3-7 チャイ
木陰からドッペルゲンガーが顔を出す。
まるで何事もなかったかのように軽く手を上げて「よう」と言ったあと、ゆらゆらと二人の前に出た。
「あれは俺が何とかしておく」
「何か企んでいるのか?」
天音がじろりと睨みあげる。が、ドッペルゲンガーは軽く笑ってみせた。
「企んでねーよ、悪かったって言ってるんだ。マスターの悪い癖でさあ、たまにああやって癇癪起こすんだよ」
へらへらと笑いながら言われると、あまり悪びれてるようには見えない。
そんなドッペルゲンガーが、指を弾く。
ぱちん、という軽い音がすると同時に大量の水が降り注ぎ、上がっていた炎の柱はすぐに消えて、焼け焦げたペンションの骨組みが煙をあげた。
「悪かったな〜、白浜弥一」
「……良いよとは言えないけど、何もできなくてごめん」
「気にするなよ」
ドッペルゲンガーがまた笑う。
いつもの事だと、あっけらかんとしながら。
「不老不死なんてそんなに悪いものじゃないって、いつかわかってくれるさ。じゃ、俺はマスター連れてくるから、お前たちは早く帰れよ」
そう言って、ドッペルゲンガーは煙が上がるペンションの中へ入っていった。
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アパートに着いたのは、深夜も近くなったころだった。
夕食は外で軽く済ませ、バスも無くなっていたので仕方なくタクシーを呼んで、ようやく部屋に戻る事ができた。
冷え切った部屋の中で電気ストーブの電源を入れ、コンロでミルクを沸かす。
備え付けの収納棚からチャイのティーパックを取り出し、マグカップの中に温かいミルクを注いだ。
「不老不死ってそんなに辛いの」
電気ストーブの前を陣取る天音に、マグカップを手渡すついでに質問をする。
受け取ったマグカップを両手で包み、暖を取りながら、天音は呆れ気味に口を開いた。
「ドッペルゲンガーも言っていたが、不老不死なんて考え方次第では幸せにも不幸にもなる」
言い終わってから、ふうーとマグカップに息を吹き掛ける。
シナモンやカルダモンのスパイスとミルクの甘い香りが、ふわりと舞った。
「考え方次第か。じゃあ、どうしたらあの人は幸せになれるのかな」
「そんなもん知るか。他人のことより自分の幸せを考えたらどうなんだ」
またそれか、と弥一が笑って誤魔化す。
面白くなさそうしている天音は無視して、チャイを飲み進めていくと冷たかった身体が徐々に暖まっていくのを感じた。
温かくてまろやかでスパイシー。
そんな複雑で柔らかな飲み物を、温かい部屋でゆっくりと味わうこの時こそ幸せと言わずなんと言うのか。
電気ストーブのぼんやりとした赤い光に当たりながら、弥一はチャイの入ったマグカップを見つめた。
「俺は充分幸せだよ」
呟いたその言葉を、天音が鼻で笑う。
「本当に幸せだと思っているなら、ドッペルゲンガーの攻撃を避けようしたはずだ」
「あれは……咄嗟のことで身体が動かなかっただけだよ」
「どうだかな」
そう言うと、天音は空になったマグカップをちゃぶ台に置き、寝床にしている押入れに登って襖をピシャリと閉めてしまった。
「おやすみ天音。……今日はありがとう」
閉まっていた押入れの襖が少し開いた。
紅い瞳がゆっくりと瞬きをしてから、背中を向けられる。
言葉は一切なかったが、天音なりの返事だったのかもしれない。
その開いたままの襖は、朝起きてくるまで閉められる事は無かった。