2-8 ホットケーキ
「なるほどなぁ。確かにあれは呪いとも言える」
朝食の準備をしながら、先程いずるに会った事と言われた事を一通り喋り終わると、後ろでじっと聞いていた天音が口を開いた。
「俺、呪いなんてかけた事ないけど」
「ガキに予言めいた甘い事言っただろ。あれだよ」
「それの何処が呪いなんだよ」
ふん、と天音が鼻で笑う。
それからキッチンに立つ弥一の前まで来て、額を突いてみせた。
言葉は呪いだ。
いずると同じように天音も呟いてから、話を続ける。
『もう寂しくなるような事はない』
『俺が何とかする』
これは弥一が別れ際に言った言葉だ。
子供に言い聞かせているように見えたが、弥一自身に言い聞かせていたのだ。恐らく、無意識に。
あの男児を幸せにしてやりたいという気持ちは本物だったが、その気持ちをより強くする為に自己暗示をかけたのだろう。
男児が幸せにならないのなら、自分は幸せになる価値が無いと、そう思い込んだのだ。
「それじゃあ幸せになんかなれるはずないから、願い事を叶えざるをえない。ふふ……お前、ただの馬鹿じゃなかったんだな」
天音が面白そうにしているのは、弥一が上の神を困らせたからだろう。
良い気味だと笑っているのだ。
「それにしても、奴らどうしてお前の幸せにこだわるんだ」
「気まぐれなんじゃないかな。暇なんだよ」
「確かに暇そうにしてる奴は沢山いるが、それならたちが悪いぞ」
「どうして?」
面白そうに吊り上がっていた天音の唇が下がった。
紅色の瞳を伏せて、何かを考えるように指で顎を触っている。
「飽きたら途中で辞めて、私は天界に戻れないかもしれない」
「そもそも、どうしてそんなに天界に帰りたいんだよ」
伏せていた瞳が上がって、弥一を見つめた。
困っているような、怒っているような、何とも言えない表情だ。
「下界は疲れるし、良い思い出がない。上の方が、よっぽどマシだ」
「……そう?でも少しは良い思い出増えたんじゃない」
そう言って、弥一が白い皿にフライパンの中の物を移した。
丸くて、茶色い、甘い匂いの何か。
それは天音の前を通り過ぎて、ちゃぶ台の上に置かれた。
手招きをする弥一の前へ素直に座ると、弥一は茶色い物の上に四角い何かを乗せて、琥珀色の液体をかけてから、天音の前に差し出した。
「御飯食べてる時のお前は、ちょっと嬉しそうに見えるよ。それって良い思い出になってると思うんだ」
「……さあ、どうだろうな。ところで、これはなんだ」
「これはホットケーキ。紅茶もあるよ。さあ、食べよう」
差し出されたナイフとフォークを見よう見まねで使って、柔らかいホットケーキの端を口に含む。
口に入れたと同時に芳ばしい香りが鼻を抜けた。
温かく、さっくりと柔らかな生地を咀嚼すれば、バターのまろやかさとメイプルシロップの芳醇な甘さが絡まり、舌の上で解けて消える。
その美味しさに、天音の瞳が嬉しそうに細まった。
「美味しいだろ?」
天音が顔を上げる。
少し戸惑ったような、恥ずかしそうな顔をして目を泳がせた後、やり場のない視線で窓を見つめて、小さく口を開いた。
「……美味い」
それはあまりにも小さくて、か細い声だったが、確かに聞こえた。
その一言が嬉しくて、もう一度聞きたいと思ったが、きっとこれ以上は言ってくれないだろう。
「いつでも作るよ。明日でも、明後日でもね」
そして明日も明後日も「美味い」と言って欲しいと、弥一は思う。
その一言と、一緒にちゃぶ台を囲むことが、幸せだと感じるのだ。
「なあ、今わりと幸せなんだけどさ、これじゃ駄目なの?」
「何言ってんだ。飯食ってるだけだろ」
どうやらこれでは駄目らしい。
神様基準の「幸せ」なのだから、きっともっと壮大な何か手に入れないといけないのかもしれない。
──幸せなんて、思い込みでどうにでもなる物なのに。
ホットケーキで甘くなった口の中を、熱い紅茶で流す。
今日もきっと楽しい日になる。
黙々と食べ進める天音を眺めながら、弥一はぼんやりとそんな事を思った。