3-6 炎上
痛みは感じなかった。
血の温かさもない。
恐る恐る目を開けてみれば、目の前で美しい白い羽根が舞っていた。
「ふざけやがって。どういうつもりだ」
横で舌打ちしている天音を見つめる。
背中から天使のような白い翼を生やし、それで弥一を守っていた。
今まで粗暴で食い意地がはっている女だけのだとばかり思っていたが、今ばかりは本当に天女なのだと、再認識することができた。
「意味なんてない、ただの八つ当たりだ。普通に生きている君が憎い。死の痛みを君も感じてみればいい」
新堂が早口で捲し立てる。長い前髪から覗く目はじっとりと据わり、眉間に寄せた皺が段々と深くなっていった。
まだ早口で何かをぼそぼそと呟いているが、その声はドッペルゲンガーの高笑いに消された。
「アッハッハ!いいねえ、天女様!ほら次行くぜ!」
ドッペルゲンガーが両手を振り上げる。
今度は刃物は現れず、突風が吹き起こった。
弥一を守っている翼の横を風が吹き抜けると同時に羽根が細かく舞い、切り刻まれていく。
赤い鮮血が弥一の頬にかかり、美しい翼からはボロボロと羽根が抜け落ちた。
「……っ!おい弥一、逃げるぞ!」
「わかった!」
言い終わる前に、天音が弥一の腕を掴む。
同時に大きな火柱で輪を描き、弥一と天音の周りに火の壁が出来上がった。
「うええ、あっつ!!マスター!俺も逃げるからな!」
ドッペルゲンガーが呆気なく退場する。
攻撃してきた割に、大してやる気が無かったのだろう。
燃え盛る炎の中を天音と弥一が共に走り抜ける。
不思議と熱くはなかった。
走る最中で炎の中の新堂を振り返ったが、彼女の姿を捉える事は出来なかった。
建物を脱出してみると、そこは森の中だった。使われていない古いペンションだったようで、炎は忽ちに木造の建物を包み込んでいく。
バチバチと音をたてて、電気すら灯っていない暗い森の中を、炎の赤い光が照らした。
「あの人、出て来ないな」
「死にたい奴なんだろ、放っておけ」
天音が冷たく言い放つ。
確かに新堂は死にたがっていた。酷い事もされた。しかし、天音の言葉に同意することはできなかった。
そんな弥一の気持ちを察したのか、天音が呆れたように溜め息を吐く。
「これで万が一死ねたら、あいつだって満足だろ」
「ああ……、そう……そうかもな」
しかし、訳もなく恨まれたままというのは、あまり気持ちの良いものではない。
炎に呑まれていく古いペンションを眺めていると、天音が「帰るぞ」と歩き始めた。
その腕を引いて、天音を呼び止める。
「なんだよ。言っておくが、あの女の為の願い事なら聞かないからな」
「そうじゃなくて、あの小屋燃えたままだと危ないだろ。早く消火してよ」
「……水は嫌いだから出せない」
「なんだよそれ!仕方ない、消防車……」
言いかけたが、懐にスマートフォンが入っていない事に気付いた。
どうやら捕らえられた時に新堂が引き抜いたらしい。
「嘘だろ……」
幸い、小屋の周りには何もない。何もないが、放っておけば周りの木々に飛び火し、大規模な火災になりかねない。
「そうだ!お前、さっきみたいに羽根生やして公衆電話まで飛んで行けば良いんじゃない?」
「羽根ならボロボロでもう飛べない。回復するのにしばらくかかるだろうなぁ」
「じゃあ願い事!今すぐ鎮火させてくれ!」
「ああ!?クソ、こんなことで……」
「俺が幸せになれればそれでいいんだろ!早く!」
顔を顰めている天音の肩を揺らして急かす。
しばらくは嫌そうに揺れていたが「うるさい」と嘆いて弥一から離れた。
「しょうがないな……」
「ちょっと待てよ」
木陰から、静止の声が聞こえた。