞳はいつ見ても美しいね」


 毎晩部屋へ来る中年の男は毎回そんな事を言っていた。

 男の顔は思い出したくもないし、名前も知らない。

 男は私の叔父なのだと言っていた。

 知っている事はそれだけだった。

 

 男は私の痩せた頬を撫でては、うっとりと目を見つめてくる。

 愛おしげにしていたかと思えば、唐突に殴ってくることもあった。

 動けなくなるまで痛めつけられたあと、男は決まって私を抱き締めてこう言った。


「私がこんな事をするのはお前が愛しいからだよ。これは最上級の愛情表現なんだ」


 意味がわからなかった。

 涙ぐむ私の目を見つめて、男がふっと溜息をつく。


「ああ、涙に濡れた瞳は一層美しい」


 何がそんなに美しいのか。

 美しいとは何なのか。

 私には、何一つわからなかった。

 私がわかっていたのは、この男がいなければ、私は生きられないという事だった。

 だから私はここから出ようと思った。

 こんな苦しい思いを続けるなら、終わらせた方がいいと思ったからだ。

 

 ある日、いつもは帰るはずの男がこの部屋に泊まった。

 男が眠った事を確認して、私は開けるなと言われていた扉を開け、初めて部屋の外に出た。

 目の前にあったのは、上に伸びた長い階段。

 その階段を登って小さな扉を開ければ、ようやく外に出る事ができた。


 初めて見た外の世界は、部屋と同じように真っ暗で、それでも部屋よりずっと広くて、不思議な匂いがした。

 私は行く宛も無く、よろよろと歩いた。

 しかし少し歩いてから、すぐに躓いて転んでしまった。まともに歩いた事がなかったから、当然だ。

 初めて嗅いだ草の匂いと感触が新鮮で、しばらくそのまま横たわっていると、私に声をかけてくる者がいた。


「……あの、大丈夫ですか?」


 叔父以外の人間を初めて見た。

 背が高くて、顔に皺がなく、瞳が大きくて、溌剌とした、優しい声の青年。

 青年は私の前まで来た所で険しい顔をした。

 行灯で照らして初めて、私の異常な格好と傷に気付いたのだ。

 私が黙って目を瞑ると、青年は焦ったように駆け寄ってきた。

 気を失ったと思ったのかもしれない。


「え……?!あの、声きこえますか!?」


 私は答えることができなかった。

 言葉を殆ど知らなかったからだ。何をどう言えば伝わるのか、どうすればこのまま逃げることができるのか、わからなかった。

 だから青年の腕を握ってみせると、私に意識がある事に安心したのか、ほっと溜息をついた。


「大丈夫、何もしないから心配しないで」


 青年はそう言って、優しく微笑んだ。

 こんなに優しく笑いかけられたのは初めてで、私は青年の大きな手を握って、顔を見上げた。

 このまま逃げられるかもしれない。

 そう思った。


「何をしているのかね」


 私の顔が引き攣った事と、背後で突然声がしたことに驚いた青年が後ろを振り向く。

 瞬時に、叔父は私に向ける時とは全く違う表情で人当たりの良い笑顔を浮かべて、青年の肩に手を置いた。


「ああ、きみか。すまないね、その子は私の家の子なんだよ」

「地主様の……?あの、でも」

「身寄りの無い娘でね、私が預かっているんだよ。病気がちで外にも出られないし、うまく喋る事ができないんだ」


 青年の言葉を遮り、早口で言い切ると、叔父は素早く私の腕を掴んだ。

 何かを言おうとしている青年へ早々に別れを告げ、強引に私を引き摺って、地下の部屋に戻る。

 部屋に入った瞬間、私は床に叩きつけられた。


「ここから出てはいけないと、あれほど言っただろう」


 身体の痛みで起き上がれない私に跨がると、叔父は私の顔を両手で掴んで、瞳を覗き込み、奇声を上げた。


「その眼に映していいのは私だけだったのにっっ!!!ああああ……それなのに、何ということだ!!!」

 

 皺だらけの大きな手に力が入った。

 眼の周りの皮膚を撫で回し、力を込めて、無理矢理眼を見開かせられる。

 恐怖に震える私の顔が面白かったのか、叔父は嫌らしい笑みを浮かべた。


「お前は私の物だ。そうだろう?」


 その笑いが、私の見た最期の光景だった。


 次の瞬間には、眼の前が真っ暗で何も見えなくて、眼があった場所に酷い激痛が走っていた。

 その激痛に悲鳴を上げる私の声と叔父の笑い声が私の耳に入る。

 私が声を上げなくなったら、今度は身体を抱えられた。

 恐ろしいのに泣く事もできず、震える私を叔父はどこかへ運ぶ。

 外の匂いと風を肌で感じて、部屋から出たのだということを理解した。

 それからすぐに、私の体が宙に浮いたような感覚が走った。

──正確には、海の中に落とされたのだが。


 塩辛い水が私の喉を通る。

 瞳のあった場所が焼けるように痛い。

 苦しくて藻掻くのに、上から抑えつけられて思うように動く事ができない。

 私をこんなふうにした、あの叔父が憎い。

 冷たい塩水の中で憎しみを抱えたまま、私の短い生涯が終わった。

 

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